現実と言う名の妙

Chapter.3








 夢を見た。

 久しぶりに、あの頃の夢を。

 たった十数年の人生の、最も輝いた頃の。

 知りうる限りで最も充実した日々の。


───篭手──記憶──恋人───


 夢を見た。

 久しぶりに、あの頃の夢を。

 思い出したくも無い、あの惨劇の光景の。

 誰かを愛する権利を奪い去ったあの惨劇。


───篭手──記憶──惨劇───


 夢を見た。

 久しぶりに、あの頃の夢を。

 けれども目が覚めれば、現は、全て夢だと語っていた。

 いとおしいと思う気持ちだけは夢に置いたまま。





 何か冷たいものが額に当たったような気がして、琉都は夢から現へと呼び戻された。

 空はどんよりと曇っており、起き上がって見てみればクゥリスはどこから取り出したのか折り畳み傘を広げている。目の前に広がる小さな貯水池(とは言え学園の近くの小さな林の中にある上に自然池なので一種のビオトープに近い)には、雨の波紋が広がりはじめていた。

 琉都は慌ててデジカメを引っ掴むと、すぐ近くにある椎の木の下に駆け込んだ。データが消えていない事を祈りながらスイッチを入れ、つい半時間前に写したこの池の風景がきちんと収まっている事に安堵する。

 最近とみに暑いからと持ってきていた手拭で篭手を拭いていると、クゥリスも同じ木の下に避難してくる。雨そのものはそう強くないのだが、時折遠くで雷が鳴っているようだ。

「……」

「……」

 無言が何故か息苦しい。

 息苦しさから逃れようと、琉都はつい自分自身も思い出したくないような事を話し出してしまった。

「…なあ、クゥ。 何で俺がこの篭手を手放さないか、知ってるか?」

「勿体無いからじゃ無いんですか? それなりに高そうですし」

「違う。 …この学校に入学する前の話なんだが、俺にはちゃんと付き合ってた彼女が居てな」

 彼女が居た、と言う一言でクゥリスは軽いショックを受けたような顔をする。琉都はその意味をあえて読み取らず、言葉を続けてしまった。

「その彼女から貰った──いや、譲り受けた?──いや、違うな……」

「じゃあ、あれですか。昔の彼女のプレゼントだから、手放したくない?」

 うーん、と琉都は考えるような仕草をする。

「プレゼント、と言うには血みどろな経緯があり過ぎだな」

「……血みどろ?」

「あぁ。スプラッタとか、ホラーとか、サスペンスとかでもいい」

「金曜日の夜みたいな単語ですねえ…」

 苦笑するクゥリス。琉都もつられて苦笑し、左手の篭手の腕部分を右手でぎしりと握りしめた。

「まんま、金サス。 ──あぁ、思い出した。形見だ」

「形見って、死んだ人から貰うアレですか」

「あぁ。 まあ、遺品とも言うけどな。 コレは彼女──ユメがもっとチビの頃からいつも着けてた、言わば分身」

「はぁ」

 つまらないのか、それともそれ以外なのか、クゥリスはため息をつくような返事を返す。琉都はもう一度苦笑すると、自分の目の前に両手の篭手を差し出した。

「そうそう。ユメの奴、今際の際に遺言も遺して逝きやがったんだ」

「立ち会ったんですか!?」

「………つーか、立ち会わされたな。否応無く」

「……」

 それは、と口篭もるクゥリス。

 死ぬ直前に彼氏を呼び付けられるユメにも驚嘆したが、それでホイホイと呼び出される琉都も琉都。そう思ったのだ。

「ちなみに遺言は『篭手の内側に彫りこんだあたしの名前が消えるまで、新しい彼女とはつきあわないで』。自分勝手だろう?」

「いえ…気持ちはわかるんですけど…ちょっとショック」

 それでか、と納得してしまった。と同時にショックでもあった。

 クゥリスと琉都の出逢いには、アルゼも大きく関係してきている。アルゼがクゥリスを口説こうとしたのを琉都が止めたと言う経緯なのだが、何故その程度で今なおこの関係を保っているかと言うと、それはもう銘柄米──もとい一目惚れだったのだ。

 もちろんクゥリスも今まで何のアクションもおこさなかった訳ではない。暗に明に粉かけてモーションかけてカマかけて来たのだが、琉都は一瞬気付いたようなふうをするものの気付いていないふりでごまかしてきたのである。

「と言う訳だ。 俺としては、殺された彼女の遺言は遵守するつもりだし、それに実は俺自身もまだ立ち直ってない。少なくともこの篭手の──」

 と、琉都は左手の篭手を外し、内側をクゥリスの方に向ける。年がら年中着けているのに、全く汗の臭いも染み付いていないので、クゥリスは顔を近づけて内側を見る事ができた。

 確かに肘に近い辺りに『唯愛』と引っ掻いたように彫り込まれている。

「──ユメの名前が消えるまでは。 原因は何だって構わないけどな、別に『擦り減って消える』と限定されたわけで無し」

「はあ…」

「と言う訳で。今までちょっかい出されてたのも気付いちゃ居たんだが…悪いな」

 寂しく乾いた笑みを浮かべ、琉都は不意にポケットに手を突っ込んだ。デジカメと携帯とメモをクゥリスに手渡す。

 クゥリスはそれを受け取ると、先ほどまでの湿った表情を、困惑したような表情に変えた。

 琉都は篭手を外すと、草むらの上に置く。年がら年中──それこそ水泳の授業も──篭手を着けているために、肘より先は血管が透けるくらい白い肌だ。

 その肌を曝け出し、琉都は雨の降る中へと歩み出て、天を仰ぐ。

「もう一つ頼みたいんだが」

「…はい?」

 どうにかいつも通りの笑みを浮かべて、クゥリスはちょっと小首を傾げた。

 天を仰いだままで、琉都は目を閉じている。

「誰にも言わないでくれよ。知ってるのは身内だけなんだ…」

 雨粒が目尻から伝い落ち、制服の襟を濡らす。天からの水滴は琉都の全身を容赦無く叩き、その全身を洗い清めるようだった。








「りゅーぅとっ!」

 琉都は空を見上げるのを止めて、ふと振り返った。

 ぱさっ、と軽い音がして、何かが頭に乗せられる。何だろうと思って、手──後に篭手を着ける事になるがまだ幼く柔らかい──で触ってみると、それは白詰草の花で作った花輪だった。

 まだ開発の手の加えられていない、野草雑草の多く生えるこの草原だからできる。草原と言っても、十文字中学校(大十字学園の近くにある中学校であるが、大十字への進学率は少ない)の裏手にある、未開発地に過ぎないのだが。

「唯愛。…ごめん、これ、ぼくには似合わないよ」

 琉都はそう言いながら、申し訳なさそうに花輪を頭から外した。しかし琉都の頭に花輪を乗せた黒髪黒眼の背の低い少女──唯愛はちょっと怒ったように、その花輪を琉都の頭に押し戻す。

「あたしが作ったんだから、琉都に似合わないはずが無いよ」

 そうかな、と照れながら琉都は花輪をしっかり乗せ直した。

「まぁ、それこそ赤ン坊の時からの付き合いだしな…。 しかしいいんだろうか、終業式をサボってこんな所来てて」

「いいのよ。あたしと琉都が付き合ってるのは、もう中学校全員が知ってるよ? あたしのダチが上手く誤魔化してくれるって」

 やはり照れたように顔を赤らめながら、唯愛は篭手を着けた手で地面に生えている草をそっと摘んだ。

「それに、去年の末に琉都が返事くれたのもここだったし」

「止せって。まるでぼくがアレな風に聞こえるじゃないか」

 慌てたように手を振って止めさせようとする琉都。だが唯愛は止めようとしなかった。

「止さない。 その時にこれ植えたの…憶えてる?」

「さて?」

 琉都はすっとぼけたように視線を逸らした。いや、指向性が強すぎる記憶力の持ち主である琉都の事だ、本当に憶えていないのかもしれない。

 巻尾状の小さな花を沢山つけたその花を篭手をつけた指先でくるくると回しながら、唯愛は諦めていたようにため息をつく。

「勿忘草。 絶対に忘れないように、って琉都が持ってきた種でしょ」

 勿忘草。アラスカでは岩に這いつくばるように咲いている、アラスカ州花。

「……どうだったかな。ぼくの記憶力がむらが多いのは、唯愛が一番良く知ってるはずだけど?」

「の割には、花言葉を憶えてたじゃない」

 そうだったな、と琉都はまた照れたように笑った。




 数日後の事だった。

 絶対に持ってきてと言われた、例の草原の勿忘草を摘んで、琉都は唯愛の家に向かっていた。

 驚異的に快晴だったため、例の如く唯愛が「プール行こ」と電話をかけてきたのである。

 幾らかの荷物の入ったバッグを襷掛けにかけて、琉都は唯愛の家までもう少しの所まで来ていた。

 と、不意に、ポケットの携帯電話がヴァイブレーションする。面倒だからと常にマナーモードに設定しているが、着メロは唯愛と同じ某アニメのオープニングだったはずだ。

(唯愛かな)

 琉都は携帯を取り出すと、慣れた手つきでボタンを操作する。携帯の画面には、タイトルなしで唯愛からメールが届いた事が表示された。

(タイトルなし、な。唯愛にしては珍しい…)

 そう思いながら、決定ボタンを押す。

 開かれたメールには、たった4文字だけが書かれていた。

“たすけて”

 琉都は最初、それはただ「早く来い」と言う意味なのかと思った。だがその直後、それにしてはひっ迫し過ぎだと思い直す。

 携帯をポケットに押し込むと琉都は、勿忘草を手放さずに全力で走り出した。

(唯愛! 何があったんだ!)

 そう思って居る内に、唯愛の家──加沢家の門に辿り着く。

 オートロックの門鍵は何かで強く殴られたように壊れており、鉄柵の門は乱暴に開け放されていた。

 チャイムも鳴らさずに琉都は玄関の扉に飛びつくと、鍵がかかっているかもしれないとは夢にも思わずに勢い良く開け放つ。

 刹那。

 琉都の鼻を、強い異臭が突いた。戦場に行った者ならば知っているだろうその臭いを、琉都は初めて知る事となる。

 その臭いが正常ではない事を直感的に察した琉都は、加沢家の玄関に立てかけられていたゴルフクラブ(アイアン5番)をわっしと掴む。

 何があったのか知ろうと靴も脱がずに玄関へ上がった瞬間。

「やめてぇぇぇぇぇッ!!」

「唯愛っ!?」

 階上から聞こえてきた悲鳴に、琉都は前後不覚の体で階段を駆け上がった。階段を上がって真っ直ぐ伸びる廊下を走り、階段から見て右側二つ目の扉を蹴り破るように開く。

 琉都の目に映ったのは、衣服をずたぼろに引き裂かれ元・下着だった物がかろうじて引っかかっているだけの、涙か鼻水か涎かよく解らない物で顔面グジャグジャのまま琉都を呆然と見ている唯愛だった。

 篭手だけは元のまま、奇麗なままである。

「りゅうと…?」

「唯愛…」

 何があったのかを何となく、そしてほぼ本能的に悟り、琉都はよろよろと唯愛の方へと歩み寄る。途中でゴルフクラブを取り落としたが、その音にも気付けていなかった。

 唯愛は歩み寄ってきた琉都に緩慢な動きで抱きつくと、鳴咽をあげ始めた。

「あたし…汚れ…ちゃった…」

「……ッ」

 ぼくだって見た事が無かったのに、と琉都は内心でその誰かを殺してやりたいほど憎んだ。片腕を唯愛の背中に回し、もう片方の手に握った勿忘草を花が散ってしまうほど強くにぎりしめる。

 鳴咽はすぐに号泣となった。

「あたっ、あたしっ、最初は琉都のつもりだったのにっ」

 何も言う事ができず、琉都は唯愛を強く抱きしめるだけだった。勿忘草を握った手が、唯愛のふくよかな双丘の間で、怒りの余り小さく震えている。

 さらに唯愛が何か言おうとした瞬間だった。

──ドッ…!

「ぁ……」

 唯愛の背中に凶刃が突き立った所を、琉都は幸いにも見ていなかった。

「唯愛…?」

 どこか遠くでパトカーのサイレンが鳴っているのを、琉都は唯愛だけに向けられた意識世界の中に感じていた。

 唯愛は細かく痙攣しながらも顔を上げ、琉都ににっこりと微笑みかける。

「勿忘草……篭手の名前が消えるまで……約束…して?」

「わかった。何でもする、だから、だから──」

──ごぼっ

 聴くに絶えない音を立てて、唯愛は真紅の塊を吐き出した。それは紫色の勿忘草を紅く染め、地面でびちゃびちゃと跳ね返る。

 口元を真紅で染めたまま、唯愛は琉都にくちづけした。

「──!!?」

 数秒ほどの後、全ての力を使い果たしたように、唯愛の肉体はただの肉塊と化す。

 だが、唯愛の顔は、満足げに微笑んでいた。


 勿忘草。

 花言葉は“Don't forget me.”

 あたしを忘れないで…








 琉都が目を開けると、特別大きな雨粒が眼を直撃した。

「痛ぁっ!?」

 思わず顔を天から背け、下を向いたまま椎に走り込む。

 クゥリスはそれを見ておもわず、くすくすと笑ってしまった。

 琉都はクゥリスに笑われたと知って、憤然と腕を組んだ。


 雨は、止み始めていた。







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