「……………」

 その少女はキョロキョロと周囲を見渡すと、鞄の中から白い封筒を取り出した。
 宛名も、差出人の名前もない、真っ白な封筒。
 少女はもう一度、周囲を確認した後、思い詰めた面持ちでおもむろに靴箱の一つを開ける。

 ……これでいい。これでいいのだ。
 こんな事をしても何も変わらない事くらい、少女も知っている。
 だが、これで少しでも自分と………何より皆の気が晴れるのなら、それでいい。

 自らに言い聞かせ、少女は封筒を靴箱の中に入れると、静かに蓋を閉じた。

 刹那………。

「さて、説明してもらおうか?」
「っ!?」

 唐突に、少女の背後で声が響いた。
 少女は驚き、振り返って二度驚く。
 眼差しの先に佇んでいたのは、『特組』の中でも無愛想ながら端整な顔立ちとストイックな雰囲気が、
 女子生徒の間でも密かに人気を呼んでいるレグニスだった。

「そこは『特組』の靴箱だ。少なくとも、お前の靴箱ではないはずだが?」
「………っ!」

 少女は踵を返そうとしたが、すかさずレグニスがその肩を掴む。
 大十字学園に編入される前まで、特殊な環境で訓練を受けてきたレグニスにとって、素人の少女を捕獲する事など赤子を捻るようなものだ。

「は、離して下さい!」
「悪いが、それはできない」

 無情に言い放つレグニス。
 やがて二人の耳に周囲に、玄関ホールに雪崩込んでくる複数の靴音が響いた。



風は南に夜は北に  第二話 『ルルカと優夜と靴箱の手紙・後編』



 少女は名前を、霧島澪と名乗った。
 大十字学園の高等部に通う一年生で、バトミントン同好会に所属しているという。

「で、どうしてルルカの靴箱に、カミソリレターなんか入れたワケ? 悪質にもほどがあるわよ?」
「何か訳がおありなのではありませんか?」

 ベルティと桜花の問いに、澪は驚いたように面持ちを跳ね上げた。

「ち、違います! わたしルルカなんて人、知りません!」
「澪殿といったか。この期に及んで、それは少し見苦しいのではないか?」

 腕を組み、苦り切った口調でブラーマ。

「そうだそうだー。ここまで状況証拠が揃ったら、ベルティだって素直に開き直るぞぉー!」
「なんか言ったか、このチビ助っ!」
「そんな事を言われても、わたしは本当にルルカなんて人を知らないんです! 嘘じゃありません!」
「……………」

 言い返す澪の言葉に、ルルカも少し困惑した。
 ルルカも澪とは面識がない。記憶が間違っていないければ、コレが初対面のはずだった。
 もちろんお互いの名前も知らなければ、接点すら見当たらない。
 同じ学園に通っている赤の他人、という関係が一番近いだろう。

「まぁ、ここで言い争うよりも、決定的な証拠を見せ付けた方が手っ取り早いんじゃないの? 現場はレグが押さえているワケだし」
「貴様にしては実にまっとうな意見だな、優夜」
「………っ!」

 レグニスが言うと、澪がキッと唇を結び、鋭い眼光を優夜に向けて飛ばした。

 なんだろう?
 ルルカは澪の眼差しから、むき出しにされた敵意のようなものを感じた。
 それは明らかに、自分や他の誰かに向けられる眼差しとは、別種のものだった。
 が、今はそれよりも、靴箱の中を確かめるのが先である。
 ルルカは自分の靴箱の中を覗き、大きな瞳を瞬かせ………小さく首を捻った。

 ……何もなかった。
 より正確には、自分の上履き以外には……だが。

「あの〜〜〜。何も入っていないんですけど……?」
「うそっ!? ちゃんとよく調べてみたの!?」

 ベルティが割って入るようにルルカの靴箱を覗き込むが、結果は変わらない。

「どういう事だ、レグ? お前は彼女が手紙を靴箱の中に入れる瞬間を、目撃したのではなかったのか?」
「ふむ………。手紙の件は、間違いない。が、入れた場所が違うな。俺が見たのはそこではなく、コッチなのだが……」

 と、レグニスが指し示した靴箱には『天凪』のネームプレートが、しっかりと貼り付けてあった。

「………って事は、だ」

 今度は優夜が、おもむろに自分の靴箱を開ける。
 果たしてそこには、真っ白な封筒が入っていた。

「いやぁ〜〜〜。そうかそうか。そういう事だったのか」
「? 一体、何がそういう事なのでしょうか?」

 ひとりで納得する優夜に、桜花が困惑した面持ちを向けた。
 優夜は自信たっぷりに言った。

「つまり、コレはオレ充てのラブレターってことだ。間違いない」
「えぇぇぇっっ!!?」

 ルルカは思わず、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
 驚きのあまりに、心臓がドクドクと飛び跳ねる………いや、これはもう飛び跳ねるどころの騒ぎではない。
 不安と驚愕が奏でるフルオーケストラに、足元すら覚束ない。

「……そうかなぁ。ボクは絶対に、間違いだらけだと思うけどなぁー」
「ありえないって。あの男にラブレターだなんて、そんなの天地が引っくり返っても絶対にありえないって」
「だよねぇー」

「んじゃ、さっそく今ここで、一途で初々しい乙女の内面を綴った甘酸っぱい文章を………」

 ビリビリビリ………!

 優夜は無造作に便箋の封を切り………不意に、その緩んだ面持ちを凍りつかせた。
 
「! 優夜さんっ!?」

 ルルカは鋭く息を呑んだ。
 破れた便箋の隙間から、カミソリの刃が顔をのぞかせていた。
 優夜の指が瞬く間に血塗れになり、ポタポタと足元に赤い雫がこぼれ落ちる。

「ず、随分と過激な愛情表現で………?」

 額に浮かんだ脂汗に長い前髪を張り付かせながら、それでも優夜はのたもうた。

「………いい気味だわ! そのまま指を切り落として、二度と盗撮なんか出来なくなればいいのよ!」

 激しく叩き付けるような澪の言葉に、優夜とレグを除いて全員が目を丸くする。
 もっともレグニスは「……ふむ?」と判っているような、いないような曖昧な反応で、今一方は「血がぁ〜血がぁ〜!」と今さらの様に騒ぎだし、
 人の話しなど全く訊いてないダケだったりするのだが………。

「このカミソリレターは………それじゃ今朝、この手紙をわたしの靴箱に入れたのは、やっぱり貴女だったんですね」
「ドクドクって! 血がドクドクって溢れてるぅ〜〜〜!」
「………違います」

「違うって……でも、この手紙は確かに………」
「うわ、これメッチャ深っ! 血が止まらないって、マジで!」
「その手紙は確かに私が出しました。でも、靴箱に入れたのは昨日ですし、そもそも入れたのはソコの天凪って人の靴箱です!」

「優夜さんの…………って、どうしてそんな事を?」
「衛生兵っ! 衛生兵ぃぃぃ〜〜〜!」
「それは………この人たち光画部が、私達バトミントン部の盗撮写真を使って、脅迫をしてきたからです!」
「きょ、脅迫って!?」
「衛生兵〜〜〜! もしくはベルティちゃん唇で、切れた患部をチュッチュしてぇ〜〜〜!」

「って、さっきからやかましいです!」
「誰がするかぁっっっ!」

 スパァァァンッッ!   ドスッ!

 すかさず炸裂する、ルルカの石詰めスリッパとベルティの鋼鉄の肘!

「ガはっ!」

 前頭葉と横隔膜を貫く打撃を同時に浴びて、優夜は白目を剥いて前のめりに崩れ落ちた。


    ※     ※     ※     ※     ※


 要約すると、つまりこういう事だった。
 澪の所属するバトミントン同好会は、光画部を名乗る人物から着替え中の写真をネタに、脅迫されているという。
 出来立てのホヤホヤで、澪を含めて三人の女子一年生で立ち上げたばかりの同好会には相談できる先輩もなく、顧問の教師に話すのも恥ずかしい……。
 ならばせめてもの腹いせにと、優夜の下駄箱にカミソリレターを入れたのだと。

「うわぁ〜〜〜。最っっっ低ね、優夜!」

 話を聞き終えるや否や、鋭い眼光で優夜を突き刺しつつ、ベルティが吐き捨てた。
 そこから滲む軽蔑の色は隠しようもなく……というよりも、隠すつもりなどないのだろう。
 シュレットやブラーマ、桜花ですら、程度の差はあっても、優夜を睨む眼差しはベルティと同じ種類のものだった。

 ちなみにレグニスは判っているのかいないのか、いつの間にやら被害者から加害者に転落した優夜を、背後から羽交い絞めに押さえ付けている。
 もし仮に、優夜が暴れて逃げ出そうとするのなら、容赦なくその首をヘシ折るつもりなのだろう。

 しかし、ルルカだけは違った。

「違います! 優夜さんはそんな事をしませんっ!」

 優夜をベルティ達の湿った眼差しから庇うように、毅然として立ちはだかる。

「優夜さんは確かにバカですし、ちょっとエッチな盗撮だってしますし、いつも皆さんに沢山の迷惑を掛けていますけど………。
 でも……でも……! 本当はどうしようもない、死ぬまで修正不可能な犯罪予備軍っていうか、正真正銘完全に向こう側のキ●ガイさんなんです!」
「……………あのさぁ、ルルカ? ソレって全然、フォローになってないんじゃないの?」
「……あれ?」

 ベルティの指摘に、首を傾げるルルカ。
 ほどなくして、首から上が真っ赤に弾ける。

「あああああっ、そ、そうじゃなくてですね!? 
 優夜さんは息をするだけで酸素は減らすは二酸化炭素は撒き散らすは、心臓が永遠に停止するその一瞬まで気が抜けない歩く危険人物で、
 人を困らせたり嫌がる事しか頭にない、どうしようもないほどダメダメな人間なんです!」

「ルルカ殿……。それもやっぱり、フォローになってないのでは? ……まぁ、九割方は当人の自業自得なのだろうが」
「で、ででですからぁ!」
「ま、まぁ、つまりルルカさんは、どんなに優夜さんが迷惑な人間であったとしても、こんな事をしでかすような人ではないと、そう言いたいわけですよね?」

「そ、それです桜花さん! 優夜さんは『明るく健全な盗撮活動』をモットーに掲げている人です! 写真をネタに脅迫だなんて、そんな根暗なマネは絶対にしません!」
「確かに優夜さんって、勝算とか後先考えないで真正面から突撃して、玉砕するタイプだもんね」
「バカなだけよ、バ〜カ」

「………だ、そうだが。何か言い返す言葉はあるか、優夜?」
「ん〜〜〜。敢て付け加えるなら、ロマンの為になら命を捨てられる孤高の夢追い人、ってとろかな?」
「そうか。ならば機会があれば、是非俺を呼んでくれ。不死者にトドメを刺すにはどうすれば最も効率的か、参考にさせてもらおう」
「おやおや。レグくんがそんな冗談を口にするとは、珍しい」
「冗談ではい。俺は本気だが?」

「で、でも! 私達バトミントン部が写真をネタに、脅迫されているのは本当なんです!」
「それは、まぁ、信じよう。だが、考えてみろ。脅迫状を送ってくるような姑息な輩が、わざわざ自分を『光画部』などと名乗るだろうか?」

 ブラーマの指摘に、澪がハッとしたように目を丸くする。

「おおっ! さすがは『子作り探偵』ブラーマちゃん! 着眼点が鋭い」
「……ルルカ殿。後でこの男を磔にして殴殺したいのだが、構わないだろうか?」
「はぁ。ちょっとくらいなら、別に構いませんけど」
「いや、構うって」
「というワケだ。頼んだぞ、レグ」
「了解した」
「すなっ!」
「なるほど……。つまり色々と黒い噂のある『光画部』を名乗っておけば、確かに疑惑と追求の手はそちらに向けられると………」
 
 納得したように桜花が腕を組み、唇の表面に拳を押しつける。

「で、奇人変人揃いの『光画部』の中でも、普段から一番言動の疑わしい『女ベルティ』が犯人だって思ったワケなんだ?」
「妥当な判断だわ。私だって真っ先に、コイツを疑うし。………って、誰が『女ベルティ』かぁ!」

「とろで、あの……澪さん? 脅迫って、具体的になにをされたんですか? もしよろしければ、多少なりとも力になりますよ?」
「あ……でも………その………」

 チラチラと、澪が視線を優夜とレグニスに投げかける。
 どうやらあまり、男子には聞かれたくない話しらしい。

 レグニスと優夜を残して、女子一同は少し離れた場所で円陣を組んだ。


(…………で………使用済みの………とか………)
(うわぁ! っていうか、ヘンタイ!?)
(! そんなものを男の方が……一体、何の為に………!)
(や、やっぱり、着るつもりなんじゃないのかな………)
(……もし、そんな特殊な趣味が優夜さんにあったら、わたしは優夜さんを殺してから自分の舌を噛み切ります!)
(……………私は……それでもいいから……もう少しこう……興味をだな………)


「なぁ、レグくん? レグくんは、ああいう女の子の会話の中身に、興味とか持ったりしないワケ?」
「しない」
「イカン。それはイカンよ、レグくん。まかりなりにも、折角男女共学の学園生活を送っているんだからさぁ〜。
 こう、制服を着てプラトニックでドキドキってヤツは、今のウチしかできないんワケなんだし?」
「……貴様の言葉は、今一つ理解できん」
「はぁ〜〜〜。ブラーマちゃんの苦労が目に浮かぶようだよ。
 いいかいレグくん。青い春と書いて『青春』だ。然るにキミは枯れすぎて、青いどころか灰色。つまり『灰春』になってる。健全じゃないよ、コレは?」
「良く判らんが、なにやら貴様に言われると、妙に腹立たしいものだな(ギリギリギリ〜〜〜)」
「ぐはぁぁぁ〜〜〜。チョーク、チョーク!」


 優夜の首に巻きついていたレグニスの腕が、ギリギリと優夜の咽を絞め上げる。
 女子一同の相談と対策が終わった頃、優夜の顔色は綺麗な土色に変色していた。


    ※     ※     ※     ※     ※ 


「んで、この扱いって………何?」

 ロープで自ら手足をグルグルに縛られた優夜が、不安げな眼差しを周囲に投げかける。

 上を見ると………鉄板。
 左右を見ると………やっぱり鉄板。
 最後に足元を見ると………やっぱり鉄板。後、モップの一部が少々。
 状況………掃除用具入れの中。

「ごめんなさい、優夜さん。澪さんが、まだどうしても優夜さんを信用できないって言うものですから………」
「それはツレない……っていうか、面白くないんじゃないの? オレも一緒に、遊びたいのにぃ〜〜〜」

 グルグル巻きにした優夜を掃除用具入れの中に押し込めるのは、さすがにルルカも悪いと思わないでもないのだが、これも優夜の為なのだ。

「自業自得ってヤツよ。ま、これで真犯人が現れたら、はれて無罪放免。それまでは下唇を噛み締めながら、惨めな自分を反省してれば?」
「そうそう。ソード先生がこの場にいないダケ、マシだと思わないと」
「ま、そういう事だ。少しはそこで、頭を冷やすがいい」

 パタンッ。

 ブラーマが無情に言い放ち、用具入れの蓋を閉じる。

「さて、それではもう一度確認しよう。もし、本当に優夜殿が犯人でないのなら、18:00……つまり、下校時間ギリギリのタイミングで
 真犯人が体育倉庫の裏に現れるはずだ」
「でも、本当に現れるのかなぁ? なんか捕まえて下さいって、言ってるようなものだと思うけど……」
「どうせ写真で脅せば、女の子が言いなりになるとでも思ってんでしょ。ホラ、この前だって、ニュースで似たような事件をやってたじゃない」

「ああ、あの小学校で体操服を要求した、アレね」
「それはともかく、コチラは犯人の逃走路を計算して、二手に分かれよう。
 裏門へと抜ける経路には、レグと私と澪殿だ。正門側には桜花殿とベルティ殿、そしてルルカ殿」
「はい!」

 力強く、ルルカは頷く。
 なんとしても、これで優夜の汚名を晴らさなければならない。
 もちろん、そんな事をしなければならない義務も必要もルルカにはない。

 だが、現実に優夜の立場が窮地に立たされているのだ。
 それを見過ごす事など、できるはずがないでないか……!

 もっとも、「だからどうして見過ごせないのか?」と問われれば、ルルカはまた口ごもってしまうのだろう。
 誰にとって幸いな事か、ルルカのモノローグに疑問を投げかける人物は存在しなかった。

 見張り役のシュレットを残し、ルルカ達は教室を後にした。

「しかし、ルルカさんも大変ですね」
「………全くです。いっつも問題ばっかり起こしているから、こんな事になっちゃうんです!」
「でも、ルルカさんは信じているんですよね?」
「へ? だって、それはやっぱり、その………」
「いいですね。そうやって相手の事を、信じてあげられることは」

 柔らかな微笑を桜花から向けられて、ルルカはボンっと顔色を弾けさせた。

「そ、そんなんじゃありませんって! それにわたし、優夜さんなんか全然、これっぽっちも信じていません!」
「大丈夫、ルルカ? 顔が真っ赤よ? 熱でもあるんじゃないの?」
「大丈夫です! これ以上ないくらい、バッチリです!」
「疲れたのでしたら、いつでも言って下さいね。時間はまだ、30分以上もあるのですから」


 そして、アッという間に三十分が過ぎていった。
 西の空は既に朱に染まり、その最深部は群青に近い色彩を帯びつつあった。
 下校時間を告げるチャイムが、頭上で響いた。
 部活動で残っていた学園の生徒達が、ぞろぞろと校門を抜けて帰宅の途に着く。

「………来ないじゃない」
「そんなハズは………」

 退屈そいうなベルティの呟きに、ルルカはキョロキョロと左右に視線を滑らせた。
 体育倉庫の前を通り過ぎる生徒は何人か居たが、裏に回ろうとする人物は一人としていなかった。

「ルルカさん。あまりキョロキョロしていては、犯人に気づかれてしまいますよ?」
「あっ………はい……」
「まさか、本当に犯人は優夜だったりするワケ?」
「ベルティ!」
「そ、そんな事は絶対にありません!」

 と、ルルカが顔を上げた、その時だった。

 シャァァァァーーーンッ!

 ルルカ達が隠れている目の前を、一台のマウンテンバイクが走りすぎ………停止した。
 次の瞬間、前輪を持ち上げて90度ターン。一気に加速して、体育走行の裏に向かって疾走する。

「しまった! 自転車って手があったんだ!」
「いけない! あの位置からでは、いくらレグニスさんでも追い付けません!」

 言うが早いか、桜花とベルティが同時に駆け出す。
 僅かに遅れてルルカも飛び出したが、足の遅いルルカでは二人との距離を縮めるどころか、どんどん引き離されてゆく。

 ましてや倉庫裏から抜け出してきた自転車とは言うに及ばず………。

「ま、待って下さいっ!」

 尚も加速を続ける自転車。
 茜色に染まった無人のグランドを一気に抜けて、校門へと走り去る。

 刹那、自転車の側面から伸びた光のムチが、犯人の横顔を直撃した。

「って、スプリンクラー!?」

 光のムチのように見えたそれは、校庭に水を撒くスプリンクラーの水飛沫だった。
 もちろんソレには、人間一人を押し飛ばすような水圧などなかったのだが、自転車に乗った犯人も唐突な水飛沫に驚いたのだろう。
 バランスを崩し、マウンテンバイクは派手に転倒してしまった。
 そこへすかさず、桜花とベルティ、そして事態に気づいたレグとブラーマが殺到する。

「っしゃあ! 捕まえたぁ!」

 夕焼けのグランドに、ベルティの雄たけびが高らかに轟いた。


    ※     ※     ※     ※     ※ 


「………シュレット。ちょっと、シュレット!」
「う……ぅん………?」

 机に突っ伏していたシュレットが、半分まだ眠っていそうな眼を擦りながら、ゆっくりと顔を上げる」

「あ……お早う、ベルティ」
「お早うじゃないわよ! アンタこっちが大変だったってのに、なに呑気に寝ているワケ!?」
「………アレ? ボク、寝ちゃってたんだ? ………それで、どうなったの?」

「ったく、呑気なものね。解決よ解決。犯人は三年の男子生徒。最近、成績が伸び悩んでムシャクシャして、つい魔が差したんですって。
 言い訳としては最低ランクだけど。……まぁ、桜花とレグニスが本気でシメていたから、二度とこんなバカな真似しないんじゃないの?」
「そっかそっか。んじゃ、一件落着って事だね。メデタシメデタシ」
「メデタイんだかどうなんだか………」

 ベルティは肩をすくめ、掃除用具入れに視線を転じた。

「大丈夫でしたか、優夜さん?」

 ルルカが蓋を開けると、中か優夜が転がるように出てくる。

「ううぅ〜〜〜。ヒドイ、ヒドイじゃないか皆して……。後五分、こっから出してくれるのが遅かったら、ストレスで死んでいたかも………小動物みたいに!」
「そうか。それは残念な事をした。それより縄を解いてやるから、早く背中を見せろ」
「………優しくしてね♪」
「……………」

 ナイフを取り出したレグニスの手が、ピタリと止まった。
 このまま背中を突き刺してやろうか悩んでいる………ワケではなく、ロープに縛られている手首を一点に凝視している。
 
「どうかしたんですか、レグニスさん?」
「いや……なんでもない………」

 レグニスは呟き、優夜のロープを切断した。


    ※     ※     ※     ※     ※ 


「しかし、人騒がせな話だったな、レグ」

 帰り道、ブラーマは濃紺に染まる空を眺めながら、呆れと安堵を混ぜ合わせたような微妙な声質で語りかけた。
 『特組』に編入されて以来、大小様々な騒動を見てきたクラス委員長のブラーマだが、今回の一件は五本の指に入る一件だ。
 なにせ『事』が『事』である。もしも学校の外にこの話しが洩れたりすれば、笑い話では済まなかっただろう。
 停学か、或いは退学か……。少なくとも真犯人だった三年生の生徒が、まっとうな道からドロップアウトしてしまった可能性は否定できない。

 全く、あの『優夜』が絡んだワリには、実に『穏便』に事が終息したものである。

「……………」
「? どうかしたのか、レグ?」

 横を歩くレグニスの、押し黙ったしかめ面に、ブラーマは微かに眉を歪めた。
 レグニスの仏頂面はいつもの事だ。何も知らない人間が見れば、いつだって不機嫌そのものに見えるだろう。
 だが、ブラーマにはレグノスの些細な表情の変化を読み取れる、稀有の人間である。

 そんなブラーマが見る、現在のレグニスの面持ちは………困惑だった。

「……………いや、少し気になる事があってな」
「気になる事だと?」
「そもそも今回の一件………俺達が巻き込まれた原因は、なんだ?」

「それはあの一年生が、優夜殿と間違えてルルカ殿の靴箱の中に手紙を入れてしまった事が、原因だろう」
「そうだ。……だが、あり得るのか? ネームプレートがついた靴箱を、間違えるなどという事が?」
「それは………」

 ブラーマは、しかし言葉を詰まらせた。
 絶対にないとは言えないだろうが、確かに奇妙な話しではある。

「それに今日、もう一度あの一年生が手紙を出すなど、どうして判った?」
「それは優夜殿が………」
「その優夜が『向こうも結構、切羽詰ってる』と言ったそうだが……そもそも、何故切羽詰っているなどと、ヤツは知っていた?」
「あっ………」

 ブラーマは目を丸くして、レグニスを凝視した。
 彼の言わんとしている事が、おぼろげながら判ってきたのだ。

「あのスプリンクラーもそうだ。アレは一体、誰が動かしたのだ?」
「し、しかしだレグよ! あの時あの者は、縄で縛られてモップと一緒に用具入れの中だったはずだぞ!?」
「だが、それを見張っていたシュレットは眠っていた。あの時間、ヤツが何処で何をしていたのか、知っている者は存在しない。何より………」

 優夜の両手は、少しも鬱血していなかった。
 30分以上もロープで縛られていながら、少しも変色していなかった。
 それはまるで、ついさっきまで縛られていなかった証明であるかのように………。

 レグニスは、しかしその思考を振り払うように、頭を振った。

「いや、よそう。俺としたことが、どうも埒のない想像ばかりしているようだ」
「………ああ、そうだな。私もそれは、考えすぎだと思うぞ」
「だが………」
「だが?」
「優夜が関係していようが、いまいが…………今日みたいな一日も、変化があって………面白いものだな」

 相変らずの仏頂面に浮かんだ、小さな小さな微笑の成分。
 その微かな変化に驚き、次いで唇を少し綻ばせ、ブラーマは踊るような足取りでレグニスの前に出る。

「そうだな。普通の学校に通っていたのなら、まず体験できないような一日だっただろうな」

 そしてそんな一日が、これから何回も続くのだろう。
 平凡とは程遠い、騒がしくも愉しいのであろう、少し日常とはズレた学園生活が。
 なにせ優夜を除いたところで、あの『特組』には一癖も二癖もあるツワモノ揃いなのだから。

 だが、それでも、きっと………。

 ブラーマはクルリと振り返り、レグニスの瞳を真正面から見上げた。

「明日もきっと、騒がしいのだろうな」
「……多分、な」
「そうか……。だが、それも私は、悪くないと思っているぞ」
「……………ああ。そうだな」

 頷くレグニスと肩を並べ、ブラーマはゆっくりと歩みを進めた。


    ※     ※     ※     ※     ※ 


「……………と、以上が『彼』からの報告の全てです」

 全校生徒が帰った後の校長室に、フローネのムッツリしたような声が響く。
 バッドラックはフローね報告を聞き終えると、マホガニーの机に両肘をつきながら実に満足そうな笑みを浮かべた。

「いや、上出来だね。実に結構な結果だと思わないかい、フローネ君?」
「そうでしょうか? 私はやはり、学校側が責任を持って、不祥事に対処すべきではなかったかと………」

 不満げなフローネの声に、バッドラックは顎の下を指先で撫でながら上目づかいに彼女を見やる。

「そんな事をしたって、誰も救われないでしょ? 加害者はもちろん、被害者の女の子たちだって、変な噂を立てられたら堪ったもんじゃない」
「それは………そうかも知れませんが……。しかし、生徒が生徒を利用して、探偵ゴッコみたいな真似をして不祥事を闇に消すなどと………。
 私にはやはり、それが正しい在りようだとはとても思えません」

 バッドラックの言葉に、しかしフローネは反論せずにはいられない。
 この場に「まとも」な神経を持ち合わせた教職員がいたのなら、やはりフローネを応援するだろう。

「や、それは違うね。『みたい』じゃなくって、まんま『探偵ゴッコ』だよ。
 それに利用したんじゃなくって、自分一人で楽しむのは勿体無いから、皆におすそ分けしたんだよ。そういうヤツなんだよ『彼』は」
「………随分と迷惑なおすそ分けですね」
「そうかい? 俺もあと十年若かったら、一緒になって走り回ってみたいもんだと思っているんだがね………っと」

 言って、バッドラックは机の中から一枚の封筒と、数枚の学食の食券を取り出した。

「ま、何にしても『彼』が無事に依頼を果たしたのは間違いない。報酬は、支払わないとね」
「……………」
「安いもんだと思わないかい? Aランチ定食の食券をたったの五枚で、あの一族の人間が働いてくれるなんて……な」


    ※     ※     ※     ※     ※ 


「大体、優夜さんは普段の素行が悪すぎますから、こんな事になっちゃうんです」

 ルルカは頬を膨らませながら、優夜の横顔を上目使いに睨みつけた。
 今は自転車に乗らず、ハンドルを押しながら歩く優夜の背丈は、ルルカよりも二十センチは高い。

「や、それはオレも反省しているぞ?」
「………本当ですか?」
「もちろんだとも! これからはもっと、明るく健全な盗撮活動を前面に押し出してだな………」

 やっぱり判っていなかった。
 いや、判ってはいるつもりなのだが………どうしてこう、この人には『進歩』という言葉がないのだろう。
 ルルカはズキズキと疼くこめかみを押さえ、重い空気を吐き出した。

「本当に、お願いですから気をつけて下さい。只でさえ優夜さんは、先生達からも睨まれているんですから」
「ま、その内の半分くらいは、弱みを握っているから大丈夫だ」
「だからソレを止めて下さいって言ってるんです! 下手をしたら停学、ひょっとしたら退学だってありえますよ!」
「切られる時は、道連れ道連れ」
「明日は迷惑をかけた皆さんに、改めて謝罪しないと………」
「ん? だったらアイツらに、学食のAランチを奢るってのでどうだ?」
「妥当な線ですね。それで行きましょう」

「………お姉ちゃん?」

 と、そこへ正面から、小さな人影が走り寄ってきた。

「あ、ただいまラルカ」
「おかえり、お姉ちゃん」

 人影の正体は、ラルカだった。
 フワリと銀髪を広げて、ラルカがルルカの胸の中に飛び込んでくる。
 話をしている内に、いつの間にか家の直ぐ近くまで来ていたらしい。
 ルルカはラルカの銀髪の上に、軽く手を置いた。

「お兄ちゃんも、おかえり」
「ただいま、ラルカ」
「それじゃ優夜さん。また明日です」
「おう。また明日な、ルルカ。それにラルカも」
「………ん」

 玄関に入るルルカとラルカを見送った後、優夜は踵を返して我が家に足を向ける。

「……ま、オレが縛られるのは計算外だったけど……っていうか、全く、予想を外してくれるねぇー。『特組』の皆さんは」

 ニヤリと笑みをかたどり、玄関のノブを手握る。

「次はもうちょっと、オレもアイツらと一緒に楽しみたいな」

 優夜は独白し、締りのない笑みを浮かべたまま、家の中へと姿を消した。




あとがき
さて、後編は如何だったでしょうか?
優夜というキャラは、周知のようにトラブルメーカーですが、実は今回のように時々は………と、ゲフンゲフン。
まぁ、色々と想像にお任せします。
それではキャラを貸していただいた、各SS作家さんに感謝しつつ、今回はこの辺りで。
ではでは。

天凪優夜

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