第一話 ルルカと優夜と平凡な朝


AM06:20

 小さな目覚ましの音を合図に、ルルカはもそもそとベッドから這い出した。
 薄く瞼を開けると、カーテンの隙間から小鳥の囀りと一緒に、朝の光りが差し込んでいる。

「………ふわぁ」

 小さなあくびを噛みしめて、涙の滲んだ琥珀色の眼を擦る。
 やがてルルカはノロノロとした動作で、パジャマを脱ぎはじめた。
 微かに響く衣擦れの音。
 細くユリのような手足の上を、薄い朝日が白く滑り落ちる。
 良く言えば痩せているが、悪く言えば肉付きが薄い。
 どこか儚さを残した真っ白な身体は、何度も入退院を繰り返していた幼い頃の、名残りのようなものだ。

「うぅ〜〜〜」

 寝ボケ眼のまま、ルルカはクローゼットに掛けてあった大十字学園の制服を手に取った。
 大十字学園は制服指定こそあるものの、私服で通っても構わない自由な学園である。
 ルルカは、しかし入学式からずっとこのブレザータイプの制服を着用し続けてきた。
 なんとなく私服よりも制服を着た方が、自分が「お姉さん」に見えるような気がするからだった。

 着替えを済ませると、ゾンビと幽霊の中間のような足取りで洗面所に移動し、軽く洗顔と歯磨きをすませる。
 寝癖のついた金色の髪を梳かしていくと、次第に意識がしっかりとしてくる。
 キッチンから淹れたてのコーヒーのかおりが漂ってきた。
 ベーコンを焼く香ばしい音も聴こえる。
 今朝の朝食は焼きたてのトーストにベーコンエッグ、それにトマトのサラダもあるだろうか?
 食欲を刺激される匂いに誘われて、ルルカはキッチンに足を運んだ。

AM07:00

 鞄の中身を確認する。
 教科書とノート、今日が提出の宿題にプリント、お弁当、その他の小物も入っている。
 大丈夫。忘れ物はない。

「それじゃ、行って来ま〜す」

 HR開始まで、まだ一時間以上もあったが、ルルカは構わず黒いローファーに小さな足を通し、玄関を後にする。
 調理部兼光画部のルルカには、朝錬の類いとも無縁だ。
 加えて彼女の家は、自転車を使えば15分程度で登校が可能な距離にある。
 そんなルルカが、本来ならこんな時間に家を出る必要はない。
 実際、同じ学園に通う妹のラルカは、まだベッドの中で静かな寝息をたてている頃だろう。

 しかし………。

 自宅の小さな門を出たルルカは、最初の一歩を学園へ………は、向かわない。
 朝の空気を身体に深く吸い込んで、ルルカは北風に挑む小鳥のような眼差しをつくり、お隣さんの玄関へ踏み出す。
 そして『天凪』の表札が掛かった玄関の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
 反応は………ない。が、これは予想通り。
 次は扉に手をかける。施錠はされておらず、天凪家の第一ゲートはルルカに前にあっさりとその進入路を啓開した。
 ルルカは小さな吐息をもらした。
 毎度毎度のことながら、無用心にもほどがある。
 いくら注意をしてもコレなのだから、この家の住人のいい加減さがよく判る。

「おじゃましま〜す」

 一応、挨拶を入れて玄関に上がる。
 人気のない静まり返ったリビングは無視して、二階の部屋で熟睡中の幼馴染み……優夜の部屋に向かう。

「優夜さん、起きていますか〜?」

 無駄とは知りつつ、一応声は掛けておく。
 以前に一度、油断をして中に入ったら『着替え中にバッタリ』という、絵に描いたようなお約束と遭遇した事があった。
 もっともそれは自分の不注意というよりも、優夜の身体を張った嫌がらせだと確信しているが……。
 果たして、返事はなかった。
 別に珍しい事ではない。いつもの事だ。

 ガチャリ。

 ノックの後、ドアを開ける。
 小さなクローゼットと、スチール製の椅子に机。後は本棚が一つ……それが優夜の部屋の全てだ。
 TVはない。机の上に薄いノートPCが一台あるが、ルルカは優夜がパソコンを使っているところを見たことがない。
 フローリングの床には、ありがちな洗濯物やゴミの類が転がっているわけでもなく、雑誌はキチンと部屋の隅に重ねられている。
 ルルカも詳しくは知らないが、同年代の青年にありがちな生活臭といったものが、この部屋には微塵もない。
 ありていに言えば殺風景で……無味無乾燥なのだ。

 これだけ部屋の中は毎日片付いているのに、どうして部屋の主はいい加減なのだろう?

 鍵も掛けず目覚し時計すらセットせず、未だベッドの中で熟睡している優夜という存在が、時々ルルカには判らなくなる。
 判らないといえば、そもそもどうして自分が毎朝優夜を起こしに行くのかすら、謎である。
 いや、本当は判っていて、敢えて判らないフリをしているような気もしないでもないが、とにかくこのまま放っておくのも気が引ける。
 ……まったく、仮に明日から自分が起こしに来なくなったら、どうするつもりなのだろう?
 考えるまでもない。きっと毎日、遅刻するに決まっているのだ。
 そんな堕落した学園生活が赦されるだろうか? 否! 赦されるハズがない!

 小さな憤慨とささやかな使命感に燃えて、ルルカは小さく拳を握る。
 そうだ。今は考えている時ではない。行動する時なのだ。

 ルルカは本棚の中から広辞苑を取り出すと、両手で持ち上げた。
 ……ちょっと重たい。でも、大丈夫。
 今まで幾つかの方法を試してきたが、ほんの少し手段が乱暴という点を除けば、これに勝る方法はない。

「……………」

 ルルカは無言で、優夜の枕元に立つ。
 そして頭上に掲げた広辞苑を………振り下ろした。

 刹那!

 ………何も起らず、『ビタンッ!』という鈍い音が響いた。



「なぁ、ルルカさん。もう少し、こう………優しい起こし方は無理なのかい?」

 真っ赤になった額をアイスノンで冷やしつつ、優夜が網の上で焼ける鮭の切り身をひっくり返す。
 しっかりと焼き目の付いた切り身から、ジューっと香ばしい音が弾けた。
 優夜は焼き目を確認した後、茹でたホウレン草を冷水につけササッと水を切り、割り醤油の準備に取り掛かる。
 そんな優夜の隣りで、ナベに入ったお味噌汁をかき混ぜながら、ルルカはにべもなく言い切った。

「アレくらいやらないと、優夜さんは一回で目を覚ましてくれません。優しくなんて時間の無駄です」

 言いつつ、ルルカはチラチラと優夜の手際を覗き見る。
 相変らず、手際がいい。
 確かに焼鮭やホウレン草のお浸しも、一つ一つは比較的簡単な料理だが、同時進行となれば話しは別だ。
 それにかき混ぜているお味噌汁だって、自分が作ったものではない。ダシを取ったのも豆腐を切ったのも、全部優夜だ。
 ルルカはグッと、お玉を握り締めた。
 非常に屈辱的な事実なのだが、味も手際も含めて、優夜の方が料理が上手い。
 その差を埋めるべく高校に入ってからは調理部に入ったのだが………その差は未だ、縮まっていない。

「できれば明日から、もうちょっと別の方法がいいなぁ〜」
「別の方法ですか? だったらステンレス製のフライパンを使いましょうね。軽くて丈夫で、きっと一発で目が覚めます」
「逆に目が覚めなくなるかもって、思ったりしないのかい?」
「優夜さんなら大丈夫です。なんなら六法全書にチャレンジしてみます?」
「ん〜〜〜。さすがにソレは、ちょっと死ぬかも」
 
AM07:40
 
 テーブルの上に、朝食が並ぶ。
 ご飯、豆腐の味噌汁、焼鮭、ホウレン草のお浸し、そして………。

「いやぁ〜。今日の納豆は、一段と糸を引くねぇ〜〜〜」

 小鉢の中の納豆をぐるぐると回し、ほくほく顔でご飯の上にぶっかける。
 さらに生卵を乗せ、醤油を掛けて口の中にかきこむ。
 納豆と生タマゴがダブルで苦手なルルカにとっては、信じられないような光景だ。

「おかわり〜」
「はいはい」

 優夜の差し出す茶碗に、カシャカシャとご飯を盛るルルカ。
 嬉しそうに再びご飯をかきこむ優夜の食欲に、ルルカは眉をひそめた。
 優夜は朝から三人分は食べる。
 別に大柄でも運動部に入っているわけでもないのに、これだけの量を食べる。

 しかも、太らない!

(女性の敵ですね………全く)

 みるみる内に減っていく三人分の朝食に、ルルカは小さなため息をついた。

「毎朝毎朝、本当によくそれだけの量が食べられますね」
「ん〜? これでも腹六分目くらいに抑えているんだけどなぁ〜」
「六分目………」

 軽い目眩をルルカは感じた。

「ま、何にしてもだ。毎朝キチンと朝食を食べる。これが健康な日常を維持するための、ささやかなコツだね」
「………今でも充分、優夜さんは健康を維持していると思いますけど?」
「だから、それこそ毎朝キチンと朝食を食べている成果なのだよ。判るかな、ルルカくん?」
「はぁ。なんだか合っているような、間違っているような………」

 首を振りつつ、ルルカは優夜が朝食を食べ終わるまで、リビングのTVに視線を向けた。
 今日の占いは、良くも悪くも普通だった。
 ちなみにラッキーアイテムは何故か「自転車」。
 それは絶対にウソだろうと、ルルカは超有名占い師に心の底からつっ込んだ。

AM08:10
 
「さて、いよいよ今朝もお楽しみに時間がやってまいりました」
「………わたしは別に、楽しみにしてませんけど」

 優夜の用意したルスフォン印のママチャリを前に、ルルカは僅かに声を堅くする。
 HR開始まで、残り20分。
 自転車を使わない限り遅刻確定なのはルルカも理解しているが、どうしても『コレ』に慣れる事はできそうにない。

 幼馴染みの男女が、自転車に二人乗りして登校する。
 まさに絵に書いたような、王道ラブコメのシチュエーション。
 なのに、ルルカはちっとも嬉しくない。
 何故なら自転車をこぐのが、他ならぬ「優夜」だからだ。

 天凪優夜を知る人間なら、きっと十人中十人がルルカの言わんとする意味を察し、涙で同意してくれるに違いない。

「んじゃ、時間がないからそろそろ行くぞ〜」
「わ、ちょっと待って下さいよ」

 慌ててルルカは自転車の荷台に腰を降ろした。
 もちろん跨ったりなどせずに、両足をそろえた女の子座りである。

「発進!」
「わわわっ!」

 急発進した自転車から危うく振り落とされそうになり、慌てて優夜の腰にしがみつく。
 そのロケット加速は、二人乗りのママチャリという概念を遙かに突破していた。
 グングンとスピードを上げ、風を切り裂き、追い越した風景が猛スピードで流れてゆく。
 交差点が迫った。
 信号は赤だったが、優夜に減速する気配はない。
 サドルから立ち上がり、立ちこぎ立ちこぎ、更なる増速。

「突破ァ〜〜〜! 赤信号、みんなで渡れば大惨事ィ〜〜〜!」
「だったら渡らないで下さい!」 

 ほとんど悲鳴に近いルルカの声を無視して、横断歩道を突破する二人乗りのママチャリ。
 目を丸くするオバサンに、ポカンと口をあける小学生。
 そしてけたたましいクラクションを響かせ、危ういタイミングで過ぎ去ってゆく軽トラック。

 と、ルルカはここで、奇妙な違和感に気がついた。
 いつもと道が違う。
 いや、違うというよりも、これではむしろ反対方向。
 秒単位で、確実に学校から遠ざかっているではないか!

「ゆ、優夜さん! コッチは道が違いますよ!?」
「ああ、気にしない気にしない! ちょっと行きがけに、借りてたビデオを返しに行くだけだから!」
「そんなの放課後でもいいじゃないですか!」
「や、それはマズイでしょ? だって『濡れた放課後』云々の、ちょっとドキドキなタイトルが付いたビデオだから」

 ちなみに優夜は19歳。
 だからお子様が見られないビデオを観賞しようが、一応は全く問題はない。

 と、いうか、問題はソコじゃない。

「そんなビデオを借りないで下さいぃぃぃ!」

 ルルカは涙混じりに大声で叫んだ。
 無駄だと判っていても、叫ばずにはいられなかった。

 坂道を下り、もはや違う次元へと加速を続ける暴走ママチャリ。
 ゴムが焦げる嫌な臭いを振り撒いて、チェーンが軋んだ悲鳴を叫ぶ。
 遂には原付すらも追い越して、ママチャリは尚も意図的な暴走を続けるのだった。



第一話 ルルカと優夜と平凡な朝 (終)



あとがき
と、いうわけで、学園SS第一弾です。
本編SSでも大活躍中(?)の優夜とルルカが、現代学園モノに登場したらどうなるのか? その一つの答が、ここにあります。
ちなみにタイトルは、間違いではありません。
きっと優夜とルルカにとっては、これでも平凡な朝の一コマなのです。

さて、この後二人は、無事に学園に辿り着けたのでしょうか?
その辺りは第二話になると思いますでの、よかったら気長に待ってみて下さい。
ではでは。

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