油が糸を引くように現れては過ぎ去っていく明かり。
 どんどんと迫ってきてはやはり過ぎ去っていく障害物――自動車。
 どれもこれもつまらない。何故そんなに止まったような速さの中にいて不満を持
たないのか。
 ……自分は違う。バイクと一体になって風の抵抗を滑らせながら、ブレッグは思
考する。単一の機能を突き詰めて造られたモノはその機能を果たしてこそ意味を持
つ。機能を発揮する、それこそが造られたモノにとっての至上の喜び。
 眼前に現れる一台のワゴンにその喜びを途切れさせられた時、ブレッグは舌打ち
した。遅い連中は勝手に走っていれば良いというのに――
 だというのに、そのワゴンは4車線をまたぎ、道幅一杯に蛇行運転を繰り返して
いる。少し目線を移せば、頭の軽そうな連中が馬鹿騒ぎしながらこちらを見下ろし
ていた。
 下らない。追い抜かれるのがそんなに嫌なら誰よりも速く走れば良いだけだ。
 速く走れない奴に『嫌がる資格』はない。
 蛇行の隙間に自身を滑り込ませる。加速の邪魔だったワゴン車のフロントタイヤ
をリアタイヤで蹴りつけ、中央分離帯へ突っ込んで無様に部品を撒き散らすワゴン
車を尻目に駆け続ける。
 ――息が詰まりそうだった。
 どれもこれもまるで遅い。つまらない。速い者がいない。それだけなら良いとい
うのにこちらの邪魔をしてくる奴までいる。
 そんな止まったようなモノ全てを置き去りにしながら、市販モデルの中では最高
の性能を持つといわれる赤い―もともと寒色系の塗装は炎のような赤に塗りなおさ
れている―バイクは夜の闇と光が溢れる地表の間をすり抜けていった。

「……つまらん」


school days of S&N vol.ex02 "Night Race/1st"


「珍しいな、お前がこんな所にいるのは」

 下から登ってきた声に、ブレッグは目を開ける。
 馬鹿らしい程の青空が見えた。春から夏へ、段々と輪郭の強くなってきた雲をし
ばし眺め、声の主がそのまま居座る気と見て渋々口を開く。

「教師がこんな所まで煙草を吸いに来るんじゃねえよ」

 寝転がっているコンクリートの屋根を回り込んで、笑い声がブレッグの耳に届い
た。声に囲まれているような感触がして気に入らない。それを正直に告げたところ
で真下――屋上の出入り口――にいるその教師が面白がるだけなのは目に見えてい
たので、ブレッグは仕方なく上半身を起き上がらせた。

「最近の事情で、室内で吸うのはよろしくなくてな。多少は見逃してくれ」

 頭を包み込むように聞こえていた声は、今は眼下のある方向からしか聞こえなく
なっていた。
 澄ました耳に背中と出入り口脇の壁とが触れ合うわずかな摩擦音が聞こえ、下に
いる教師の姿勢を伝えてくる。

「ところで、また求愛を拒絶されたようだが」
「求愛だぁ?」
「違うのか?」

 あからさまなからかいに付き合いきれない、とばかりにブレッグはため息をつい
て黙秘した。
 余計な情報を入れないために適当な事に脳の活動を振り向けた。とりあえず愛の
定義について、記憶に走査線を走らせる。

「あいつは」

 何事か言いかけている教師の声は無視して頭の中にある記録のページをめくって
いく。
 愛。かわいがる事。男女の慕いあう心。大切にする心。好む心。……男女ではな
いのは確かだ。
 求愛。異性の愛を求めること。……異性?

「俺とあいつのどこが異性だ、ボケ教師。英語教師は国語が苦手なのか?」
「あいつはお前とは『性質が異なる』からな。だろう?自分にない部分を他者に求
めるのは心持つモノの普遍的な性質の一つだ。……だが違う故に共感されんのが辛
いところだな」

 スルー&アタック返し。無視して告げた言葉を更に無視して放たれた言葉に、ブ
レッグは一瞬沈黙した。
 確かに自分とあいつは違う。だがそれがあいつを仲間に引き入れようとする理由
かと言うと――

「下らねえ」

 今度こそ付き合いきれない、と屋上の一段上から飛び降りた背中に、先ほどより
ずっと近くなった声が尋ねた。

「今日も走るのか」
「ああ」
「多少は抑えろ。お前に妙な通称が……出会えば事故る赤い幽霊とか言われ始めて
いる。ああ、いっそ赤い彗星とでも名乗ってみたらどうだ」
「それこそ下らねえ。事故った奴らは勝手に事故っただけだ」
「まあ、違いない、か」

 ため息混じりの笑い声という妙な声に見送られながら、ブレッグは屋上を後にし
た。


 傾ききった太陽が巨大なオレンジ色のボールと化した頃。中心街からやや外れた
場所にある貸しガレージでブレッグを出迎えたのは、いつも通りひどく冷めた眼差
しと諦めたような吐息だった。

「相変わらず自分のバイクのところには足繁く通うのね」
「無駄なことを言いに来たなら帰れ」

 無碍な物言いに気を悪くした風もなく、くたびれたというより冷めた雰囲気をま
とう彼女――エルミナはやっぱり相変わらず、と呟いた。
 寄りかかっていた壁から背を離し、ブレッグが開いたシャッターの中に滑り込む。

「おい」
「いつも通り。口も手も出さない」
「目障りだ」
「それくらいは我慢しなさい」

 意見のすり合わせというものを最初から放棄したやりとりの後、エルミナは話は
終わったとばかりにガレージの隅で折りたたみ椅子を広げた。
 そのまま組んだ膝の上で頬杖をつく観察態勢に入ってしまったのを見て、ブレッ
グもこれ以上関わるのは無駄だとばかりにバイクの整備に取り掛かる。
 空力を考慮した曲線的なカウル。高い馬力と軽量なボディ。重量のあるパーツを
集中させた重心バランス。それら基本的な構成要素はメーカーの高い技術水準によ
って、市販状態そのままでも時速300kmという最高速度を実現している。
 ここにあるブレッグのマシンは更に可能な限りのチューニングやパーツ交換を施
した、それこそレース用にも迫る代物だった。
 ブレッグの指がタイヤをなぞり、エルミナは脚を組み替え。
 オイルがチューブの中で螺旋を描いて落ちていくのをエルミナの視線が追いかけ。
 二人ともひたすらに無言。
 エンジン内部やコンピュータ制御の混合気比率など本当にプロに任せるべき部分
には手を触れず、走る環境に合わせて調整できる部分は妥協せずに調整する。
 日常整備だけでも相当手を入れた作業を続けるブレッグを、エルミナはひたすら
眺め続けた。
 暴走族『不知火』のリーダー。そして彼らが公道上で行うレースにおいて、初回
からトップを守り続けてきた、文字通り最速のバイク乗り。たまに妙な雰囲気の連
中から頼まれてどこかへ走っていく事もあるが、その興味はただひたすら『走る』
事に向いている。
 群のリーダーである癖にむしろ一人で走っていることのほうが多いことも、そし
てひたすら速さを求めることも、この街にいるもう一つの暴走族グループ『ズィー
ベント・ギガンティア』とは正反対であった。その主義の違い故か、反目していな
がらも、あまりに噛みあわないためにかえってお互い干渉しづらくなってでもいる
ような雰囲気があって彼等の衝突は多くない。それよりはむしろ、騒ぎが大きくな
ったときに毎度現れる男――大十字学園の教師によって追い散らされる事のほうが
多いのだ。
 常に挑発的で憎まれ口の好きな目の前の男について一通り思い浮かべたエルミナ
は、背中に隠すように持っていたバスケットを弄びながら簡単な感想を口にした。

「本当に、変わった人」


「これから出かけるんですか?」

 夕食後のリビング。洗った皿を籠に並べながらキッチンからネリーが口にした言
葉に、ソードは小テストの採点の手を休めて振り返った。
 丁度最後の深皿を籠に乗せ、手を拭き終えたネリーが歩いてくる。

「よくわかったな」
「ソードさん、ガレージの奥の方のバイクを見てましたから」
「何かあったわけじゃないんですよね」
「ああ」
「なら、いいですけど」

 ぽす、と軽くソードの隣に腰掛けて、エプロンを外したネリーはソードを見上げ
た。目が合った一瞬見えた楽しげな瞳の色はすぐに消え、いつもの固体化した鋼色
に戻った目は小テストの答案用紙をなぞりだす。
 なんとなくテストの答案を覗き込んでみる。いけない事ではあるがどうせ見よう
と思えばいつでも見ることが出来るし今見てもやっぱりダメかなけどちょっと興味
が。

「…………」

 結局誘惑に負け、ネリーはソードの動かすペンを追って目を走らせた。
 『The party was concluded with three cheers:その一行は3人のチアガール
によって壊滅させられた』なるほど。一行がチアガールによって……チアガールに
よって壊滅?言語以前に文章の構成としてどうかと思う解答を弾き出した人物の名
前、答案の氏名欄を見て、ネリーは自分の頭上に浮かぶ疑問符が更に増えていくの
を感じた。
 その解答者は『ラルカ』。あまりふざけるということをしない、というかそのよ
うな姿を見たことの無いあの少女がまさかギャグ狙いでこんな回答をするはずはな
いが、しかしこれが本気だとしたらそれはそれで問題がある。
 更に次の解答が『Time flies like an arrow:時間蝿は矢を好む』となっている
事を認識するに至って、ネリーの脳はいよいよもって混乱してきた。
 なんとなく庇護欲というか義務感のようなものを掻き立てられ、一瞬本気であの
天凪優夜―彼が妙な事を吹き込むのはもはや既定事項だ―を排除したほうがいいの
ではと思い始める。しかしあの天凪優夜がそうそう簡単に……天、凪?天凪と言え
ばそんな名前の集団がいたような―

「これが終わったらな。事故らない程度に走ってくるだけだ」
「ふぇっ!?あ、はい」

 思考に沈んでいた脳天に突き立った声に、ネリーはびくんと身体を跳ねさせて顔
を上向けた。妙な方向に煮詰まっていた頭をほぐすために思考を他に……ソードの
バイクに向ける。
 いつも通勤通学に使っているツーリング向けのものではない、もう一つのバイク。
 部品からして完全なワンメイク品であるそれは、他のバイクとはその用途からし
て異なっていた。完全無欠に戦闘用という物騒極まる代物であり――

「まあ、何かあったらその時はその時だな」
「はい」

 ソードの目の中に半分人を捨てた証―星空の写真のような流れる光の線が浮かんで
消える。
 人以外やら超人やら戦闘用やら、その程度の物騒さが霞んでしまう程懐が深いのが、
この街の居心地の良さだった。
 ぴんと三つ編みの先を弾いてネリーは微笑み、勢いをつけてソファから立ち上がる。
 宿題をやってきます、と言い置いてネリーはリビングの扉を開けた。


 ばたん、とソードの背後でガレージの扉が閉まった。独特の振動音がして蛍光灯
が室内を照らし、冷めた光が部品やタイヤ、いつものミリタリー半分カジュアル半
分な格好に肘膝のプロテクターとグローブをつけたソードを照らし出す。
 靴音を響かせながらソードは奥に鎮座するソレへと歩み寄り、シートを取り払っ
た。
 黒一色。
 夜を削り出したように黒いパーツばかりで構成されているそのバイクは、一種異
様な存在感を持っていた。
 一般的なバイクより大型かつ骨太なシルエットながら、ミラーをはじめとする突
起が見当たらないために滑らかなラインを描くカウルは、重々しさをあまり感じな
い。
 甲殻類や昆虫を連想する重なりを見せるカウルを指でなぞり、ソードはハンドル
の中央に位置している液晶パネルのスイッチに触れる。
 ぱちり、とソードの指とパネルの間で火花が走った瞬間、それが目覚めの合図に
なったようにパネルが起動メッセージを表示した。
 一つ一つ確かめるように起動操作を行っていくソード。
 起動種別制限モード。出力特性は内燃機関エミュレート。緊急防衛反応以外の自
律判断をオフ。
 街中で走るにはオーバースペックだった部分をセッティングで調整し終え、ソー
ドはガレージの扉を開いた。真夜中も近いこの時間、空にぼうっとした光を放って
いるのはこの街の中でも眠らない部分――中心街を外れた、いわゆる大人向けのエ
リアだ。
 そのエリアから視線を滑らせ、ソードが見るのは海の方角。中心街から工業地帯
を抜け、貨物輸送向けの太い道路が走っている港湾ブロックだった。ヘルメットを
被り、バイザーを下ろして、ソードはバイクに跨る。
 ひゅぅん、とモーターが駆動を始め、低いうなりと摩擦音がしてソードのバイク
は動き出す。そのままのっそりと言ってもいいような遅さで、黒い姿はゆるゆると
住宅街を抜けていった。


 どぅん、と獰猛な獣のような唸り声を上げ、ブレッグのバイクはアイドリングを
始めた。
 ヘルメットに縁取られた視線がちらりとガレージの中を振り返り、高くなった駆
動音と共にブレッグはガレージから出て行く。
 エルミナが去り際に置いて行ったバスケットは、大分軽くなって元の場所に置か
れていた。

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