「はぁ…………」 ぽつりとでたため息が、湯気に乗って天井へとのぼり、消えていく。 ゆったりと湯につかりながら、ブラーマは湯船のふちにもたれかかった。 にわとり荘は元々旅館であるため、風呂場はかなり広く作られているのだ。 もっとも今は3.5人(乳幼児含む)しか住んでいないので元女湯の所しか使用してないが。 「ふう…………」 ため息をつくと幸せが逃げる、などど言う迷信なぞこれっぽっちも信じることなく、再び彼女はそ の思いをため息に乗せて吐き出した。 自分をこんな気持ちにさせるのは、決まってあいつのことを考えている時である。 まったくあいつときたら。 本当に鈍くて勘違いで、それでもどこか放っておけなくて…… おかげでいつもどうにもならない想いばかりがもやもやと溜まってしまうのだ。 このもやもやをどうにかして綺麗に処理できないものなのか。 「やれやれ……」 それでも以前に比べればだいぶマシになったほうである。 以前など、この気持ちがなんなのか全くわからず、ただひたすらにやきもきしていたものだった。 一度この気持ちを……あいつへの想いを自分自身で認めたら、とても楽になったのだ。 だからこそ、今こうして届かぬ想いから来るもやもやを溜め込んでいるのだが…… 「どれだけ長くとも……やはり前進あるのみか」 そう簡単に諦めるのは、自分の性分ではないのだ。 自らの気合を再確認するようにつぶやくと、ブラーマは湯船から立ち上がった。 学園編 第5幕 奇妙なずれ違い 脱衣所にてブラーマは体を拭く。髪が長いから結構大変な作業である。 (なんとなく伸ばしてきたのだが……あいつの好みはどうなのだろうな……) ふとそんなことを考える。相手の趣味に合わせる、と言うのも馬鹿馬鹿しい話だが、そうでもしな いと突破口が見えないのだ、この場合。 (でも、できれば今のままの私を……好きに……) そこまで考え、自らの思考に彼女は赤面した。 (な、何を考えているのだ私は……) 誰かに知られたわけではないが、それでも気恥ずかしさがこみ上げてくる。 なんだかいたたまれない気分になってしまった彼女はごまかすように周囲を見回した。 と、その視界に脱衣所の隅に立てかけられた体重計が映る。 そういえば特組に編入された当初に行われた身体測定以来、計ってない気がする。 それに自分はもともといくら食べても全然太らないタイプなのだ。気にも留めていなかった。 だがブラーマはなんとなくその体重計を引っ張り出すと、上に乗ってみた。 「………………!」 彼女の時が停止した。 「太ったんですか? そうは見えませんけど……」 放課後の特組の教室。傾きつつある西日と電灯の光が満たす中、ルルカが小首をかしげるようにし て聞き返した。 それに対してブラーマがどこかしら引きつった顔のまま頷く。 「うむ、先日計ったところ……増量していた」 「どれぐらい増えてたんです?」 「…………な、7sほど……」 「う、それは……」 「なかなかにご機嫌な量の増加だな」 口ごもるルルカの隣で、笑いの色を含みつつアールがさらりと言ってのけた。 「笑い事では無いぞ寮長殿。早急に対策を考えねば……」 苦い口調でブラーマが言い返す。だがアールはなんら動じることなく、 「ところでクラス委員長。いつの間にそんなに増量されたのかな?」 「う……私が思うに、この間の祭りの夜に少々……」 「あ〜、お祭りって食べすぎちゃいますもんね」 「稼ぎ時ですしね!」 納得するようにつぶやくルルカの横で由宇羅がうんうんとうなずく。 「……稼ぎ時?」 「ええ、屋台で店の売れ残りとか出すと、みんなノリで結構買ってくれるんですよ!」 『…………………』 生き生きとした笑顔で笑う由宇羅に他の一同が沈黙する。 「と、ところでブラーマさん。祭りの夜に一体どれだけ食べたんです?」 「う、うむ。え〜っと……わたあめにイカ焼き、リンゴ飴、焼きそばとたこ焼き、それにくわえて チョコバナナだったな」 一つ一つ指折り数えるブラーマに、次第に全員が呆れ顔になる。 「それは食べすぎだ」 「ええ、わたしでもわたあめにリンゴ飴、お好み焼きに飴細工、あとはカキ氷をシロップを変えて 三杯くらいですよ」 「私も焼きそばにお好み焼き、カキ氷とフランクフルト、チョコバナナといったところだ」 「くっ……やはり原因はたこ焼きか……」 「それだろうな」 「間違いないと思います」 焦燥もあらわにうなるブラーマに、アールとルルカがそれぞれうなずく。 「と、いうわけでこれから私はダイエットをしようと思う」 「ダイエット……ですか……」 「うむ、増加した体重を減らし、元の体型を取り戻すために私は戦う!」 気合を込めた叫びとともに、その目に炎を宿らせたブラーマが椅子からすっくと立ち上がる。 「がんばってください! レグニスさんの心をつかむためにも!」 つられてルルカも炎を宿らせながら立ち上がる。 と、そこにアールがぽつりと、 「……ダイエットをすると胸からやせるそうだ……」 『…………………』 ブラーマが凍結。ついでにルルカも凍結した。 「……ま、まあ、それは別問題として……」 「え、ええ、そんなのただの飾りですし……」 しばらくしてなんとか凍結から脱した二人がぎこちない笑みを浮かべた。 「じゃあ、ウチの店の薬を使ってみます? やせたい部分に塗るだけ、効果は抜群の一品ですよ」 「む、それは本当か由宇羅殿?」 「ええ。ただちょっと……成分が……アレですけど……」 「なぜそこで目をそらす……」 わずかに視線を外す由宇羅の姿になにやら薄ら寒いものを感じる。 「……買います?」 「……遠慮させてもらう」 「効くんですけどねぇ……アレですけど」 どこか不満気にぶつぶつとつぶやく由宇羅。 「とにかくだ!」 ブラーマは絶叫しつつ、ばんと机を叩いた。 「私の以前の体型と体重を取り戻すため、そしてあわよくば理想的なスタイルとなってレグに…… いや、それはともかく、私はここにダイエットをすることを宣言する!」 「応援しますよブラーマさん、がんばってください!」 「必要な情報は提供するぞ。まあ、実践データはとらせてもらうが」 「なにか入り用なものがあったら、いつでも言ってくださいね」 口々にいう三人にブラーマはゆっくりと微笑みかけた。 「ありがとう、御三方。ところで一つ言いたいことが……」 「なんですか?」 聞き返すルルカにブラーマは先ほどの笑みを欠片も崩すことなく、言った。 「私の前で間食するのはやめてくれ」 『……あ』 同時につぶやく三人。その手から食べかけのポテトチップスがぽろりと落ちる。 机の上には大量の菓子の空き箱や空き袋が散らばっていた。 その日から、ブラーマの戦いが始まった。 ブラーマが行ったダイエットは食事制限と運動量の増加という、ダイエット全般から見てもごくご く基本的なものであった。 だがそれは運動の苦手なブラーマにとって非常に困難な道のりだった。 しかしそれでも彼女は負けることなく努力を続け、そして一週間ほどがすぎた…… 「このところ、ブラーマの様子がおかしい」 昼休みの屋上。どこからともなく吹きすさぶ風に制服の裾をはためかせつつ、レグニスが言った。 同様に風を受ける生徒は二人。新見 忍と天凪 優夜。 「はあ……ブラーマさんの……ですか?」 「そうだ。だが俺がどう尋ねても『なんでもない』の一点張りでな」 不思議そうに聞き返す忍にレグニスはさらりとうなずいてみせる。 「それで僕達に相談を……」 「まあ、そういったことだ」 「でもどういう風におかしいか、ちゃんと説明してくれないとね。レグくん?」 「ふむ……」 真面目ともふざけているとも思える口調で言う優夜。レグニスは考え込むように顎に手をやると、 思いついた部分を口にした。 「まず……顔色が悪い。食事もあまりとっていないようだ。しょっちゅうしていたはずの間食もこ こ最近していない。疲れているのか始終だるそうにしているな」 「……興味ないように見えてちゃんと見てるんですね。ブラーマさんのこと」 「まあな」 呆れ半分、感心半分で言う忍にレグニスは照れの欠片も見せずにうなずく。 「はは……、で、他にはなにか?」 「そうだな……気分が優れないのか常に憂鬱そうにしている。……そういえばよく腹部を押さえて いるのを見かけるな」 「おなかでも壊したんでしょうか……?」 「いや、それにしては長引きすぎている」 忍の疑問に対してレグニスは首を振った。自分がこのブラーマの様子に気付いたのは五日ほど前の ことだ。ただの腹痛にしてはあまりに長い。 「いや、それは違うね。これはきっとアレだよ」 不意に優夜が口を開いた。その自信満々な表情にレグニスは少し疑わしげな視線を向け、 「ほう、わかったのか優夜? 教えろ」 「『教えてください』でしょ?」 「……………………」 「ま、冗談は置いとくとして。これはオレの口からは言えないなぁ」 「……どういう意味だ?」 わずかに首をかしげるレグニス。さらに優夜は自信に満ちた笑みのまま、 「だから、一度ちゃんと医者につれて行ってあげて。そうすればきっとキミにもわかるから」 「医者か……」 「そうそう。あ、医者に見せる時はレグ君も一緒に行ってあげること。もうブラーマちゃん一人の 問題ってワケじゃないんだし」 「なるほどな」 優夜の言ってることは相変わらず半分近く意味不明だが、言いたいことは大体理解した。 すなわち『自分のコネのある医者にブラーマを診せろ』ということだ。 確かに『あいつら』は医者と呼ぶには若干の抵抗があるが、人体に関してのエキスパートであるこ とには違いない。どんな些細な疾患でも見逃しはしないだろう。 「わかった。医者に連れて行くとしよう」 「うんうん、それが一番。ちゃんと男としてのセキニンを果たして来るんだよ」 「心配いらん。できる限りのことはする」 互いにうなずきあう二人、それを見ていた忍がポツリと一言つぶやいた。 「何か……ズレてる気が……」 「ブラーマ」 放課後、機を見計らってレグニスはブラーマへと声をかけた。 「ああ……レグか……何か用か?」 振り返り、笑いかけるブラーマ。やはり顔色が悪く、その笑みもどこかぎこちない。 (やはり急いだほうがよさそうだな……) 内心そうつぶやくと、レグニスは彼女の腕をむんずと掴み、 「行くぞ」 「……は?」 間の抜けた声を上げるブラーマにもかまわず、そのまま引っ張っていこうとする。 「ま、待て。どこへ行く気だ!」 「病院だ。お前を診てもらう」 「な、病院……わ、私はどこも悪くは……」 「それをこれから調べてもらうというんだ。だが検査結果によっては……」 そこで言葉を切ると、レグニスはわずかに舌打ちし、 「……国外に出ることになるな。パスポートを用意しておけ」 「待て待て待て! お前は私をどこに連れて行く気だ!」 「安心しろ、今日のところは国内で済む」 「そういった問題ではない!」 「……医者のことか? 確かに問題のありそうな奴ばかりだが、俺が見張っている。心配するな」 「違ーうっ!!」 腕をつかまれたままブラーマが絶叫した。 「何が違うと言うんだ……まあいい。話はお前のその体調不良を診てもらってからだ」 「違うんだ、これはその……ただのダイエットだっ!」 レグニスの動きが止まった。 「減量だと……?」 ゆっくりと、レグニスが振り返る。その視線にブラーマはわずかに身をこわばらせつつも、 「う、うむ。一週間ほど前、にわとり荘の脱衣所で計ったところ……増えていたのだ」 「そうか……あの体重計、買い換えたか。だが少しぐらいの増量など気にするほどでもないと思う がな。むしろ体重があったほうが接近戦では有利に……」 「だからそういった問題と乙女心は全くの別問題であってだな……待て、今なんと言った?」 不審げな声とともにブラーマが目を細める。 「……体重があったほうが接近戦では有利と……」 「違う、その前だ!」 「……あの体重計、買い替えたのかと言ったんだ」 「……どういう、意味だ……?」 なにやら不吉のものを感じつつも、ブラーマはさらに質問を続ける。 「先月ぐらいの話だ。体重計の上に俺がうっかりナイフを落としてしまってな。表示に著しい誤差 が生じるようになってしまったのだ」 「ご、誤差……だと……」 「そうだ。これでは使い物にならんから、脱衣所の隅によけておいたのだが……ブラーマ?」 うなずきつつ、レグニスは目の前の少女の変化に気が付いた。 前進を小刻みに震わせ、先ほどから悪かった顔色がさらに急速に悪化していく。 「どうした、ブラーマ?」 「あれは……誤差……では……私の決意と……今までの苦労は……」 意味不明のつぶやきとともに、不意にその体がぐらりとよろめく。 そのままブラーマは教室の床にばったりと倒れ伏した。 結局その日、ブラーマはレグニスに抱きかかえられて帰路に着いた。 その表情は、うれしいんだか情けないんだか、よくわからないものだった。 ちなみに後日ちゃんとした体重計で計り直したところ、彼女の体重は以前となんら変わりなかった。 第5幕 終わり |