「………目が醒めたかしら?」

 優しく訊ねかけるその声に、ルルカは静かに目を覚ました。
 
「………んっ」

 瞼の隙間に差し込む蛍光灯の明かりに、ルルカは微かに眉をしかめた。
 何度か見上げた事のある天井。鼻腔を掠める消毒液の匂い。スプリングの堅い簡素なベッド………。

(保健室………?)

 ゆっくりと覚醒を開始する意識の中で、白衣を着た女性………フィルナの姿が視界の端にぼやけて映る。

「フィルナ先生………?」
「具合はどうかしら、ルルカさん? 自分が五時間目の授業中に、貧血で倒れた事は覚えている?」
「………はい」
「大丈夫? 一人で家まで帰れそう?」
「はい。大丈夫………だと思います」

 ルルカはベッドから起き上がった。
 まだ少し、頭と意識に霞が掛かっていたが、立って歩けないほどでもない。

「あの………ご迷惑をお掛けしました」
「気にしないで。それじゃあ、お大事ね」

 フィルナに軽く会釈して、ルルカは保健室を後にした。

 授業中に貧血で倒れたのは、これが初めてではない。。
 最近こそ随分と回数が減りはしたものの、以前はそれなりに日常茶飯事だった。
 否、それどころか一週間続けて、学校に行けない事すらあった。
  
 だからこういう日は、ルルカは憂鬱だった。
 少しは元気になったようでも、根本的には何も変わっていないという現実を、突きつけられた気分になる。

「……………」

 薄暗く、人気のない放課後の廊下。
 誰ともすれ違う事なく玄関ホールまで辿り着くと、不意にいつもと違う空気にルルカは足を止めた。

「……………雨?」

 呟くと同時に、それは鉛色の空から降ってきた。
 初めはポツポツと、やがてはザァーーーッと大地を叩き、鉛色のカーテンが一瞬にして外の世界を覆い尽くす。
 くすんだ灰色が、家や樹木を重く染め上げた。
 ルルカは黙って、その光景をぼんやりと眺め続ける。

 ………雨は、嫌いだった。

 気が滅入ってくるし、頭がボーっとして身体も重くなる。 
 特に真冬の濁った空から降る雨粒は、どの季節よりも冷たく哀しい色を帯びていて………。
 今は真冬ではなく、この雨も梅雨時の一コマに過ぎないが、今日のルルカにとってそれは些細な慰めにもならなかった。

 何故ならルルカは、傘を持ってきていなかったのだ。

「どうしよう………」
 
 憂鬱な気持ちで玄関ホールに立ち尽くすルルカ。

「よっ。お困りですかな、お嬢さん?」

 そんなルルカの小さな背中を、のほほんとした声が軽く叩いた。

   
第三話 ルルカと優夜と雨の放課後



「優夜さん?」

 ルルカにとって、およそ聞き間違える事のないその声。
 振り返った眼差しの先には、予想通りの人物……優夜が立っていた。

「この梅雨時に傘を忘れてくるとは……。ルルカも案外、お間抜けさんだねぇ」
「……そういう優夜さんは、傘を持ってきているんですか?」
「もちろん。用意周到、ぬかりなし」

 言って、優夜が背中から大きな傘を取り出す。
 わざわざ見せびらかすつもりで、ここで待っていたのだろうか?
 そう考えると……何か悔しいルルカである。
 
「さて、ルルカくん。気さくで優しぃ〜お兄さんに、何か言う事はないのかなぁ?」
「うぅ〜〜〜」
「こらこら犬じゃないんだから、ものを頼む時はちゃんと誠意を見せないと」
「………頼んだら、傘に入れてくれるんですか?」
「それはルルカの頼み方次第♪」
「……………」

 ルルカは大きく肩を動かし、盛大に息を吐き出しました。
 普段のルルカなら、ここで石の入ったスリッパを取り出していたところだろう。
 しかし憂鬱な雨は、ルルカからその気力すら奪っていた。

(………だから、雨は嫌いです)

 頭の芯で疼く鉛色の頭痛に、ルルカは気だるそうに視線を落とした。
 重く湿った雨の空気は、身体どころか思考すら鈍らせるらしい。

 それは数年前の、一日の半分以上をベッドの上で暮らしていた日々を、ルルカに思い起こさせるようで………。 

「お〜い、ルルカ。何やってんだ? 置いてくぞ〜?」
「?」

 顔を上げた時、優夜の姿は既になかった。
 一瞬、不安と焦燥が鎌首をもたげたが、何の事はない。
 玄関ホールから少し外に出た場所で、優夜はルルカを待っていた。 
 
 ルルカは慌てて靴を履き替え、いつもより重い靴を引きずりがら、優夜の傘に滑り込んだ。


    ※     ※     ※     ※     ※

 
 灰色に沈んだ空の下を、一つの傘の中で優夜と並んで歩く。
 優夜と同じ学校に通うようになって随分と経つが、考えてみればこれは稀有のシチュエーションである。
 朝はほとんど毎日、二人乗りの自転車で通学路を疾走し、帰りも多くは肩を並べている。

 幼馴染で、お隣さんで、五歳も年下でありながら、同じ学園に通う同級生………。

 それはある意味、不思議な関係だった。

 恋人未満である事は、間違いない。
 だが、自分と優夜の間柄を、果たして友達以上と表現する事は可能なのだろうか?

 答えは………否だろう。

 この関係は恋人同士ではない。
 だが、決して友達以上でもない。
 強いて近い関係を上げるなら、それは『兄妹』と呼ばれる関係だろう。

(………ハァ)

 ルルカは雨粒の滴る傘の外に向かって、小さな吐息をこぼした。
 会話は全くなく、二人の隙間をただ雨粒の音だけが漂い流れる。
 
 無作為な沈黙の中で、ルルカには不意に思う。
 この人は自分の事を、どう思っているのだろうか……と。

 ただのクラスメイトで、たまたま隣りの家に住んでいるだけの女の子?
 それとも自分や周囲が感じているように、幼馴染の妹的存在?
 
 いや、そもそも自分はどうなのだろう。 
 自分はこの人の事が、好きなのだろうか?
 多分………いや、間違いなく好きなハズだ。そこまでは自覚できる。ただ、そこから先が判らない。

 この「好き」は、幼馴染の兄的存在への「好き」なのだろうか? 
 それとも特定の異性に対する「好き」なのだろうか?

「……………」

 ほんの少し視線を動かすと、黙って歩き続ける優夜の横顔が見えた。

 優夜との身長差のせいで、肩と肩とが触れ合う事はないが、左肩に触れる優夜の体温を感じる事は出来る。
 そして一度意識し始めると、首から上が紅潮してゆくのが自分でも判った。
 けれどもソレは決して不快ではなく、むしろ心地よい感覚だった。

 学園では並ぶ者のいない、生粋のトラブルメーカー。
 人によっては近づくどころか、顔を見るだけで「回れ右」をしてしまう要注意人物。
 そんな人物の横を、なんの取り得も特徴もない自分が歩いているという事実が、客観的に考えると不思議だった。

 そして同時に、不安だった。

 どうして自分が、こんな場所に居るのだろう?
 その理由がないのだとすれば、本当は『この場所』は別の誰かのものではないのだろうか?
 
 そう考え始めた時、かつて感じた事のない恐れが胸から染み出してくる。

 最近、ルルカは少し変わった夢をよく観る。
 夢の中で、ルルカはこの世界とは少し違う、『アーカイア』と呼ばれる異世界の住人だった。
 その世界において、魔法使いにも似た『歌姫』という役柄を背負わされたルルカは、異世界から召喚された英雄……優夜と出逢う。
 そんな取り留めのない滑稽な、文字通りの『夢』の中の物語………。

 ただ唯一羨ましいのは、夢の中のルルカは優夜と『宿縁』という運命の絆で結ばれた、唯一無二のペアである事だった。
 
 故に夢の中のルルカは優夜と『宿縁』である限り、いつでもその隣りが居場所だった。
 どんなに苦しい思いをしても、ヒドイ目に遭わされたとしても、この『絆』がルルカの支えになっていた。
 その側で歌を織続けるだけで、ルルカは優夜の役に立てるのだ。

 けれども所詮、『夢』は『夢』………。

 現実のルルカには、そんな都合のいい『絆』など、髪の毛一本分すら持ち合わせてはいなかった。

「優夜さんは………」
「ん……?」
「………いえ。なんでもないです」

 ルルカは口を噤んだ。
 
 ………訊けなかった。
 恐くて、足が震え出しそうで、訊く事も告げる事もできなかった。

 優夜は決して、優しくない。
 彼を知る人間なら「そんな事は知っている」と、呆れた顔で口を揃えるだろう。
 が、本当に『その意味』を知っているのは、果たして何人居るだろうか?
 
 優夜は優しくない。むしろ、残酷とも言える。
 自分を取り繕う必要性を感じていない。だから、自分に対する他人のポジションを明確にできる。
 相手の心情を思いやる事も、ましてや言葉も選ばない。
 それは間違いなく、自分に対してすら同じだろうとルルカは思う。
 好きですかと訊ねたら、返ってくるのは容赦のない明確な二者択一。
 曖昧な………お互いの心に疵を残さないような返事は、決してしない。
 そこに悪意はない分、善意もない。
 それが判っているだけに、ルルカは足を竦ませるのだ。

 ひょっとしたら優夜は誰かの……自分も含めて……気持ちに、応える事のできない人間なのかもしれない。
 基本的に、特定の誰かを愛せないのかもしれない。
 いや、愛してはいけないと思い込んでいるのかもしれない。
 
 いつだって騒動の中心にいながら、時々、不意に居なくなる。
 誰よりも濃い影を持ちながら、文字通り影のように稀薄な存在感を併せ持つ部分を、ルルカは知っている。

 多分、騒ぎを起こすのは孤独が嫌いだから。
 けれども嫌いなだけで、孤独に耐える事のできる自己を、優夜は既に持ってしまっているような気がしてならない。
 例えば今、自分はココに居る。
 けれども次の一歩目で自分が消えたとしても、優夜は自分を探してくれるだろうか?
 怪訝な顔をするだけで、それならそれで仕方がないと、そのまま歩き続けるのではないのだろうか?
 
 優夜は自分を必要としていない。
 他の誰をも、必要とはしていない。
 誰かが近づいてくるのを、拒みはしない。
 けれども決して、自分から誰かを求めたりはしない。
 
 胸が締め付けられるような思考の終着点だが、おそらくこれは間違ってはいないだろう。
 
 だから優夜は優しくない。
 だから優夜は残酷なのだ。

(でも………だけども………)

 そんな優夜を……そんな優夜だからこそ……ルルカは放って置けないと感じた。
 何故ならルルカは、既にもう気付いてしまっているからだ。
 優夜が一人でも生きて行ける事に。
 誇り高き野良犬のように、たった一人で、どんなに冷たい世界の中でも。
 そして………いつかは自らの望むままに、野良犬のように朽ち果ててしまうのだろう。

 そんな哀しい最後でも、「ま、しょうがない」の一言で済ませてしまう事を、ルルカは理屈ではなく確信していた。



     ましてやそんな優夜が………。



「……………あ」

 不意に視界が霞み、二つの膝から力が抜けた。
 瞬間、二本の腕がすかさず身体を支え、水溜りの上に倒れるはずだったルルカの身体を抱き止める。

「こらこら。なぁ〜にをやっているのかな、ルルカくん?」
「あ………す、すみません」
「やれやれ。人がせっかく傘を忘れた誰かさんの為に、ず〜っと校舎で待っていたのに。これじゃ何の意味も………」

 と、そこで優夜が珍しく「しまった」という顔をした。
 ルルカは自分が貧血で倒れかけた事も忘れて、キョトンとした眼差しを投げかけた。  
 
「優夜さん、今なんて………?」
「はて? 何か言ったかな?」



     例え何かの気紛れであるとしても………。



「わたしのこと、ずっと待ってたって………」
「あ〜〜〜。そんな事を言ったような記憶がおぼろげながらあるかもしれないと断言するのはいかがなものでしょう?」
「言いましたっ! 絶対に…言いまし……た………」
「ほらほら。貧血を起こした身体で無理をするから」



     こんなちっぽけで、何の取り得もない自分の為に、居場所を作ってくれている限りは………。



「大丈夫か、ルルカ? 立てる………っていうか、歩けるか?」
「………すみません。ちょっと、無理っぽいです」
「やれやれ。しょうがないか」

 不意に背中と膝の裏側に回される、二本の腕。
 次の瞬間、ルルカはいわゆる『お姫様だっこ』の姿勢で抱き上げられていた。

「わ……ゆ、優夜さんっ!?」 
「自分で歩けないなら、こうするしかないだろ?」
「で、でも、恥ずかしいんですけど………」

 蚊の鳴くような声で言いつつも、甘い感覚に胸の鼓動が止まらない。

「それともこのまま、雨に打たれて二人仲良く風邪でもひいてみるかい?」

 ブルブルとルルカは頭を振った。

「………あの、重くないですか?」
「むしろ軽すぎ。もっと体重を増やさないと、また貧血起こすんぞ? 
 ……よし。明日の晩飯は、オレがゴチソウしてやろう。取りあえず、レバニラ炒めだな」
「あの……レバーの匂いは苦手なので、出来れば別の料理が………」
「そんじゃレバーのしぐれ煮だな。ショウガの風味に酢橘を利かせれば、臭いなんか全然気にならないぞ?」
「それだったら、いただきます………」
「よし。それじゃ決まりだな」

 言って、優夜は歩き始めた。
 途中、すれ違う歩行者の奇異の眼差しを浴びながら、平然と、ゆっくりと。

 その間ずっと、ルルカは無言で優夜の顔を眺め続けた。

 どうやらもう少しくらい、自分は自分に自信を持ってもいいのかもしれない。
 少なくとも自分は、この人の直ぐ側に居る事を拒絶されているわけではないのだから。

 キュッ………。

 ルルカはおずおずと、優夜の首の後ろに腕を回した。

「?」
「あ、あの………ダメ、ですか?」
「………まぁ、今さら別にいいんだけどね」
「はい♪」

 少しだけ困ったような顔をする優夜に微笑みながら、ルルカは絡ませる腕に力を加えた。

 耳障りな雨音が傘を叩き、二人の会話を途絶えさせたが、ルルカは別に構わなかった。 
 この日を境に、何かが変わるとは思わない。
 無論、優夜の想いが自分に向けられていると勘違いできるほど、舞い上がっているワケでもない。

 けれども、何かを変える勇気が芽生えたような気がした。

 少なくとも自分は自分で思っていたよりも、誰よりも優夜の近くに居るらしい。
 その事が判っただけでも、ルルカは胸を弾ませる事が出来るのだった。

 
 ………雨は、嫌いだった。

 気が滅入ってくるし、頭がボーっとして身体も重くなる。 

(でも……こんな雨の日も、たまにはアリですよね)

 家に辿り着くまでの約十分間、ルルカは自分以外の鼓動を聞きながら、穏やかな面持ちで眠りについた。



第三話 ルルカと優夜と雨の放課後 (終)




あとがき

え〜と、いかがなものだったでしょうか?
チャットの方で、勢い『ラブラブなSSを書く』などと口走ってしまったので、四苦八苦しながら書いてみましたが………。
全然、『ラブラブ』ではありませんな(笑)。
むしろ系統としては外伝・「優しい夜の歩き方」ルルカバージョンのような気がしてきました。
まぁ、SS優夜で『ラブ』を表現すること自体に、元々無理があったんです(オイ)。
作中のルルカのモノローグではありませんが、コイツは基本的に「特定の誰かを愛せない」ヤツなので。
そ〜いぅ〜困ったヤツに惚れたルルカが、迂闊だったという事で………ダメですか? ダメですよね。
でも『コケの一念岩をも通ずる』とも言いますし、ルルカの頑張り次第では充分に未来はありますよ、きっと。

ちなみに学園SSと本編SSの優夜では、微妙に設定や役どころが違うので、
ルルカに対する想いとかポジションも違いますのでアシカラズ。

戻る