ずだーんぃやーめーん。
 板張りの床、壁、奥に畳。それなりの広さの空間に初夏の風が抜けていく。
 激しく床を踏み鳴らす音、半端に硬い物体がぶつかり合う音、やけくそ気味にす
ら聞こえる声量の掛け声。
 ずべしがっちゃんばっちんと衝突音を発し続ける体育館脇のその建物へ向かいな
がら、ソードは似合わないような似合うような藍の剣道着姿で茫洋とした視線を泳
がせていた。
 抱えるのは大きめの段ボール。
 どこぞでくるっぽくるっぽと鳩の声。
 向こうできゃーやらはーいやら女子の掛け声。
 更に向こうでは大排気量のエンジンを心臓にした鋼鉄の獣が吐き出す唸り声。
 ……平和だ。
 禁煙、分煙に流れる世の風潮に従って火をつけずに咥えているだけのよれた煙草
をゆらゆらと揺らし、ソードは眉間にしわを寄せたいつもの顔のままでやる気のな
い視線を滑らせた。
 右。さんさんと降り注ぐ初夏の日差しと整備されたグラウンドと走り回る運動部
員とぶらつくその他。
 ついこの間校庭にクレーターを作り出した科学研究同好会は懲りずに第二回の実
験準備を進めているらしく、顧問とメンバーが自爆する分には構わないのだが他の
一般生徒は避難させる必要があるかもしれない。積極的な破壊活動―例えば自爆テ
ロ―などを起こそうとしない限り、学校職員として止める必要はないのではあるが。
 左。体育系施設の固まっているこの区画で、体育館武道館とくれば後一つは決ま
っているようなものだ――もうすぐ水泳授業の始まる『屋外』プール。既にして大
騒ぎのうちに掃除も済ませ、底に塗りたくられた青色がゆらゆらと水面を通して透
けていた。
 何故『屋外』か。それは屋内も存在するから区別するために必要な呼び名と言う
極めて単純かつ明快な理由からである。ふざけた事に無駄に豪華な設備を誇るこの
学校には、『資質を伸ばす為のあらゆる可能性を提供するために』というお題目の
元に、だが実は経営者の趣味だろうと誰でも考えたくなるような分野までカバーし
た施設・教室・建造物、更には教員が存在した。
 ソードもその趣味の領域にいるようなものだが・・・・・・一応、英語教師兼剣道部顧
問兼特別クラス担任と言う役割が存在する以上、ソードはそれなりにその仕事に責
任感を持っていた。 
 今現在両手で抱え持っているこの箱も、その責任感を物質的に具現させた物なの
である。
 いつもはこない幽霊部員――行動に問題あり、と聞いているが――が珍しく顔を
出した日でもあるし、丁度良い。
 ふぅともう一度ため息。もしため息をつくと運が逃げるというなら、ソードのこ
れまでの人生は間違いなくこのため息癖のせいだろう。
 
 もうすぐ一日で一番影の少なくなる時間。この学園は、相変わらず平和に騒がし
かった。

school days of S&N vol.ex01 "Club activities"


「っめぇぇぇえん!!」

 踏み込み振り下ろし叩いて走り抜ける。
 ―剣道における『一本』の基準。
『充実した気勢、適正な姿勢を持って、竹刀の打突部(弦の反対側の物打ちを中心
とした刃部)で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるもの』
 わかりやすく表現すれば、元気よく正しい姿勢で正しい動きで叩いて走り抜けて
振り返る、ということだ。
 いかに軽やかに、素早く、正確に規定部位を叩くか。剣道のポイントはそこにあ
る。
 こと正確さと素早さにおいて、ザナウは相当なものを持っていた。
 ちらり、と今日珍しく顔を出した幽霊部員のほうを見やる。腕はそこそこあるが
とにかく嫌な奴、だったような気がする。
 ややかったるい動きなものの、一応は活動の和を乱さず動いていた。ならいいか、
とザナウはさしてどうでもいい人間に対する無関心さを発揮して気にせず意識の向
きを戻した。
 打ち込んだ後輩がやや遅れて振り向くのを待ち、再び竹刀を垂直に振り上げ、振
り下ろす。
 何度も何度も繰り返したように後輩の面に打ち込みながら駆け抜け、振り返った
視界にダンボールを抱えた担任教師の姿が見えた。

「ういーっす」

 ザナウの声に気づいて、10人ほどいた他の部員達も出入り口に眼を向け、口々
に挨拶した。
 おはよう、と応じたソードはどすんとダンボールを床に下ろす。
 開いた中身にはプラスチックのスプレー容器。業務用のダンボール一杯に詰まっ
ているそれは清潔そうな水色をしていた。
 面をしたままずらりと半円に囲む男女の部員達を前に、ソードは腰を上げて腕を
組んだ。

「朝から頑張っているお前達にいいものをやろう」
「……なんすかそれ?」
「消臭剤だ」
『おお!』

 どうでも良さそうな無表情のままでソードが告げた言葉に、しかし部員達は残ら
ず感嘆の声を上げた。
 なぜなら。
 汗とカビは剣道部員の最も身近にして永遠の敵だからである。
 特に今は初夏、これから暑くなってくる時期。
 気温だけでも辛いところに加えて剣道の防具を着込み、更に激しい運動をするの
である。
 その発汗量とそこから生じる臭いたるや、推して知るべし。
 部に保管している予備の防具や竹刀も、定期的に外で乾してやらねばカビが繁殖
し、更にそれを気づかずに使った日には――

「だが陰干しは忘れるなよ。……前のように胞子攻撃を食らうのは勘弁だ」

 あちこちから低い笑いが漏れる。
 ソードがこの学園に着任し、顧問が退職してしまった剣道部の顧問にもなし崩し
的になって間もない時の話だ。
 稽古で打たせた時に使った竹刀、久々に引っ張り出されたそれの内部にカビが繁
殖しており――
 ――ソードの面に叩きつけた衝撃で、『粉』が噴出したのだ。
 『怒気が大気を動かした』と部員達が語り草にするその事件以来、ソードは武具
全般の管理に気を使うようになっていた。
 暴走族を毎度叩きのめし、学校でも火器を持ち出す戦闘教師も流石に至近距離で
のカビ炸裂は平気とは言いがたい。

「よし、では消臭開始、その後は組んで互角稽古30分。それで今日は上がりだ」

 へーいだのはーいだのと言ったバラバラな返事をしつつも皆がソードの言葉に従
って消臭剤を手にとり、ばらけて防具を脱ぎ始める。
 案の定ふざけ始める部員達の声を聞きながら、ソードは隅に置いていた自分の防
具を取り上げた。
 臭いが嫌なのは流石に変わらないのか、幽霊部員も消臭剤を手に座り込んでいる
のを目の端で見て一息つく。
 まともな行動を取るならよし、そうでないならそれなりの手段。
 まともに活動する部員なら文句はない。幽霊部員でも別に構わない。ただし以前
の素行として聞いたように少しばかりの腕前を鼻にかけ『練習』と称して他の部員
を痛めつけて遊ぶようならば――最も、割と正義漢なところがあるザナウがそれを
許さないかも知れないが。
 よく言われる目的、剣道による人間形成。
 面、胴、小手。当てるべき場所には必ず防具をつけての鍛錬。戦闘技術の鍛錬で
はなくそれを模した道徳授業のようなモノ。
 実際問題ソードの『剣道』の腕前はさほどではない。戦闘に高尚な精神論はいら
ず、事実を基にした経験論で全ては済む等と考えている人間に、しっかりした礼儀
や態度を求めるのも酷な話ではあるのだが。
 その精神や礼儀で言うならば―いっそ幼いとすら言える『彼女』のほうが、余程
適正だった。


「んー」

 だがその彼女は今現在、調理部の活動の真っ最中だった。
 軽く押し付けた菜箸が刺さらずに表面を滑るのを見て、まだまだ早いと判断する。
 小さく鼻歌を歌いながら蓋を戻し、なんとはなしに学校らしくシンプルな壁かけ
時計を見上げた。……11時。もうすぐ昼だ。

「小雪ちゃん、水切りできた?」
「ん……今、終わり、です」

 シンクできゅうきゅうと茹で上がったホウレンソウの水気を搾っている小雪に頷
きを返し、ネリーは軽く伸びをした。やや前のめりになっていた背筋を伸ばし、血
行が回復して行く心地よさに思わず息が漏れる。
 トレードマークの長い一本三つ編みを揺らして広いキッチンを歩き回り、あちら
こちらで作業を進めていく様子は楽しげだった。
 頻度こそそう高くないものの、様々な理由で意気込みがあるメンバーが集まって
いる調理部の活動意欲は高い。
 今日も食事と菓子、2グループに分かれて1食分と間食分の料理を作っている最
中だ。
 廊下側のキッチン列からは魚や野菜の香り。窓側の列からはバニラや焼き菓子の
なんともいえない甘い香り。
 食欲をそそる香りは存分に学園の内外に放射されており、事実誘引剤に引っかか
った虫の如く女性的な顔立ちの少年が姿を現していた。

「いやあ、いい匂いです。味も期待できますね」

 普段から笑顔が多いが今はそれに輪をかけている。倍率150%といった所か。
末席から放射されてくる恐ろしく幸せそうな期待感光線は完成品を口にするその時
まで止むことはなさそうだ。

「いい感じです」

 ぐ、と拳を握って達成感を滲ませたのはルルカ。普段の病弱さとうって変わって
力強い光を目に湛え、自信を滲ませた声音で誰へともなく言葉を続ける。

「これなら優夜さんだってちょっとは……感心したりはしないですね、ガツガツ食
べるだけで」

 急激にしぼんだ語尾に、一気に加熱したジャムをかき混ぜながら本当ですよねと
由宇羅が言葉を繋ぐ。

「そうですねー……あの人たちはどうしてこう、もう少しわかってくれないんでし
ょうね……」

 重なるため息。ずんずん沈んでいきそうな思春期の乙女心にネリーも引きずられ
る部分がないではないが――意をもって情を制す。境遇のおかげで鍛えられている
ネリーはそうそうあからさまに落ち込んだりはしない。取引先に出向いた中年サラ
リーマンの如く、顔で笑って心でため息をつくのだ。
 どんどんキッチン越しに見える部分が少なくなっていく二人の様子に、あわてた
様子で小雪がネリーを見る。
 とりあえず何か話しかけて注意を引く、という事もまだまだ引っ込み思案の彼女
には大変なことであり、故にネリーは小雪のしたいこと―二人を内面世界から呼び
戻すべく、適当な話題を選んで声をかけた。

「ほらルルカさん、由宇羅さんも。ジャムが焦げちゃいますから沈まないでくださ
い」

 既に下降しすぎて頭しか見えなくなっていた二人はその言葉に気を取り直し、立
ち上がってのろのろと作業を再開する。

「私だってそう思うこともありますけど、でもええと、沈んでも状況は好転しない
んですよ?」
「ネリーさんはいいじゃないですか」
「え」
「そうそう、私たちと比べたら随分まともです」
「ええ?」

 突如として向いた矛先に、ネリーは小さくうめいて後ずさった。沈むに任せて放
って置けばよかっただろうか。そのうちけろりとした顔をして戻ってくるに決まっ
ている藪をつついたら蛇が出て来てしまったらしい。

「えー……と。そう、です、か?」

 ルルカがばちんとガスのつまみをOFFにした。由宇羅がずるりとオーブンから
クッキーの乗った中皿を引きずり出す。忍がふんふんと小鼻をひくつかせ、更に笑
顔の倍率をアップさせていた。
 一拍置いてぐるりとネリーに向けられた二人の顔は、見事なまでに同じ三白眼と
への字口だった。
 息を呑むネリーと隣の小雪。

「少なくとも『対象』になってるんですから!」
「最初はなんでしたっけ……ええとそう、あの『ロリコン事件』の時にはっきりと
ソード先生本人が言ってたじゃないですか!!」


「――――!?」

 脳を直接掴んで揺さぶられるような感覚に、自室でノートを広げていた桜花は慌
てて開いた窓から外の様子を伺った。
 一瞬地震かとも思うが違う。地鳴りがしない、建物も揺れていない。何かしらの
騒ぎが起こっている……わけでもなさそうだ。いや。周囲が気づいていないだけで
『波』はやや離れた場所で確実に起こっている。
 剣術を通して磨かれた感覚を揺さぶる『波』には、覚えがあった。

「これは確か……?」


 みしり。
 その瞬間、部員達は全員が同じ音を聞いた。
 気体であるはずの空気が一瞬硬化し、ソードを中心に歪んで軋む音を。
 携帯電話の呼び出しと共に外に出て、暫くして戻ってきたソードがそれ――いつ
の間にか防具に差し込んであった一枚の紙――を広げて黙読した瞬間、武道館の空
気は圧縮されたように重みを増した。
 無言のままに放射される気にあてられて次々と部員達が硬直する中、ソードはゆ
っくり、ことさらにゆっくりと振り返った。

「――やれやれ」

 とん、とソードが人差し指でこめかみをつつくと、それまで局地的に増していた
重力が嘘のように霧散する。
 いつもと全く変わらず気だるげな声で、ソードは言葉を継いだ。

「誰だ、俺をロリコンなどと言う奴は」

 瞬間面の奥の顔を青ざめさせるザナウ他数人を尻目に、ソードはぴらりとその紙
を広げて見せた。

『ロリコン教師』

 明快な中傷文が書きなぐられた紙がひらひらと風にそよぐ。
 神話に伝わる蛇女に睨まれたように硬直する最前列の部員達をよそに、最もソー
ドから遠い列で軽薄な声と手が上げられた。

「俺でーっす」

 ちろりとソードが目を動かし、鋼色の目線に押しのけられるように部員達が退い
た先。幽霊部員が笑みを浮かべていた。

「ほほう。理由は?」
「いや、先生って剣道より喧嘩が得意らしいじゃないっすか」

 ザナウがあーあと口の中で呟いた。たまにいるのだ、こういう奴は。
 ソードが色々な意味で常識の範囲外にいる教師であるとわかっていない連中。わ
かった上で突っかかっていく某チャリンコ混成暴走族よりも『つまらない』連中だ
なと心中で勝手な評価をつける。
 大人しいと思ったらまたとんでもないものを踏みつけにやってきたものだ。

「ちょっと本気の腕前見せてもらいたいナーって、ね?」
「ふ、ん?」

 2,3度竹刀を振ってみせる幽霊部員に、ソードは片眉を上げて笑い返した。他
に例えようもない、ニヤリという顔で。


 波は収まったものの心配になった桜花がようやく武道館にたどり着いた時には、
既に『終わりかけ』だった。
 ぱあん、と良い音がしてソードが片手で持った竹刀が面を打つ。
 それを見た瞬間、桜花は疑問に眉をひそめた。良い音だが、良い音すぎる。

「一本。通算13だが……どうした、まだ続けるのか」
「っは、はぁ……!うるせぇ、試合じゃなくて運動だって言っただろ!」

 打たれた事を意に介さず再び突進する幽霊部員の一撃は軽々と反らされ、無駄な
く一つの軌道上で防御から攻撃へ移ったソードの竹刀が小手を打ちつけた。
 再びやたら良い音が響き、そのまま再開される攻防、というよりはもはや圧倒的
なマタドールによる闘牛ショーに近い光景を眺めながら、桜花は扉のすぐ傍に腰掛
けているザナウを見つけた。

「あの」
「お?よう、桜花」

 こんにちは、と律儀に返す桜花の方へ向きやすい姿勢をとり、ザナウはやれやれ
と息を吐いた。

「圧倒的な差って奴かな、誰かから聞いて見に……ああ、もしかして武道家だから
『アレ』がわかった、とか?」
「あ、ええまあ、でも」

 ザナウとは逆向き、外から腰掛けながら桜花は疑問を口にした。

「先生、全然『当てて』いませんね。こういう時は容赦なく叩きのめすのが先生の
やり方だと思っていたんですが」
「あー、うん。性格悪いよな」

 うむうむと頷くザナウの視線の先でまた音が響いた。
 圧倒的な差故。打ち込みはすれど本当に打ち込むだけ、打撃でもなんでもない、
撫でるようなものである。
 最初こそ一本、などとカウントしていたものの、段々とムキになっていく幽霊部
員は延々と殴りかかってはいなされるようになっていた。
 突進を繰り返しすぎて息切れしている前で、ソードは息も乱さずに立って告げる。

「いい加減認めろ。いっそ防具も竹刀もなしでも変わらん」
「ああ!?だったらやってみるかよ!」
「いいだろう」

 落ち着き払った動作で竹刀を立てかけ、防具まで外すと、ソードはゆったりと構
えを取った。
 構えといっても大仰なものではない、ただ左手を腹の前辺りまで軽く上げるだけ。
 ソードは無表情で竹刀と防具を備えた相手の突進を無言で待ち受け。
 竹刀が空を切る音だけが響いたその瞬間の光景に、桜花はほう、と呟いて目を見
開いた。
 上げていた左手を振り下ろされてくる手に重ね合わせて打ち下ろされる竹刀を逸
らし、右手で面の喉当てを押し込む。たったそれだけの動作で幽霊部員は完全に仰
け反らされ、死に体にされていた。

「……ああ、そういえば『ただの運動』だったな。ならこのまま続けるか」
「お、ぐ」

 指先しか触れていないにも関わらず、喉元を押さえる力はどんどんと増していく。
仰け反った姿勢で耐えようとした幽霊部員はわずかに抵抗しただけでバランスを崩
され、倒れこんだ。
 背中をしたたかに打ち付けて呻いたその時に視界に入ったのは、真上から打ち下
ろされる足の裏。
 ――素足、硬そうな踵、刺し傷の跡が二つ――どがん。
 武道館全体を揺らした踵蹴りは、幽霊部員の頭蓋ではなくすぐ傍の床板をへこま
せた――文字通り木板に圧力でめり込んだ右足の周囲から、運動エネルギーの残り
香のように煙が立ち昇る。 
 動くことを忘れたように固まる幽霊部員を傲然と見下ろしながら、心底つまらな
そうに、どうでもよさそうにソードは告げた。

「人に『指導』などできる腕とは思えんな。更には実力差をわかった上で逆らうほ
どの気概もない。つまらん」

 まともな範囲を大幅に外れた教師であるソードの論理は単純だった。
 『力づくで来るなら来い、こちらも力づくだ』
 教育にうるさい有識者なら噴飯ものの論理だが、恐ろしいことにソードはその論
理を破綻させずに実行し続けていた。
 人間とも思えない戦闘能力を行使して、バイクを乗り回す暴走族をチャリンコ族
に転落させ、授業を妨害する生徒は文字通り力づくで排除し、妨害しないが参加し
ない生徒は放置して成績でふるい落とす。
 何度か上がったまっとうな父兄からの抗議の声はどれも不思議と長続きせずに立
ち消えてしまい、反骨精神旺盛な一部の生徒との終わり無き対決は一種恒例行事の
娯楽と化していた。ちょうど今外から聞こえてくるような罵声や歓声は、ここが退
屈しない学校である証拠のようなものだ。
 『ちゃんと授業はしてるんだしいいんじゃないの?』とは校長代理の弁である。
背後でどれだけの『力』が蠢いているのやら知れたものではない。
 それきり興味を失ったようにソードは身体を反転させ――不意に左手を前に突き
出した。
 それとほぼ同時に開け放たれていた扉から何か、いや誰かがはつらつと叫びなが
ら猛烈な速度で飛び込んでくる。

「はっはっはルルカ君、そんなスピードではいつまでもふべっ!?」

 まるでプロ野球で投げ放たれる剛速球の如く飛び込んできた優夜の顔面を、熟達
のキャッチャーが操るミットの如くがっしりとソードの掌が鷲づかみに受け止めた。
 あっけに取られていた剣道部員達がわたわたともがく優夜を腕一本で吊り上げる
ソードという図を脳に隅々まで染み渡らせる位の時間がたった頃、息せき切って追
っ手――ルルカが武道館に駆け込んできた。

「はあはあはあ、優、はあ、夜、さん……待ちなさ……はあはあはあ」

 今にも倒れそうに息を切らせているルルカが捕獲されている優夜を確認してべっ
たりと座り込む。
 めごり、と腕の先から妙な音をさせたソードは痙攣を始めた優夜をぶらん、と示
して見せた。

「探し物はこいつか」
「どっちが死にそうだと思う?」
「は、い、はぁはぁはぁ」
「やはりどちらかというと……ルルカさんでしょうか。元々の耐久力からして」

 明らかに随意ではない痙攣を繰り返す優夜と胸を押さえて息を切らせるルルカの
どちらが危険な状態に見えるかという不毛かつある意味答えのわかりきった問答を
無視し、ソードは乱入者二人に問いかけた。

「で、何をやった」
「私た、ちの、はぁ、焼いた、はぁはぁげほっクッキーを……」
「勝手に食ったと。それについて何か弁明はあるか?」
「いやー腹が減ったところに美味しそうな匂いがしたもんだからつい。だから弁明
はナ・シ」
「そうか」
「お、ぎ、先生先生、締まってる締まってる!」

 ごりり、と不気味な音が更に強まった。心なしか離れているザナウたちにまで頭
蓋骨のきしむ音が聞こえるような気がする。

「はっはっは当然だ、俺は今教育意欲に溢れていてな。さて今回は――」

 吊り上げられた魚の如く暴れる優夜を変わらず固定し、言いながらソードは視線
をめぐらせた。視線の先にいた部員達がそそくさと範囲外へ逃げていく。端から順
に武道館を検索して行く線がひたと止まったのは、扉のすぐ脇に鎮座する掃除用具
入れ。

「――アイアンメイデン、にしておくか」

 言うが速いかソードは優夜を吊り下げたままホバー移動のように掃除用具入れの
前へ移動すると、手早く中身を放り出して優夜をそこへ叩き込んだ。
 叩きつけるように閉じた扉にまず一撃。拳の跡がくっきり残り、凹んだロッカー
を横から歪ませるように蹴りが突き刺さり、『く』の字になったロッカーに更に無
数の拳と蹴りが叩き込まれ――


 30分後。目を覚ました幽霊部員は周囲を見回してびくり、と震えた。
 鋼鉄製の何か、としか形容できない灰色の物体がすぐ脇に転がっていたからだ。
更にはその中身から染み出してでもいるのか、得体の知れない液体がどこかの端か
ら滴っている。
 呆然とその物体を眺めるうちに、段々と気を失う直前の状況が思い出されてきた。
 圧倒的な技量の差。
 自分が今まで接して――馬鹿にして来た教師達とは一線を画する言動と行動。
 『殺せる威力』があった最後の一撃。
 目覚めたら転がっている謎の物体。
 あまりのわけのわからなさに、恐怖とは別に異物感がこみ上げてくる。
 ……あんなモノが自分の傍にいるのはおかしい。

「なんだよ。なんなんだよあの教師。くそ、絶対にこのままじゃ――」
「――このままで済ませた方がいいと思うなぁ?」

 突如横からかかった声に今度こそ幽霊部員は飛び上がった。
 何時の間にそこにいたのか、と声のした方を振り返って、さらに硬直する。

「深入りするとどんな目に遭うかわかったもんじゃないよ?ほら、俺みたいにロッ
カーに叩き込まれるのは嫌でしょ?」

 ロッカー?それよりも何故傷だらけ?
 その上ふらついているその男子生徒は――幽霊部員は知る由もないが優夜だった。
 幽霊部員の見守る前で頭を抑えていた手を放して見せて血がどろりと流れ出し、
おっとっとなどと言いながら再び頭を抑える。

「ロッカー?」
「そうこれ。俺が入ってた奴」

 幽霊部員はじゃあ、とふらつきながら去っていく優夜を眺め、再び灰色物体をた
っぷり数十秒は眺めてそれがロッカーの成れの果てだと認識してそれを成した破壊
力に戦慄し。
 一つの疑問に思い至った。

「……入ってた?あいつが?これに?」

 ――なら、いつ出てきた?
 工具でも使わなければとても開かないような、原形をとどめないほど歪んだドア
は―目覚めた時には確かに閉まっていたのだ―いつの間にか音もなく開けられ、ぎ
しぎしと風に軋んでいた。

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