薬草と包帯で全身を包装されたその青年が、ベッドの上で死んだように眠っていた。
 僅かに上下する胸。その胸を覆い尽くす包帯の内側からは、磨り潰した薬草が持つ独特の臭気を放っている。
 まだ若い、二十代前半の青年の精悍な顔は若干痩せこけ、脂汗が滲んだ顔色からは深い憔悴の翳が見て取れるだろう。
 が、寝息そのものは落ち着いていた。

 スッ……。

 と、そんな青年の直ぐ側で、深い闇がユルリと波を打った。
 音もなく、ただ細波のように伝わる空気の流れだけが、『彼』が存在する事実を稀薄に告げている。

「………」

 深い闇が皮膚の内側に浸透するような感覚の中で、『彼』は一人、音も無く哄笑を上げた。。
 或いはそれは、『彼』の中に根付いた感性なのだろう。
 人知れず夜の側に身を浸し、皮膚に触れる冷気を五体の奥に吸い込む時、『彼』は腔内に広がるピンとした味を咀嚼する。
 『彼』にとって夜の深闇は、真昼の太陽よりも慣れ親しんだものなのだから。
 やがて『彼』は、ほんの微かな衣擦れの音と引き換えに、懐から菱形状の鋭利な鉄棒………『苦無』を取り出した

「……………」

 横たわったままの青年を見下ろす『彼』の眼差しに、表情は………無い。
 殺意も、憎しみも、歓喜も、戸惑いの色も、その瞳には宿していない。
 まるでそうする事が当たり前のように、僧が作法通りの手順で仏具を取り扱うかのように、手に握った苦無を振り下ろす。

 ドスッ。

 くぐもった音が、闇を貫く。
 艶消しの施された鋭利な苦無は、鍛え抜かれた筋肉であっても易々と貫く。
 ましてや鍛える事が不可能な咽笛であるのなら、苦無の根元まで深々と突き刺さる。
 だが………。

「いきなり何の冗談ですか。気配に気付かなかったら、死んでおいましたよ」

 青年………立浪亮は、冷たい汗の滲んだ声で訊ねた。
 少しでも反応が遅れていれば、間違いなく咽喉を貫かれていただろう。

「あ〜、この程度の気配も感じ取れないヤツに八瀬透波(やせすっぱ)の資格はないから。死んでくれても、全然オッケー。
 っていうか、むしろ死ね?」
「この程度って………随分と見事な陰行術を使っていたように思いましたが?」
「そんな事はないよ? オレが本気で殺す気だったら、今頃亮クンはパトラッシュと一緒に地獄行き♪」
「まぁ、パトラッシュと一緒かどうかは判りませんが………。いくらなんでも、コレはちょっと酷いのではありませんか?」
「それはアレだね。月がとっても青かったからだ」
「全然理由になっていません」
「細かいねぇー。可愛い部下との再会を、ちょっとしたスキンシップで味付けしたダケなのに」

 呆れる亮に『彼』………天凪優夜は、涼しい笑顔で言い切った。



 病弱姫に花束を アナザー・メモリー 1.5部
  〜狂月の舞い 哀夜の調べ 『中編』〜

 第二話 『宿縁』を越えた絆

「………お姉ちゃん」
「はい? どうかしましたか、ラルカ?」
「この人………誰?」
「さぁ………。誰でしょうね………」

 小首を傾げるラルカに、ルルカは苦笑を返した。それを知りたいのは、他ならぬルルカ自身なのだから。
 歳は自分よりも少し上……多分、十八か十九際。まだあどけなさを残した容姿は、少なくとも二十歳を越えているようには思えない。
 軽いウェーブのかかった銀色の髪。
 憔悴していて尚も品の良さを感じさせる鼻筋の整った顔立ちに、陶磁器のような白い肌。
 そして慎ましやかながらも、キチンと自己主張を果たしている胸の脹らみ………。

(はわぁぁぁ〜〜〜。それにしてもこの人って、本当に綺麗……………)

 思わず内心でため息をもらしながら、ルルカは濡れた手拭をしぼり、汗の浮かんだ彼女の首筋を軽く拭った。
 細い首には、歌姫の証である首飾りが青味を帯びた薄い緑色の輝きを放っている。
 それは彼女が第三位階『浅葱の歌姫』であり、おそらく評議会に認められた正式な歌姫なのだろう。
 ちなみにルルカは歌姫候補として、ボサネオ島で歌術を学んでいた学生だった。
 もっとも、病弱で伏せがちだったのが災いして、正式な歌姫に昇格する遙か手前で奇声蟲の大襲来を受けてしまったのだが。
 よって現在、ルルカは今大戦の中で急増したもっとも低い位階である『黒橡の歌姫』だった。

「……………ん」

 不意に華奢な肩が、ぴくんと震えた。
 ゆっくりと澄んだ緑の色の瞳が開き、ルルカの瞳を困惑した面持ちで眺める。

「気が付きましたか?」
「こ、こは………?」
「大丈夫ですよ。ここは安全です。一緒にいた英雄さんも、無事ですよ?」
「………リョウも、無事なのですか……?」
「リョウさんというのは、ケーファに乗っていらした英雄さんの事ですよね? だったら大丈夫です。今は別の部屋で休んでいますから」

 もっとも、小さな不安はある。
 なにせ看病をしているのが、あの天凪優夜なのだから。
 眠っている事をいい事に、額に『肉』やら『米』やら、ひょっとしたら屈辱的な『骨』の落書きを書き込んでいる可能性も捨てきれない。
 ………というか、むしろ何もしていない可能性の方が遙かに低い。

「そう………。ありがとうございます………」
「い、いえ。どういたしまして。アハハハ………」

 ホッとしたような歌姫の表情に、ルルカの頬に一滴の汗が流れた。

「えっと………。わたしはルルカって言います。この子はラルカ。……よろしければ、お名前を教えてくれませんか?」
「ルルカさんに……ラルカちゃん………」

 アリシアは朦朧とした意識を振り払うように、銀色の髪を軽く左右に揺らしながら上半身をゆっくりと起す。

「あ、あの、あまり無理をしない方が………」
「だ、大丈夫ですから……。私は……アリシアです。助けていただいて、本当にありがとうございました………」
「いいえ! ……あ、そうだ。ラルカ、優夜さんを呼んできて下さい。アリシアさんが目を覚ましましたよ、って」
「ん………」

 ラルカはトタトタと軽い靴音を鳴らしながら、二階へと駆けて行った。
 部屋にはルルカと、アリシアの二人が残された。

「あの……。こんな立ち入った事を訊ねるのは失礼なのかもしれませんが、一体どうしたんですか?
 あのケーファの傷って……奏甲同士の戦闘の後ですよね? ひょっとして、誰かに追われていたりするんですか?」
「……………」
「えっと……。ホ、ホラ。事情が判れば、何か力になれる事があるかもしれませんから。
 それにアリシアさんも、アリシアさんの『宿縁』さんも、まだ身体が動かせる状態じゃないですし。
 で、ですから、ご迷惑でなければ、お二人の事情をお伺いしておきたいかなぁ〜って、思ったりするんですけど………」
「……リョウは『宿縁』ではありません」

 アリシアはポツリと言った。

「正確には、もう『宿縁』ではなくなってしまったんです………」
「………へ?」
「それに二人ではなく、三人………。私達は『三人』なんです………」
「………!? そ、それてまさか………」

 丸くした口を押さえるルルカに、アリシアが微かに頬を赤らめた笑みを向け………。

「………はい」

 愛しげに、まだほとんど目立つ事のないお腹の上に白い手を重ねた。

 それは『宿縁』を越えた絆の証であろう。
 黄金の歌姫による儀式以外に、自らの子供を宿す縁を持たないアーカイアの人々にとって禁忌であり、恐怖であり、そして……奇跡でもあった。
 ルルカにもその意味が判っている。
 アリシアの身体の中に、アリシア以外の生命が宿っている事を。

 だからルルカは………あどけなさを残したその面持ちを………輝きに満ち溢れされたのだった。

「す、凄いです! 凄いですよアリシアさん! おめでとうございます!」
「あ、ありがとう……ルルカさん………」
「いえいえいえいえいえ! ああ、もう、何て言ったらいいんでしょうか! 羨ましいです。本当に!」
「………ルルカさんは……その……『宿縁』の方とは……?」
「優夜さんですか? あの人は、ダメです。ダメダメのダメダメさんです。いっつも遊んでばかりで、ウソつきで、厄介ごとばっかり捲き起こして………」
「……………」
「わたしがいないと、次の日には一文無しで路頭に迷うようなヘッポコ英雄なんです。『宿縁』じゃなかったら、とっくに見放しています」
「………そう、なんですか。とても仲がよろしいんですね」
「へ………ち、違いますって!」
「好き……なんですね」
「すっ……!」

 穏やかに微笑むアリシアに、ルルカは自分の耳が真っ赤になっている事を自覚した。

「お姉ちゃん………?」

 と、そこへ二階から、ラルカが一人で戻って来た。

「あ、ララララ、ラルカぁ!?」

 声が完全に、引っくり返っていた。

「? お姉ちゃん、顔があ真っ赤………」
「なななななんでもないんですよ? それよりも、優夜さんはどうしたんですか?」
「いなかった」
「居なかったって………え?」

 ルルカはキョトンと、ラルカを見据えた。

「お兄ちゃん居なかった。リョウさんも、居ない。……お財布も、なくなってた」
「…………あ、あの人は〜〜〜っっ! 帰ったら絶っっっ対に、お仕置きです!!!」

 ルルカは小さな拳を握り、ブワリと金色の髪を逆立てた。
 何事かと目を丸くするアリシアに、いつもの澄まし顔で平然としているラルカ。

「あの、優夜さんとルルカさんは、仲がよろしんですよね?」
「ん……。お姉ちゃんとお兄ちゃん、仲良しさん」
「………ですよね」
「ん………」

 頷くラルカに、アリシアは困ったような複雑な笑みを浮かべた。

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