振り返った先には黒髪をなびかせて小さくなっていく後姿。
 数秒間考え込んだ後、悠然は店の方へ歩き出しながら自分でも意味があるのかわ
からないままにぽつりと呟いた。

「ノーヘルじゃん」



 school days of S&N vol 0.45 "Day Dream/13th"



「うぅ……いたた」

 東からの日が差し込む部屋の中。目の下に濃いクマを浮かべたネリーは、ベッド
から起き上がるなり呻いて頭を押さえた。

「……――」

 なんとなく自分の髪の色が気になって簡単に後ろでくくった形の毛先を摘み上げ
る。いつも通りの薄い金色だった。

「んー……んん?」

 ……はて。何か違ったような、知り合いが近くにいたような気がするのだが。妙
な夢でも見たのだろうか?
 形にならない違和感と頭痛はベッドから這い出し、洗面所へ降りる間も消えない。
しかしはっきりとした形にもならない。どうにも不快だ。
 冷たい水で顔を洗い、髪をいつものように編んで着替えると、ようやく頭がはっ
きりとしてきた。現状、そしてやらなければいけない事が列を成して浮かんでくる。
 心のどこかで急げ急げと誰かが繰り返していた。料理をする時間も惜しみ、冷蔵
庫からゼリー飲料のパックを取り出して一気に啜る。10秒で2時間というキャッ
チフレーズの通り、多くはない中身はすぐに腹に収まった。忙しい時にこれは便利
だ。
 多少の睡眠では固まった筋肉はほぐれてくれなかったらしい。吸い込む姿勢から
起こした首がべきん、と嫌な音を立てた。
 くしゃくしゃになった複合プラスチックの袋をゴミ箱に投げ入れる。テーブルに
ばら撒かれているプリントアウトや写真、もろもろの周辺機器とその中心に鎮座す
るノート型PCの前に座り、蓋を開いた。
 誰も座っていない向かい側の椅子の背もたれを起き上がった液晶ディスプレイが
覆い隠す。真っ黒な画面に反射する自分の顔が、酷く疲れているように見えるのは
気のせいではあるまい。
 ここ数日は時間をかけて入浴することも、肌の手入れや髪の手入れもしていない。
締め切り前の業界人はこんな生活なんだろうか、ととりとめのない考えが浮かんで
消えた。
 トラックパッドを撫でてブラウザを起動させながら、電話の子機を首と肩で挟む。
暫くコール音が響き、かけなおそうかと考え出した頃にようやく眠そうな男の声が
聞こえてきた。

「――おはようございます、シェーンベルクです。海上ルートの記録の件はどうな
りました?……経費?追加で?使途は?……人、ですか?」

 返ってきた答えに、整った形の眉が急角度に吊り上がる。一度眉間を揉み解し、
ネリーは言葉をつなげた。
 一応は実績のある情報屋だったはずだが、依頼主が子供というだけでずるずると
期間を引き延ばし、追加費用の名目で金を引き出そうとする輩ならば……構ってい
る暇はない。

「そもそも最初は経費も規定していた筈ですよ?……既にオーバー額だけで最初の
予定範囲を越えていますし、これで追加経費となると経費枠よりそちらの能力を疑
うべきですね」

 決してネリー自身にも耳障りが良いとはいえない言葉を、小さな唇は次々と紡い
で行く。

「とにかく、これ以上の増額はできません。契約打ち切りでも結構ですが、こちら
からの『評価』もそれなりになります。では」

 向かい合わせの席の主がいれば、という事あるごとに頭をもたげる愚痴を脇に押
しやり、ネリーはため息をついて子機を置いた。
 暫く背もたれに体重を預けて天井を見つめ、更にため息。もっさりとした動作で
顔を戻し、メールをチェックしながら、頬杖をついてネリーは呟く。

「……頭、痛いなぁ」

 水でも飲もう。ネリーは立ち上がると、キッチンへゆらゆらと歩き出した。



「ふ、ん?随分とまあいらついているな」

 この距離まで近づいても気づく様子もない。むしろ自分だからなのかも知れない
が、気づかれないのは気づかれないで自分を抑える役には立つ。節度を持って仕掛
ける、というのがあの男との約束だ。
 ひとまず通話の終わった事を確認すると、彼女は耳に嵌めていたイヤホンを引き
抜いた。電話機の電波を傍受させていた多目的通信機の電源を切り、ノイズを避け
るために停止させていたバイクのスイッチを入れる。
 手馴れた様子で大出力のバイクをゆったりと加速させながら、『ネリー』はふむ
と唸って考え込んだ。
 さて、どう行動したものか。不確定な情報も確定した情報も、ついでに自分が知
りたいことも。考えてみれば色々とある。
 今動いている『駒』も、考えてみれば随分と少ない。これでは盤上が寂しいだろ
う。向こうの望む結果をある程度誘導してやらねば、途中からこちらの望む結果へ
持っていくという状況にすること自体難しい。

「巻き込んでみるか」

 バイクを路肩に停め、携帯電話を取り出そうとしてはたと気づく。自分の電話契
約というものは考えてもいなかった。当然、いくら懐を探ろうがないものは出てこ
ない。
 少しくらい気を利かせれば良いものを、とここにいない男に責任転嫁しつつ仕方
なしに道路を見回し――街角から公衆電話が次々と姿を消している事実を再確認し
て眉間に皺を寄せた。

「……面倒な」

 ぐい、とアクセルを開けて加速する。
 警察の存在など知らぬとばかりに髪をなびかせて向かう先は、オフィスビルが立
ち並ぶ中心街だった。



『ネリー……?お前がか?』

 篭った空気が暑苦しい為に電話ボックスの扉を開け放したまま、彼女は受話器を
耳に当てていた。やや遠い電話口の声は、ショッピングセンターの賑やかさに掻き
消されそうになる。
 名乗った途端返って来た疑わしげな声にこいつもだなと笑みがこぼれた。性格の
違う面々が似たような反応を見せるのが妙に可笑しい。

「細かいことは気にするな。伝えたいことさえ伝われば不都合はなかろう?」
『何の用だ』

 文字通り短刀を垂直に突き刺してくるが如き物言い。眉一つ動かさないであろう
その顔を想像するのさえ、いや、ほとんど全てのモノが彼女には楽しさを誘うモノ
だった。

「この一帯の安全に関する事でな。45分以内に来い」

 現在位置を告げ、即座に通話を切った。来るか来ないか……恐らく来るだろう。
彼が気にしている物に関する事を気になるように告げたのだから。電話ボックスか
ら出て、バイクによりかかりながら視線を上げる。
 酷く遠い青空の下でビルが空を支える柱のように伸び、そのずっと下で人々が広
場を歩きすぎていく。ショッピングセンターに吸い込まれていく人、反対に吐き出
されていく人、また目的もなさそうにぶらつく人。それらの人通りはまるで日常的
風景のままだ。
 15分経過。
 行き交う人々は互いへ何の興味も持たないままに通り過ぎていく。ふっと一人二
人が消えたところで誰も気づかないのではないか、そんな考えさえ浮かぶほどに平
坦な風景だった。
 30分経過。
 バイクにくくりつけていたタンクバッグから薄いパーカーと革のグローブを取り
出す。肌寒くはないが、皮膚の露出は多すぎても良くない。
 駅からそれなりに離れた立地のせいもあるのだろう、広場を通り過ぎてショッピ
ングセンターに向かう人々は少なくなってきていた。
 42分が経過したところで、ようやく広場の端に見知った顔が現れた。
 軽く手を振ると気づいたのだろう、彼女へ向かって歩いてくる。既にまばらにな
っていた人通りの中を一直線に向かってきた彼の顔はやはりむっつりとした、真剣
な無表情とも言うべきものだった。
 いい加減これでは不審だなと思いつつも、笑顔が浮かぶのは止められない。抑え
目に出した声も、どうしても楽しげになっていた。

「あまり女を待たせるものではないぞ?レグニス」
「誰だ、貴様は」

 会話する気がないような反応に、やれやれと首を振ってみせる。当然ながらぴく
りとも彼の――レグニスの表情は動かなかった。
 そんなやりとりの最中にも、耳に届く足音が減っていく。

「言っただろう、『コルネリア・シェーンベルク』だと」

 視線を送ってみる。無言。仕方がないので言葉を続ける。背後でこつん、と最後
の足音が路面を打った。

「まあ、私の呼び名は良いとして。周囲を見て何か気づかんか?」
「見るまでもない」

 昼下がりの広場。日差しの中で立ち止まっている人々。電池切れでも起こしたよ
うに止まっている通行人達は、皆目の焦点が合っていなかった。

「何だ、この連中は」
「以前『私』が言っただろう?市街戦くらいはあるかも、と」
「…………」
「時間だ」

 ぱきん。実際に音が響くわけではないが、感覚のどこかが、そんな硬いものが欠
けるような感触を伝えてくる。
 音が消え、空にヒビが走り。まるで舞台背景として描かれた景色が割れてずれる
ように、照らされる光ごと景色がずれた。
 ずれずに残ったのは広場を含んだショッピングモール一帯。そして立ち尽くす人
々。出来の悪い舞台のような小さな世界の中で、レグニスと彼女だけが常態を保っ
ていた。

「奴の『ニオイ』がここでしたからな。必ずこうなると思っていた」
「……説明してもらおうか。これの原因は貴様なのか?」
「せっかちだな。まあ、とりあえず説明はしてやる」

 言いながら振った掌から、赤い光が弾ける。
 先ほどとほとんど変わらない楽しげな笑顔の向く先で、ひたすら立ち尽くしてい
た通行人がぴくりと動いた。
 歩き出そうとして動いたのではない、見る間にその頻度はたかまり、ほとんど痙
攣と言っても良いようなレベルに達する。
 異常に気づき、振り向き、無言のまま目を見張るレグニスと掌から光をこぼし続
ける彼女の視線の先で、まるで水に溶けるように人間の構成が崩れていき。

「――何だ、あれは」

 真っ白な材質で出来た、造形の崩れたマネキンか何かのようになった通行人はが
くがくと痙攣を続け――

「だから説明してやる。この連中を――」

 ぐるり、と首を回して二人を見つめたのは、同様の変化を起こした周囲全ての元
通行人達だった。

「――片付けてからな」

 言葉と同時に飛び掛ってきたマネキンもどきを、瞬時に伸びた赤い光が両断した。

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