「任せた……、ですか」

 しばし目をぱちくりさせたネリーはしょうがないですね、と困ったように微笑ん
で電話を続けた。

『今?どうしたの?』
「いえ、何でも。……ありがとうございます、その出所は私のほうでも探してみま
すから、後でデータをお願いできますか?」
『ええ、構わないわ。じゃあ、いい夜を』
「はい、いい夜を」

 ぴ、と携帯を切り、ネリーは空を見上げる。
 夜空を写す水面に波紋が広がるように一度だけ揺れた瞳は、1秒と経たないうち
に目蓋の奥に隠された。
 声に篭るのは深い感慨。場所も時間も遠くはなれた思い出を胸の内で転がすよう
に、ネリーは目を閉じたまま動きを止めた。

「……どこでも同じですね。すぐ、いなくなっちゃうんですから」

 ぐい、と組み合わせた両手で伸びをすると、ネリーはビル街へと歩き出した。



 school days of S&N vol 0.45 "Day Dream/12th"



「ふあ……さて、今日も一日ヨロシクお願いします、っと」

 がらがらがらがら。
 遠いヨーロッパでの爆弾テロで行方不明者が出た事を報じるアナウンサーの声を
聞き流しながら、悠然は雑貨屋『リールショップ』の営業を開始すべくシャッター
を開いた。
 休日の空は快晴。思わずどこかへ遊びに行く算段を立てたくなってしまう青空の
下で、しかし少年と青年の間の年頃の時間――人生においてとてもとても自由でか
つ後から思い返して貴重だったと気づく時間――を店番で消費するのが彼に課せら
れた、義務に近い慣習であった。
 特に不満はない。店番は店番で色々と楽しい事もある、やりたくもない仕事をさ
せられているよりはずっとマシだし、何より客も冷やかしも区別無くファニーな連
中ばかりだ。
 平日の夕刻に死んだような顔をして帰宅していく中年壮年層の通行人達を毎日見
ている身としてはこれがなかなかの環境だという事はよくわかる。わかるのだが。

「……流石に天気、良すぎだよな」

 取り出した箒の端に掌と顎を乗せ、ほうとため息をつく。
 今頃優夜は納豆を貪っている頃だろう。こんなに天気がいい日にあの男が何かを
やらかさない筈がない。また何かおかしな事を始めてそれが由宇羅の商魂に火をつ
けて自分は荷物持ちに駆り出され、最終的にボロ雑巾のようになる、わけ、だ。確
率としては9割がたという所か。
 毎度毎度よく盾にしてくれるものだ、と奥でレジの準備を行っているこの店の娘
をはじめとするメンバーに疲れた感慨を抱くが、ある程度自分の意思でやっている
部分もない事はない。女性を守るという事だけは、だが。
 道路の向かい側にある塀を眺め、その上を歩いていく黒猫に心の中でおはよう、
と挨拶をしてみたり。心の中だけで黒猫に挨拶するあたりがシャイというか分別の
ある男村上悠然。



 ひゅぅん、と高い音が道路に響く。全ての部品が黒いそのバイクは曲がりくねっ
た道路でもいちいち減速せず、驚くほど滑らかに走っていた。



「失礼」
「へ、あ、はい、いらっしゃいませ!」

 しゃがしゃがと店先を掃いていた背中に突然声をかけられ、悠然は急いで振り返
った。普通なら何事かと思う所だが、気配のない呼びかけには慣れている。変わっ
た風貌にもだ。
 それ故に悠然は、その違和感に気づくことは無かった。
 呼びかける前は気配などなかったというのに認識した瞬間に視線を自然に集める
ような存在感を放ち始めたその客は、やや高いところにある顔を微笑みの形に緩め
ていた。
 銀縁の眼鏡を光らせて、金髪をオールバックにした紳士は口を開く。

「この店、ボールペンは売っているかな?安いものでいいんだが」

 容貌から多少構えていたのだが、未知の言語ではなくよく知る言語、それもかな
り流暢な発音とイントネーションだったので悠然は安心した。
 はい、と頷いて箒を立てかけ、天井までびっしりと詰まった商品棚を案内する。
品揃えは凄まじいが、それに比例するように密度も凄まじいのがリールショップの
隠れた欠点だと悠然は思っていた。ある程度場所の見当がつく程度には慣れていな
いと探しづらいのだ。
 数十本のボールペンが突き刺さったプラスチックボックスを引き出しながら思い
つき、尋ねる。

「色の指定なんかはありますか?」
「ああ、赤を」
「はい……ええと、これとこれがありますね。先端のしまい方に違いがあります」

 ノック式とキャップ式をそれぞれの手に持って見せながら、悠然は目だけを動か
して由宇羅の姿を探した。……発見できず。他の客もいないようだし、まあいいか
と年齢のよくわからない目の前の客に集中する。

「では、こちらを貰おう。……重ねてすまないのだが、道を教えてもらっても構わ
ないかな?この街には不慣れでね」
「ありがとうございます。道ですか……俺でわかる場所でしたら」

 男が広げた地図を一緒に覗き込みながら、道を聞くのが目的か、と悠然は納得し
た。ついでに何かを買っていってくれるのだから、いい客の部類だ。

「大きな施設だから、大体の方向だけでも構わない。ポートタワー、なのだが」
「確かに大きいですね」

 今の場所がここで、と渡したものとは別のボールペンで地図を指し示す悠然に、
紳士は熱心に聞き入った。ついでのように幾つかの大きなビルや施設の方向と目印
を尋ね、紳士は身を起こして外に視線を投げる。

「なるほど、ありがとう。時間をとらせたね」
「いえ。何かご入用の時には、またうちをご利用ください」

 優雅に手を振る紳士に頭を下げ、店先まで見送る。
 いいひとだったなあ、と柔らかくなっていた悠然の気分は、その紳士が角を曲が
って見えなくなった瞬間に潰された。

「何してるんですか、悠然さん!」
「うわっと、って何?ど、どうしたんだ?」

 またもや注意の外から声――今回は怒声だが――を浴びてわたつく悠然に、どこ
かに隠れていたのか突然出現した由宇羅は手に持った事務ファイルを突きつけた。

「お勘定!」
「あ」

 脊髄で言葉が何を表しているか理解したかのように一瞬でやべえ、という顔つき
になった悠然に、由宇羅は言葉を続ける。

「万引きならともかく今みたいな場合じゃ追いかけていってお金を貰うのもイメー
ジ悪いじゃないですか!ペン一本だっておろそかにしていたら儲けなんて出せませ
ん!」
「……ごめん、代金は俺が払っておくよ」
「あ、そうですか?ならお店の損害は……って、そうじゃなくて!」

 せめてと思って告げた言葉が効果を発揮したのも一瞬だけで、結局理不尽な怒り
を焚きつけただけのようだった。八つ当たりに質の変化した叱責を、悠然は甘んじ
て受け続ける。……誰か客でもこないものか。そういえば店先でこうしているのは
イメージとしていいのか?
 そう思っているのが伝わったというわけではないだろうが、一人盛り上がる由宇
羅はいよいよもって子供っぽい動作で両手を振り上げ振り下ろして叫んだ。

「ああ、もう!そんなボケボケっとしてる悠然さんはいっそ車に轢かれちゃえばい
いんです!」

 ――ごぅん。
 です、と言う声が塀に当たり、そこにいた黒猫を逃げ出させた瞬間。
 まるで舞台背景を突き破ってきたかのような唐突さで、店先の道路に濃緑のダン
プが姿を現した。
 由宇羅の背後、悠然の目が向いている方向。二人がいるリールショップの店先を
前輪が踏んでいくような進路で突っ込んでくるそれを脳が認識する前に、悠然の身
体は行動を起こしていた。
 振り下ろされた姿勢になっている手首を握り、思い切り店の中の方向へ。反動で
自分の身体は道路――ダンプの正面へ。
 きょとんとした顔が横にすっ飛び、代わりに視界一杯にダンプのバンパーが迫る。
この期に及んでブレーキの気配もないダンプの運転手は何をしているのだろうとい
う疑問が頭をかすめた。
 さて、頑丈さには自信があるが――どうだろう。死なずにすむだろうか?せめて
こんな真正面でなければ希望もあるが。挽肉になるのは勘弁して欲しかった。
 そんな事を考えているうちにダンプはもう目の前1mの距離だった。
 ああ、参ったな。由宇羅の事を頼むって言われてたのにな。
 覚悟なのかどうかもわからない妙な心境で悠然が目を閉じた途端、強烈な横方向
の加速度が加わって首と肩が嫌な音を立てる。
 痛みに見開いた目が通り過ぎていくダンプの側面を捉え、復活した聴覚がばきば
きと置き看板や商品ワゴンが破壊される音を拾ってから数秒。引っ張られたままの
姿勢で背後の何かに寄りかかり、へたり込んでいた悠然ははっとした。

「由宇羅!」
「女をかばうあたりはいい根性だが。伏せるなりなんなり、もう少し足掻いても良
いだろうに」
「へ?あれ?」

 背後から、聞いたことがあるようなないような女の声。
 衝突の瞬間引っ張られた事を思い出し、誰か知り合いが助けてくれたのかと後ろ
を振り返った悠然は、目を丸くした。
 最も近いのは、知り合いが奇妙な格好をしている、という表現だろうか。
 その少女の体格にまったくもって不釣合いな巨大な黒いバイクは、ソードが何度
か乗っているのを見たことがある。同一のものかは自信がないが。
 癖のない黒髪は腰辺りまで伸び、先端だけが三つ編みになっている。
 挑発的な輝きを宿す瞳は鳶色で、今はバイクの上から楽しそうに悠然を見下ろし
ていた。

「ネリー……?」

 表現するなら2Pカラーか。姿形こそそっくりなものの、肌の色も瞳の色も、何
より雰囲気が違っている。
 ラフなブラウスとスリットスカート姿で大型バイクに乗るという豪気な格好のネ
リーに似た少女は、呆然とした声に何故かますます楽しげに眉を緩めた。

「そうボケッとするな。向こうの――」

 言いながらダンプ、いやその向こう側を指差す。

「――方を安心させて来い、轢かれたと思っているだろうからな」
「あ、うん」

 由宇羅の声は聞こえてこない。自分と同じようにへたり込んでいるのか、思い切
り投げたせいでどこかに頭をぶつけてでもいるのか。
 そんな事を考えながら立ち上がって駆け出した悠然は、ふと気づいて後ろを振り
返った。

「あ、それでネリーな……の、か?」

 振り返った先には黒髪をなびかせて小さくなっていく後姿。
 数秒間考え込んだ後、悠然は店の方へ歩き出しながら自分でも意味があるのかわ
からないままにぽつりと呟いた。

「ノーヘルじゃん」

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