何故か小さくつけられた例外認定に、悠然は悲鳴を上げるが――その声は、後に 続く言葉にならない悲鳴とお決まりの大騒ぎに押し流されていった。 school days of S&N vol 0.45 "Day Dream/10th" こつこつこつこつ。 太陽が沈みきり、急速に暗くなっていく住宅街。 赤レンガ色のタイルが敷き詰められ、広葉の街路樹が並ぶ歩道をネリーは歩いて いた。 こつこつこつこつ。 革靴とタイルはひたすら単調なリズムを刻み、鞄の金具や制服――シンプルな半 そでブラウスにベスト、スカート――の衣擦れの音がその繰り返しをわずかにかき 乱す。 こつこつこつこつつ。 ソードがいない間、ネリーはバスと徒歩で帰宅していた。 バイクの後ろで流れていく景色を眺めるのも良いが、こうして歩いていると普段 気がつかなかったものが目に付いてそれはそれで楽しい。 ここつこつこつこつ。 ……楽しい、のだが。 その小さな落胆やいらつきの理由は、遠くの――ちょうど街の中心地、駅やビル 街――空やビルの灯りが明るすぎて薄闇に沈む景色が見えづらくて残念だ、という だけではない。 左手に鞄を提げたネリーはため息をついて右手をスカートのポケットに突っ込ん だ。無造作にそれを引き抜き、鞄を右手に持ち替えて左手も同じくポケットに。 腰の後ろにあるホルスターには、手を伸ばさない。流石にこんな場所でいきなり 銃を抜くのは気が引ける。 「…………それで。こんな夕暮れですけど、私に何か御用ですか?」 両手にグローブを嵌めたネリーは、生ぬるい風に眼を細めながら『それ』へ振り 返った。 「……ええと。はい、E−8−7の棚ですね。場所は分かりますか?」 「ええ、何度かここには来ていますので」 「わかりました。お使いになった資料は元に戻しておいて下さいね」 ありがとうございます、と嘘の混じった笑みと共に司書に手を振り、ソードは半 円状のカウンターから離れた。 そこここの個人用テーブルで学生やら近隣の住民やらが資料を広げている大学図 書館はしんと静まり返っている。 そこに低く流れるのはたった数種類――人と本と筆記用具、それと僅かな機械の 物音だけ。 丁寧に音を吸い込んでくれる絨毯を踏みしめながら、ソードは分厚い本が隙間な く詰め込まれた書架の間を歩く。 A1,2,3,4,5,6,7…B1,2…C,D,E。手前上段からまず水平 方向、撫で終われば一段下へ。赤緑茶黒黄、文字は順番だが色はてんでバラバラに 並んでいた。これが原色だったらさぞかし眼が痛いことになるだろうな――そんな 事をとりとめもなく考えながら検索を繰り返す。 繰り返す。 繰り返す。 繰り返して。 「――、・…『第25期論文集』、これか……ん?」 ふと。 分厚いファイルの背に指をかけ、半ばまで引き出した姿勢でソードは眉間に皺を 浮かべた。 ――どくん。 「何、だ?」 指先が文字通り『揺らいだ』気がして、ソードは首を傾げる。 顔を上向け、特に照明にも異常が無いことを確認し、そして顔を正面へ。 ……特に変わった部分はない。 棚もファイルも指も、全く普段どおりで何の変哲も無くましてや波立ってなどい るはずもない。 ふん?ともう一度首を傾げ、ソードは引き出したファイルを開く。 その場でばらばらとページをめくり……発見した。 「ふ、ん。これならばこうもなるだろうな」 つまり、これは――これに連なる存在は、ソード・ストライフの敵だということ。 ある筋では有名らしい、その論文。 文字を眼で追う。問題ない。 音読してみる。問題ない。 だが。 ……理解は出来ない。単語ごとの意味は通るが、その文章が何を表しているのか が理解できない。 主語。述語。文章の構成要素を分解することができるのに、それらをならべたと ころで意味のある文章としては成っていないのだ。 主題は、『認識の交換による存在情報の変質』。 読むことは出来ても理解ができない文章である、という異常なこの論文は、結局 誰にも理解できなかった故に認められることは無かった。 この論文の存在を見つけるまでの中で出てきたある雑誌の記事などは、世界の真 理が書かれている為だ、などというトンデモ理論を展開していたりしていたが。 そんな摩訶不思議論文を執筆した当人は数年後忽然と姿を消し、それが再びこの 論文にまつわる話や記事にオカルティックな味付けを施したのだが―― 「問題はその行方不明野郎が武器を大量購入した上にあの街にやってきた理由、だ な……」 そして、あの私兵……のようなモノ。 真っ当なモノではないのは明白。今はフィルナに解剖を頼んでいるが、そこから どれだけの情報が得られるかははなはだ不明瞭。 ため息をついて文字を追う視線を上げ、ソードはファイルを小脇に抱えて歩き出 した。 物音一つしない中、ソードは先ほど通った道筋をそのまま戻っていく。 無表情に首をめぐらせてコピー機を探し、見つけ、歩み寄る。液晶の操作パネル に手を触れ、ふとコピー機の左右を見回して集金機が無いことに気づいた。 金を入れなくとも使えることを確認して流石気前がいい、と眉と唇を歪めてコピ ー機の連続読み取り部にファイルから外した論文を纏めてセットし。 「ミスター・ストライフ?」 「ん?」 唐突に呼びかけられて眉を寄せた顔の前に、すいと受話器が差し出された。 それを持つ手を辿って視線を向けた先には、先ほどの司書。 にっこりと接客用の笑みを浮かべた口が再び言葉を紡ぐ。 「お電話です」 「…………」 「どうぞ、お電話です」 繰り返された言葉。そして数秒の沈黙。何の疑念も悪意もない、つまりはよほど 正確にこちらの特徴を告げられた上での取り次ぎなのだろう。 少々の疑問を含み始めた表情を横目に眺め、ソードは受話器を受け取って耳に当 てた。 「ソード・ストライフだ」 『やあ。会話をするのはこれが最初だね』 落ち着いた声音。耳障りはそう悪くないであろうその声を聴いたとたん、ソード の内で小さな言葉達がざわめき始める。 「――そうだな」 やかましい。さっさと消えてなくなれ糞野郎。 『まさかいきなりこちらを留守にするとは思わなかったよ』 「――は。男にラブコールでもしようというのか?」 だったらどうした。貴様の声を聞いていると苛ついて――今は黙れ。その思考は、 その感覚は不要だ。 不要なソレを押さえつけた意識の手をもう一度捻りこみ、ソードは受話器を耳に 当てたまま窓のほうへ向かって歩き出す。 それなりに歴史のあるだろう建物によくある格子状の窓枠を通して見える整った 並木を菱形に切り分けているのは、ワイヤー入りの硬質ガラス。 ……ガラスは『歴史のある物を保全』しなくていいのか? 「そんなに俺に会いたかったならもっと早く言え。そうすれば喜んでデートしてや ったんだがな」 『いやいや、大丈夫だよ。君との接触はとても魅力的だが、今はひとつ実験をして いてね。ちょうど面白い結果が出そうなところなんだ』 弾む声。ろくでもない予感。 「……ほう?」 『君の大事なパートナー…彼女は、どうやら君よりも『世界』に近いようだね』 「――」 その言葉が指す所を理解した瞬間に通話切断のボタンを押しかけた指を、続けら れた言葉が押しとどめた。 『君がそこから帰るのには時間がかかるだろうが。ついでだ、そちらに残してきた 在庫の処分に付き合ってくれるかな?』 「付き合っていられんな。今貴様の言った事が本当ならなおさらだ」 『そう言わずに頼むよ。他の人たちのためにも、ね』 途端、ずどんと言う音と共に大学構内全体に振動が走った。 続いて聞こえるのは破壊音。更に連続する振動。右往左往する学生たちの間をす り抜けて別方向の窓から身を乗り出したソードの視界に写ったのは――ずんぐりと 3m程に巨大化した全身鎧の如きヒトガタが銃を振り回し、破壊を撒き散らす光景 だった。 その光景を一言で表すなら――デストロイ、だろうか。数分すれば恐らくジェノ サイド。……嫌な言葉だ。 「ち」 大学関係者から警察へ、そして対処しきれず軍へ。その段階へ至るまでに出る であろう被害とネリーの危機を天秤にかけ、ソードは瞬時に決断した。 ソードは顔をしかめながらぐるりと窓に頭から突っ込む。 身投げを目撃してしまった窓の近くの人々から沸き起こった悲鳴を頭上に、背に、 そしてまた頭上にして。 ずどん、とバイクのシートに着地する。 遅ればせながら鳴り始めた非常ベルが爆音に掻き消され、その隙間に悲鳴が混じ る空気。戦う意思を持つ者がぶつかり合う場ではない、平穏に生きていた人々が一 方的な害意に晒される、言わば災害の場。 ハンドルの中央に位置する大型の液晶、そして操作パネル。五指を全て動員した 操作に応え、目視できなくなりそうな速度でコンソールの画面は切り替わっていく。 起動時自己診断省略。反応装置緊急起動。電圧調整待ちタイマースキップ。モー ター回転速度安定待ちタイマースキップ。 甲殻を連想させるような流線型のカウルに覆われた黒い車体が、乱暴な起こし方 に文句を言うように震えて低い唸りを漏らす。 ――『敵』は別にいる。しかも待ってはくれない。 航空機のエンジンのように甲高い音が急激に高まり、先駆けて排気口から熱の篭 った風が吹き出し始めた。 ――手から零れ落ちるであろう、最初に見捨てたはずの部分。本来関係の無い場 所。手の中に残すと決めたモノとどちらを選ぶかなどわかり切っていて、気に入ら ない。全くもって気に入らない。 焦りを押しとどめながら操作盤のキーを叩き、シャフトが繋がったタイミングを 見計らってスタンドを足で蹴り上げる。 「アームスーツだと?……アホか」 最新の技術によって作り出された、外骨格システムの一つ。装着と搭乗の中間と でも言うべき形で人をその内に収める、鋼と人工筋肉の『身体の延長』。 上半身は搭乗に近く、下半身は装着に近い。 人間でいう脇腹から装着者の腕を収めるパーツが出ている為に本来の腕の下に退 化した腕がついているようにも見え、下半身は太股の内部に装着者の脚を収めてい る為、その太股と膝の長さは人間と比べてアンバランスだ。 ばごん、と破壊音のようにすら聞こえる接続音と共に、バイクはその身をくねら せながら走り出した。 数秒と待たずに加速する車体、間延びする視界。後頭部を引き倒そうとする慣性 を無視しながらソードはさらにアクセルを開け、バイクに加速を命じる。 どん、と芝生に乗り上げた勢いで低い跳躍。着地衝撃と、がらがらと続く細かい 障害物を踏み越えるショック。 タンクの左脇に手を添え、黒いグリップを握り、一気に引き抜くと、じゃきんと 音を立ててつやの無い棒が延びた。 警棒のようなそれのグリップにあるレバーを中指で弾き、ソードはバイクを片手 で運転したまま逆手に左腕を一振りする。 『Ready』 機械的な音声と共に、羽虫の唸りにも似た音を立てて警棒の表面に青白い光が流 れ出した。炎のようにゆらめき、警棒――いや、むしろこの場合は光剣か。剣身の 表面を高速で高エネルギーの粒子、この黒いバイクのエネルギー源と元を同じくす るモノが流れ、光流となって循環していく。 ――距離。タイミング。行動予測全てよし……攻撃開始。 かちん、と言うトリガーの音に続き、循環していた光が掠れた叫びと共に爆発的 にその流量を増やし、剣身という『型』からあふれ出し始める。 『Exceed charge』 グリップから弾き出された空のセル――光剣が一時的に大出力を得るための、い わば薬莢――が、前輪が乗り上げた事で跳ね上がったカウルに当たり、どこかへ飛 んでいった。 縁石を踏み台にした、一際大きな跳躍。光の線を引きずって高速の黒い姿がひね りを加えながら宙を飛び―― がぎぃんっ!! 視線を巡らせかけたアームスーツの右腕と銃が、火花を放って斬り飛ばされた。 不思議そうに動きを止めたアームスーツの横面が太いタイヤで張り飛ばされ、仰け 反りながらアームスーツは顔面から倒れこんだ。 左の逆手に光剣を握り、バイクを横滑りに着地させたソードは再びコンソールを 操作する。 ぎょりん、と音を立てて回転したバイクのハンドル下、前部カウルの懐に当たる 部分のホルダーから大型の拳銃……と言うより、むしろアサルトライフルを無理矢 理縮めた銃、と言ったほうが正しい代物をゆったりと抜き出しながら、ソードは視 線を横に滑らせた。 死体。怪我人。へたりこんでいる者。倒れている者。必死に逃げているもの。そ して、それらを狩りたてるアームスーツ。 我関せず、と言った顔でライフルの銃口を持ち上げるアームスーツに、すいとソ ードの銃が狙いをつけた。 がおん、と重い音を立てて吐き出された銃弾が、15m程離れた場所にいるアー ムスーツの掲げかけたライフルを横から張り飛ばす。 得物についたへこみをしばし見やった後、ゆっくりと向き直るアームスーツ。 めり込んだ顔面で地面を抉りながら起き上がる、目の前のアームスーツ。 更に離れたもう一体に撃ち込んだ銃弾は、胸部の厚い装甲に着弾して盛大に火花 を散らせた。 よろめきすらもせずに向き直った最も遠くの一体を入れて、合計3体。 「……全く。上等じゃないか」 皮肉げに唇をゆがめるソードに相槌を合わせるように、バイクが熱気を吐き出し た。 「もう、ぴりぴりした気配だから誰かと思っちゃいました」 そう言って、カウンター席に座るネリーはくすりと笑って隣を見やった。 ああ、と実に予想通りかつ印象に違わない無愛想な返答にまた苦笑しつつ、ミル クティーを注文する。 天井扇がくるくると回り、木目を大切にした無塗装の梁を縫って穏やかに気流が 降りてくる学校近くの喫茶店。 帰宅時というには遅い時間帯のせいだろう、木地と照明の効果でおだやかな温か みを感じさせる店内には、時に騒がしいほどの学生客も静かにくつろぐ他の客もい なかった。 銭湯喫茶、という実に変わったネーミングながら、その内装自体は落ち着いた会 話によく会うシンプルな雰囲気の店である。 「ね。ね。何か珍しい組み合わせだけど、どしたの」 トレイをもったままの手を口元に添え、こそこそと問いかけるくりっとした瞳の 少女――キャロルに、ネリーもまた内緒、と動作で示すように小さな声で答えた。 「ほら、レグニスさんと先生ってちょっと似てるじゃないですか。だからブラ――」 「俺と先生がどうした?」 「わ」 いらついているわけでもないのだろうが、徹底して低く平坦な声はやはり不機嫌 なお兄さん風に誤解されやすいだろう。 同じクラスにいる『窓際の少女』のように気が弱くも無く、更に誰に対しても人 懐っこさを発揮して見せるキャロルは笑いながら首をすくめ、おどけた調子で了解 の手振りを示しながら奥へ引っ込んでいった。 「……うん。とりあえずごまかせたみたいですね」 「では、今の会話は方便か」 「ですよ?」 真面目なお話なんでしょう?と続けたネリーに、レグニスは頷いて視線を合わせ た。 探るというよりは抉るようなプレッシャーを感じつつ、それを顔には出さずに薄 い笑みを保ったままミルクティーをかき混ぜながらネリーは言葉を待つ。 大抵の事はどうでもよさそうな顔――彼は何事にも真面目である。真剣でもある。 だがそれが差し迫っているか……要はテストの成績が悪く、進級が危ない学生が漂 わせるような感じがあるかというと、彼がそんな雰囲気を見せる事はほとんど無い。 大抵のことは彼の『大事な事』に比べれば大したことではない、と言うことだろう。 その彼がこれほど意識を振り向けてくる話題となれば。 「最近街の空気が妙だ。何が起こっている?」 「……だとして、どうして私に?」 彼と彼の大事な存在の危険に関する事と想像するのは容易い。 だからと言って、今現在『こちら側』の存在ではない彼に正直な情報を垂れ流す 事も躊躇われる。 彼が常人を大きく引き離す能力の持ち主であるのは確かだが、リアルタイムで業 界の情報を収集しているかどうか……現役であるかどうかと言うのは、思った以上 に重要な分岐点でもある。 どこまで言うのか、何を言うとまずいのか。そこが判断のつかないうちは、下手 に手がかりを与えて闇雲な動きを誘発すれば余計な危険を呼び込みかねない。 ……第一、ネリーにしても現在の状況は殆ど何もわかっていないに等しいのだ。 「――――」 「…………はぁ。仕方ないですね」 無言で見つめてくる視線のプレッシャーと胸のうちでの思考をため息に変えて吐 き出し、ネリーはティースプーンをソーサーに置いた。 落とした視線をレグニスに向けなおし、一、二度指で頬を叩いて間を取る。 「とりあえず、今のところは状況も殆どわかってません。危険があるかどうかも。 ただ、場合によっては市街戦くらいはあるかも……です、ね」 言いながら自分でそのパターンを想定し、頭の中で勝手に開始された被害予想に ネリーの顔色は暗くなる。 上っ面では比較したくないとは言いながら、自分の更に奥――何年もの間、幾度 もの戦いの中で染み付いた習性がクラスメイトと商店街の人々、更には顔も知らな い人々を予想に対応して即座に天秤にかけている。 その辺りは既に割り切っているソードの方が楽なのだろうが、結局全てを守るだ けの力があれば悩まずには済むのだろう……だがそんな力は、どんなに望んだとこ ろで手に入るものではあるまい。 「だから、何かあったら――ちゃんと、守ってあげてくださいね」 「当然だ」 今の会話で彼が考えたのは、『どこ』までなのだろうか。 そんな事を考えても仕方ない事に気づき、ネリーはミルクティーを啜って携帯電 話を確かめる。 ソードとネリーが二人で別行動を取っているときは、場所によっては数日連絡が つかない事などざらにある。今のような『何かがある』時ならばなお更。2,3日 程度連絡がない程度で何があるわけもない。 ……その、はずだが。 ネリーは頭を振ってその感覚を追い払い、携帯電話をしまいこんだ。 |