……台風17号は未だ強い勢力を保ったまま、夜半過ぎには上陸する見込みです。 強い雨と、風に注意した上で…… プツン 「……と、まあそういうわけだ。お前達も寄り道とかせずにまっすぐ帰ること」 ラジオのスイッチを切ると、気だるげな調子でソード先生が皆に向かって言った。 その良く言えば生徒任せ、悪く言うなら投げやりな態度に生徒達の間にため息のようなものが混じる。 「先生……それだけですか?」 そのあまりにも簡単な言葉にたまりかねたように生徒の一人から質問が飛ぶ。 まっすぐなまなざしでソード先生を見つめ……否、睨みつけているのは特組良識人の一人、ネリーだった。 ジェノサイドティーチャーと恐れられるソード先生に意見できる、数少ない生徒の一人だ。 「それだけ……と言うとどういうことだ?」 「こういう時は年長者として、注意すべき事とかを……こう、ばしっと……」 「ああそうだな。お前ら、意味なく外を出歩いたりするなよ」 「……他には?」 「念のため避難の準備はしとけよ。それと学園も一応避難場所に認定されてるからな」 「……それ以外に言う事は……」 「調子にのって雨を浴びたり、暴風に立ち向かうとか阿呆な事をやらかさんように」 「…………」 「えーっと、他に言う事は……」 「もう、いいです……」 疲れきった調子で呟くと、ネリーは力なく席に座りなおした。 「じゃあ、ホームルーム終了だ。解散!」 学園編 第7幕〜雨降って大嵐〜 ソード先生が教室を後にすると、途端に室内はあわただしくなった。 「雨、ひどく降るみたいですね」 「うむ、大事に至らなければよいがな……」 ルルカの言葉にうなずきつつ、ブラーマは他の生徒と同じように窓の外へと目をやった。 どす黒い雲がすごい速さで流れて行くのがよくわかる。 今はまだ雨は降っていないが、それも時間の問題。強い雨が降るのは誰の目にも明らかだった。 「明日には晴れるんでしょうか……お洗濯物が溜まっちゃいます」 「ポイントずれてると思うよ、ルルカさん」 「それよりもチビスケ、あのボロっちい寮の方は大丈夫なの? 吹っ飛ばされたりしない?」 「ベルティ……流石にそれはないと思いますよ……」 苦笑交じりに桜花がたしなめる。 ちなみに、寮は見た目は古いがしっかりとした鉄筋コンクリ製であり、台風も地震も恐れる心配はまるでない。 と、そんな会話を繰り広げる一同の脇を、一人の少女が通り抜けていった。 「あれ由宇羅さん。もう帰るんですか?」 「ええ、ルルカさん。早く帰ってお店の商品を災害対策セットに並び替えないといけませんから」 「……相変わらず商魂逞しいんですね」 「それを取ったら何も残んないからなぁ」 横からぼそりと口を出した悠然を律儀にはたき倒すと、由宇羅は抜群の商売スマイルを一同に向けた。 「じゃ、私達はこれで。何か入り用ならお店に来て下さい。ギリギリまで開けてますから」 「うむ、ではそうさせてもらおうか」 「お待ちしてまーす。さ、行きますよ悠然さん」 半分ぐったりとしている悠然の襟首を引っつかむと、由宇羅はそそくさと教室を後にした。 なんとなく置いてけぼり感を食った一同。と、そこに新たな二人組みが近寄ってきた。 歩く迷惑と全身凶器朴念仁、優夜とレグニスの二人だ。 「さーてルルカ、そろそろオレたちも帰るとしますか」 「はいはい、優夜さん」 「俺達もだ、ブラーマ。台風接近に備えて早急に帰宅するべきだ」 「うむ、わかっているとも」 呼びかけられた二人の少女もそれぞれ席から立つと、帰宅の準備を始めた。 だがふとブラーマがその手を止めると、桜花たちへと顔を向け、 「そういえば、桜花殿たちはまだ帰宅されなくてよろしいのであるか?」 「ええ、私達は学生寮住まいですから。少しぐらいなら大丈夫です」 微笑みながら桜花が答えた。 言うまでもなく、学生寮は学園の敷地内に存在する。 たとえ台風が本格的に進行してきても、まず帰宅不能となる距離ではない。 するとそこに横からベルティが口を挟んできた。 「そうね桜花、余裕よね……じゃあカラオケ行きましょう、カラオケ!」 「あ、それいい考えかも。うまくやれば台風がそれてくれるかもしれないよ、ベルティの歌で」 「そうそう、わたしの歌声は台風すら裸足で逃げ出す……って、言ってくれるじゃないチビスケ」 いつも通りの言い争いをはじめる二人。 本気で言い合ってはいるが、これも特組では見慣れた光景である。 「ち、ちょっと二人とも……」 「では桜花殿、我々はこれで……」 「あ、皆さんもお気をつけて……って、二人ともいい加減に……」 桜花に後を任せると、ブラーマ達はそそくさと教室を後にした。 「しかし台風か……」 天気のせいで普段より薄暗い廊下を歩きつつ、優夜がぽつりと呟いた。 続いてレグニスもうなずく。 「面倒なものだな。しかしものはついでだ、強風が吹き荒れる環境を元とした訓練でもするか」 「やめぬかレグ。危ない」 「しかしそういった危険をはらんでいてこそ訓練に……」 「どうしても何かしたいなら、あとでにわとり荘の屋根の雨漏りでも確認してくれ」 「……了解した」 「あははは……」 どこかかみ合ってない二人のやり取りに半ば引きつったような笑みを浮かべるしかないルルカ。 だがその時、横を歩いていたはずの優夜の姿が無いことに気付いた。 不思議に思って足を止め、振り返ってみると優夜は廊下の真ん中で立ち尽くしたまま、何かを真剣に見つめていた。 「どうしたんですか、優夜さん?」 「ルルカくん。お兄さんは今、とても真剣に悩んでいるのだよ」 「それは見ればわかりますが……」 「そう、お兄さんは真剣なんだ。今世紀で一番と言っていいほどに」 「まだ始まったばっかりなんですけど……」 ぽつりと突っ込みつつも、その口調はどこか神妙だ。 それもそのはず、ルルカはこれほどまで真剣な表情で物事を考える優夜をほとんど見たことがなかったからだ。 何を考えているのかはわからないが、ついついこっちまで真剣になってしまう。 「ビデオ屋のタダ券は2枚……果たしてなんのビデオをレンタルすべきか……」 「そんなことで悩んでたんですかっ!!」 思わず声を荒げるルルカ。同時にめまいすら覚える。 そうだった、天凪優夜とはこういう人間……否、物体だったのだ。それはわかっていたはずなのに…… 「何をおっしゃるルルカくん。台風の夜ともなればテレビは大半が台風情報で埋め尽くされ、見るものは少ない。 さりとて外へ行こうにも雨風が強くて出られない。ならビデオやDVDを見るしかないじゃないか!」 「拳を握りながら力説するような事ですか!」 「まあ確かに、手持ち無沙汰なのは間違いないが……」 「ほらブラーマちゃんもそう言ってるし、ここは帰りにビデオ屋に寄って何かしか借りるのが良いとお兄さんは思うわけだよ」 「うう〜〜、わかりました。でも何を借りる気なんですか?」 「そこなんだよなぁ〜〜、悩みどころは」 優夜は手に持ったタダ券をひらひらさせながら首をひねって見せた。 「とあるアニメの前期シリーズを借りるか、ちょっとマイナーな映画作品を借りるか、はたまた『暗闇の二人、秘密の××』 って言うドキドキなタイトルのビデオにするか…・・・」 「最後のはやめてください」 「まぁいいや、行ってから決めるとしよう。ルルカももちろん見るよな?」 「最後のじゃなければお付き合いします」 「はっはっは、そんなにリクエストされるとお兄さん期待に答えたくなっちゃうじゃないか」 「やめてといっているんです!」 叫びながら首を絞めるようにして揺するルルカに、それでも全く笑顔を崩さない優夜。 そんな二人を見つめつつ、ブラーマはごく小さくため息をついた。 「どうかしたのか」 「いや……少しだけうらやましいなと思っただけだ?」 「……ビデオがか?」 「……はぁ、これだからな……」 先ほどより大きくため息をつき、肩を落とすブラーマを前にして、 レグニスはただわずかに不思議そうに眉を動かしただけだった。 時刻が夕方に近付くにつれ、台風の接近による雨風は強さを増していき、 空が完全に夜の闇に覆われる頃にはすでに強い雨と風が町中に吹き荒れていた。 「戻ったぞ」 簡単な言葉と、にわとり荘の玄関をあける音。レグニスが戻ってきたのだ。 ブラーマは夕食の片付けを中断すると、玄関へと走り寄る。 そこには全身ずぶぬれの雨合羽に身を包み、両手には工具箱と懐中電灯を携えたレグニスの姿があった。 「ご苦労だったレグ、して、どうであった?」 「雨漏りの補習箇所に問題はなかった。だが強風を考慮してさらに一段階強化処理をしておいたがな」 ブラーマの問いにレグニスは雨合羽を脱ぎながら答える。 たちまち玄関に広がる大量の雨水。やはり外はかなり降っているようだ。 「ありがとう。風呂が沸かしてあるから先にはいるといい」 「ああ。ではそうさせてもらう」 「しかしミノルカさんは大丈夫なのであられるか……今日はコニーも連れてのお出かけであるからな」 「あいつのところに行ってるのだろう。なら心配はいらん」 長靴をひっくり返し、中の水を捨てながらレグニスが言った。 ミノルカさんは今日はコニーを連れて旦那であるラクノ氏の所へと出かけているのだ。 出掛けに「遅くなるかもしれない」とは言っていたものの、ここまで遅いとなると少し心配になってくる。 玄関の鍵を閉めなおすレグニスを不安そうに眺めるブラーマ。 と、その時ちょうど玄関口にあった電話が音を立てて鳴り響いた。 「はい、にわとり荘です」 『あ、ブラーマちゃん? わたし、ミノルカですよ〜』 「ミノルカさん? 今どちらに?」 『それがねブラーマちゃん、台風のせいで電車とか皆止まっちゃったみたいなの。 だから今日はわたし、主人の所に泊まることにするから』 「え……じゃあ今日はここには……」 『ええ、二人に任せるわね。火の元と戸締りに気をつけてね』 「ちょ、ちょっと待って下さいミノルカさん!」 『あ、コニーが泣いちゃってる。はいはい今行きますよ〜〜、それじゃあ宜しくねブラーマちゃん』 ブラーマはさらに何か言おうとするが、それよりも早く電話は切れてしまった。 無機質な音を流すだけの受話器をもどすと、苦い表情でこめかみを押さえる。 そこにレグニスが声を掛けてきた。 「ミノルカさんからか?」 「ああ、電車が止まって帰れないそうだ、だから今夜はここは私達……」 そこまで言いかけたところで、ブラーマはハタと気が付いた。 今この家には、自分とレグニスの二人しかいないことに。 さらには外は激しい嵐に音すらかき消されている。まさにここは密閉された空間だ。 そんな事を意識した途端、頭に血が上り体温が急上昇する。 「……どうした、ブラーマ?」 「な、なんでもない、なんでもないのだ」 手を振りつつ、自分でも赤くなってる事がわかる顔を背けると、ブラーマはこっそりと深呼吸した。 落ち着くのだ。何も意識することはない。相手はあのレグなのだから…… 落ち着いてみればなんという事もなかった。 何も今の状況を特別に考える必要など無かったのだ。 その証拠に、ミノルカさんが買い物に出かけるなどして、二人っきりになることは今まで何度かあった。 そしてその度に…………何事も起こらなかった。 そう、何も意識することなどないのだ。だって相手はあのレグなのだから…… わずかな寂しさを感じつつも、冷静さを取り戻したブラーマは一人リビングのテレビを眺めていた。 なお、件のレグは先ほど自分が勧めたとおり入浴中だ。 テレビは相変わらず台風情報が画面の縁を占めているが、番組自体は一応放送されている。 もっとも、冷え切ってしまったブラーマの頭には番組の内容など欠片も入ってきてはいなかったが。 やはりどうも気分が乗らない。 冷めた視線のまま、ブラーマはリモコンを手に取るとテレビのスイッチを切ろうとし…… 「上がったぞ、ブラーマ」 背後からした声に振り返ると、そこには入浴を終えたレグニスが立っていた。 「あ、ああレグか」 「おまえも早く済ませてきた方が良さそうだな。どうも妙な感じがする」 「では私も手早く済ませてくるとするか……」 うなずくと、ブラーマは手に持っていたリモコンを適当に置き、立ち上がる。 が、その時、どうやら弾みでスイッチが入ってしまったようだ。テレビの画面が切り替わった。 『ああ……ダメよリッド……そんな……』 映し出されたのは洋画だった。しかも丁度お子様にはとても見せたくないシーンを流している。 沈黙するブラーマ。レグニスも沈黙する。 二人の間(と言うよりブラーマ)に流れるどうにも気まずい空気。 「………………」 「……ブラーマ?」 「い、行ってくる!」 ただそう叫び、逃げ出すようにしてブラーマは部屋を後にした。 「落ち着け……落ち着くのだ私……」 にわとり荘の浴場の中、ゆったりと湯に浸かりながらブラーマは呪文のようにひたすらその言葉を繰り返していた。 先ほどの一件のせいで、押さえ込んだはずの考えが急浮上していきている。 なんとか冷静さを取り戻そうとするのだが、オーバーヒートしそうな思考を抑えるので精一杯だった。 意識しまい、とすると余計に意識してしまうという悪循環。 「た、たいした事ではない……そう考える事もない、たかが二人きり……二人っきり………… もしかしてまさか………はっ、いかんいかん!」 また思考が流されそうになる。繋ぎ止めるように頭を振ると、ブラーマは天井を見上げた。 立ち上る湯気が天井を濡らし、その中でいくつかの電灯が小さな音を立てて光を放っている。 だがその時、不意に電灯が瞬いた。 不審気にブラーマが眉をひそめた次の瞬間…… 全ての光が消失した。 「な、なな、なんだ!」 突然の事に一瞬パニックになりかけるが、幸いにもすでに茹で上がりかかっていた頭はこれ以上の混乱を受け付けなかった。 下手に動かず、ブラーマは湯に浸かったまま今の状況を確認する。 これは間違いなく停電だろう。だが問題は、この停電がどの規模のものであるかということだ。 まず曇りガラスのあるはずの方向へと顔を向けてみるが、そこにも光は見えない。 どうやら停電はこのにわとり荘だけでなく、少なくともこの辺り一帯に及んでいると思われた。 「むう……困ったな」 これではどうにも出来ない。ここから出られないし、出て行くわけにもいかない。第一今は裸だ。 どうやら復旧を待つしかなさそうだが、果たしてどれほどかかることやら。 それまではこの暗闇の中でじっと耐えるしかないということか。少々心細いが、仕方ない。 ブラーマはやれやれと呟くと、闇の中静かに湯に浸かりなおした。 停電してから5,6分程立った頃だろうか。いい加減のぼせそうになっていた時、不意に一筋の光が浴場に射し込んだ。 しかもそれは窓のあるほうからではなく、脱衣所の方向からだった。 微妙な緊張感を募らせつつ、ブラーマは光へと目をやる。 「無事か、ブラーマ?」 「レ、レグか?」 光から響いてきたのはレグニスの声だった。それだけで幾分か安堵する。 「どうやら大規模な停電らしい。ここだけではなく市全体がやられたようだ」 「復旧の方はどうなっているのだ?」 「ラジオによると復旧のめどは立ってないそうだ。まだまだ停電は続くようだな。 とりあえずこの懐中電灯を置いていく、それで何とかなるだろう」 「う、うむ。すまないレグ」 「では、俺は別の光源を探してくる」 明かりだけ残し、気配が少しずつ遠ざかっていった。 ブラーマは湯から上がると、光を頼りにゆっくりと歩み寄り、そっと脱衣所の扉を開けた。 そこにはぽつんと置かれた懐中電灯が、ただ寂しげに光を放っていた。 『どうやら市内で発生している大規模な停電は、発電所からの送電線が風で断ち切れたことが原因とみられ……』 ラジオから流れてくる情報に舌打ちしつつ、レグニスは一人居間の暗闇の中で戸棚の中を探っていた。 自分の記憶によると、確かここに非常時用のろうそくが蓄えられているはずだ。 闇の中での行動には慣れているレグニスだったが、流石に全く明かりのない状態で戸棚の奥を探るのはかなり厳しかった。 普段から持ち歩いているライターも、ここに戻ってくるまでにオイルが危険域まで減ってしまっていた。 火種として残しておくためにも、おいそれと使うわけにはいかない。 「こういった事態は予測できた……備えておかなかった俺のミスだな」 一人自嘲しつつ、レグニスは戸棚の中の探索を続けていた。 「むうう………」 普段見慣れたはずの廊下も、こうも真っ暗では違って見えるものとは。 なんとか着替えを終えたブラーマは、懐中電灯の明かりを頼りにゆっくりとした歩調で廊下を進んでいた。 正直、懐中電灯だけではどうも心もとないが、やはりないのとあるのとでは天と地ほどの差が…… 「……あれ?」 そんな事を思っていた矢先、懐中電灯の光が急激に弱くなる。 慌てて振ってみると、わずかに持ち直したかのように見えたが、 「ああっ!!」 やはり無理だったのか、急速に光を失い、懐中電灯は沈黙した。 真っ暗な廊下の中、一人取り残されるブラーマ。 「くっ……連続使用で無理が祟ったか……」 悔しげに呟くものの、力尽きてしまったものはしょうがない。 とにかくここまでは来られたのだ、あとはどうにかレグと合流できればいい。別の明かりを探しているはずだ。 気持ちを切り替えると、ブラーマは勇気を持って暗闇の中を一歩ずつ進み始めた。 「……これか?」 ろうそくを探し続ける事しばらく。ようやくそれらしき箱を手に出来た。 だがこの闇の中では確認のしようがない。ライターを使うか…… そう思った矢先、居間の入り口あたりに人の気配を感じ取り振り返る。 「レ、レグ……ここにいるのか?」 「ブラーマか? 懐中電灯はどうした?」 「それが途中で力尽きてしまってな……と、とにかく近くまで来てくれないか」 「わかった」 箱を片手にしたままレグニスは立ち上がると、気配を頼りにブラーマに歩み寄る。 近くまでいくと彼女の方でもそれがわかったのか、不安そうに服の袖を掴んできた。 「そ、それで別の明かりはあったのか」 「ああ、それらしきものを見つけたところだ」 「そ、そうか。それなら一安心だ……うわわっっ!!」 その時、ブラーマが何かを踏んづけたらしく、急激にバランスが崩れる。 流石のレグニスも、袖口を掴まれ、しかももう片方の手に箱を持っていてはその動きに対応する事が出来なかった。 派手な音を立てて、二人はもつれるようにしてその場に倒れこんだ。 「痛っ!!」 「ぐうっ……」 二つの苦鳴が闇に響く。 小さく舌打ちしつつ、レグニスは身を起こそうとし…… その手が何かに触れているのに気付いた。 なんだろうか、ちょうど手に収まるぐらいの大きさのそれは、やけに暖かく、柔らかく、妙にいい感触がする。 そんなものなどこの部屋にあっただろうか? 不思議に思いつつも、レグニスは確かめるようにその物体を掴む手をにぎにぎと動かしてみて…… 「ど、どこを触っているのだ! お前はっっ!!」 すぐそばから絶叫が発せられ、それに続いて何かが空を裂いてレグニスの額を直撃した。 突然の衝撃にのけぞるような格好で身を離すレグニス。わずかだがめまいすら感じた。 「何をする」 「それはこっちの台詞だ! わ、私の……を、その……掴むだけならともかく……」 額を押させつつ抗議の声をあげるレグニスだったが、逆にブラーマ怒鳴り返された。 「せ、せめて先に一言ぐらいかけてくれてもいいだろうに! いや、別にいってくれればOKと言うわけではないが…… 心の準備さえさせてくれれば私も殴ったりなど……いや、何を言ってるんだ私は……」 しかも彼女の言い分はどうにも支離滅裂で、要領を得ない。 仕方がないので、とりあえず一番疑問に思ったことだけを聞くこととした。 「それでだ、どこに触ったというんだ?」 「聞くなぁっっ!!」 また殴られた。 「ここも異常なしだ」 「う、うむ……あと少しだな」 ぴっちりと閉められ、鍵までかけられた雨戸を前にして、いつもと同じ調子でレグニスが言った。 それに対して、彼に体を押し付けるようにしてしがみついてるブラーマはどこか不安そうな調子で呟く。 二人を照らし出すろうそくの光が、ゆらゆらとか細く揺らめいていた。 あれからブラーマがちゃんと落ち着いた後、レグニスは見つけ出したろうそくで光源を確保した。 しかし明かりを手に入れたはいいものの、何かをするわけでも、できるわけでもない。 そこで二人で相談した結果、今日はもう休む事となったのだ。 そして今はその前の、戸締りの確認と最後の見回りの真っ最中だった。 しかも今日は二人だけのにわとり荘、この作業をおろそかにするわけにはいかない。 「……どうかしたかのか?」 「いや……さすがにちょっと不気味だなとおもってな」 尋ねるレグニスに、ブラーマは引きつりかかった顔で笑い返した。 「怖いのか」 「まあ……な、少しだけ、少しだけだからな!」 「怖いのなら見回りは俺だけに任せておけばいいと思うが」 「だから少しだけ、と言っておろうが!」 やたらと強調しつつも、やはり不安なのかブラーマはぴったりとしがみついてくる。 初めは彼女は左手を繋ごうとしたのだが、いざと言う時に手が使えないと困る、と告げたところ、 「ならこれなら良いだろう」とろうそくの乗った皿を持つ右腕に密着するようにしがみついてきたのだ。 「しかしブラーマ、お前は触られるのが嫌ではなかったのか?」 「わ、私から触れるのはいいのだ!」 「理不尽だな」 「うるさい、私の体だから私がルールだ。文句は言わせん」 「……了解した」 とりあえずしても仕方ない議論を打ち切ると、レグニスは再びゆっくりと歩き始めた。 ろうそくの小さな灯が、寄り添いながら静かにゆっくりと歩く二人の影をにわとり荘の中に映し出す。 不意にふわりと何かがレグニスの鼻をくすぐる。石鹸の香りだ。 少しだけ視線を動かし、横を歩くブラーマを見る。 風呂上りで髪を下ろした彼女は、どこかいつもと違った印象を受ける。 ろうそくの灯がゆれ、少し不安げな彼女の顔をゆらめかせていた。 その顔が、わずかに赤らんで見えるのは光源のせいだろうか…… 妙な感覚が、レグニスの胸の奥に湧き上がった。 風が強まり、側にあった雨戸を揺らす。小さく息を呑み、ブラーマが強くしがみついてきた。 腕に押し付けられる柔らかな感触。 しがみついてくる彼女の体から、寝間着越しにしっとりと伝わってくる体温。 緊張感に強まっているであろう心臓の鼓動すら感じ取れる。 さらに強まる、妙な感覚。 今までに感じた事もない、正体不明の感覚だ。 強いて言うなら、それは理性とも感情とも違うような感じがした。 そう、あえて言うなら本能というべきか…… 「レグ?」 名を呼ばれ、レグニスは我に返った。 途端に、胸の奥を占めていた妙な感覚が霧散する。 「……どうかしたのであるか?」 「いや、なんでもない」 レグニスは首を振って答えた。今余計な事を言って、無意味に不安を掻き立てる必要も無いだろう。 そう、よくわからないあの感覚はもう消えているのだから…… 二人がそれぞれ自分の部屋として使っている個室は、にわとり荘の二階部分に並んで備わっていた。 全体的な見回りと施錠、火の元の確認を無事終えた二人は、当初の予定通りその部屋へと向かっていた。 「うむ、ここでいい」 「そうか」 ブラーマの部屋の前で来ると、彼女はしがみついていた体をゆっくりと離した。 どこか名残惜しげに。 「ろうそくはどうする? この距離なら俺はなくても部屋に戻れるが」 「わかった、ならば私が使わせてもらうとしよう」 うなずくと、ブラーマが手を伸ばす。レグニスもろうそくを立てた皿を手渡そうとして…… 突如外からけたたましい音が鳴り響いた。 「ひゃあっ!!」 悲鳴と共に、何か質量がレグニスに衝突する。ブラーマが抱きついてきたのだ。 一瞬の沈黙の後、ブラーマが恥ずかしそうに声を絞り出す。 「あ……、すまないレグ」 「いや、かまわん。……看板かなにかが塀に衝突したような音だったな……」 「そ、それとレグ……」 「なんだ?」 「その……うれしいのだが……少し力を込めすぎだぞ」 真っ赤になった顔をそむけつつ、消え入りそうな声でブラーマが言う。 そこで初めて、レグニスは自分が彼女を抱きしめていたことに気が付いた。 全くの無意識だった。そもそも、意識してやったことすらない。 だがなぜか、今この時だけは自然に体が動いたのだ。 再び胸の奥から湧き上がってくる、あの奇妙な感覚。 ブラーマも再び顔をこちらに向けた。 紅潮した頬と、艶やかな唇。静かに揺れる瞳。 視線が絡み合い、目が離せなくなる。そしてどちらも、何も言わない。 この後どうすればいいのか、互いに知っている気がした。 レグニスがそっと抱きしめる力を緩めると、ブラーマが小さく背伸びして…… 再び外から鳴り響く甲高い音。 ブラーマが、レグニスまでもがびくりと肩を震わせて動きを止める。 「あ……」 「…………」 一瞬きょとんとした表情になると、ブラーマはすごい勢いでレグニスから身を離した。 「こここ、これはだな……えっとその……」 「……もう休むとするか」 「そ、そうだな。それがいいな」 しどろもどろになりかけるブラーマを制してそう言うと、彼女もそれにうなずいた。 こんどこそきっちりと、ろうそくを立たせた皿を手渡す。 「じゃ、じゃあ私はこれで……」 「ああ」 「……お休み、レグ」 赤らめた顔に小さな笑みを浮かべると、ブラーマは静かに扉を閉めた。 暗闇の中、残されたレグニスはそっと自分の胸に手を当てた。 抱きついてきた彼女の感触が残っている。 そして胸の奥に生じたあの奇妙な感覚も、今度は消えてなかった。 台風一過の言葉どおり、翌日の天気は抜けるような青空だった。 「まったく、ひどい目にあったって」 椅子にもたれかかりながら優夜が言った。 ひどい目と言ってるわりには顔は笑っている。 「ビデオ見てるときに停電したんだけどね、それがちょうど山場の一番いいシーンだったんだよ」 「確かに、それは大変でしたね」 「それが違うんだよ忍くん。大変なことはその後に起こったのだよ」 「どういう意味だ?」 レグニスが尋ねると、優夜は意地の悪い含み笑いを浮かべ、 「ヒント1、見ていたのはB級ホラー映画でした。ヒント2、ルルカも一緒に見てました。 ヒント3、ルルカは相当嫌がってましたが、お兄さんが無理矢理見せてました。 さて、ここから連想される答えはなんでしょう、忍くん?」 「……想像はつきますね」 心の底から気の毒そうに呟く忍に対し、優夜は実にイキイキとした表情で、 「オトナなビデオじゃなきゃ付き合うと言ったのはルルカ本人だしねぇ。 だからお兄さんはその言葉を忠実に実行してもらったダケデスヨ?」 「そんなこと続けてると、いつか死にますよ。ルルカさん」 「そうならないためにも、お兄さんが鍛えてあげているのだよ。ところで忍君のほうはどうだった?」 「僕の方も大変でしたよ。停電した途端、なぜか寮の皆が僕の部屋に集まってきて、遅くまで騒ぎっぱなしでしたから」 そう言って忍は苦笑いした。よく見ると顔中に疲労の色が残っている。 「それはそれは、実にいい経験をしたものだねぇ。で、レグくんはどうかな?」 「どうかというと?」 「昨日あった出来事や、それから何か思ったり学んだりした事はないのかね、お兄さんに教えてくんない?」 「ふむ……」 優夜の言葉を受け、レグニスは昨日の出来事を反芻した。 いろいろあった。普段は知らなかったことも知ったし、感じたことのなかったものを感じた。 だがそれらを全て話すととても長くなるだろう。 だからレグニスは、たった一言だけを口にした。 「そうだな……女性の体は、意外と柔らかくて暖かいものだという事を知ったな」 『…………は?』 ぽかんと口をあけ、マヌケな声でハモる優夜と忍。 「レ、レグニスさん、それって……」 「えーっとレグくん。その結論を得るまでの経緯をお兄さんに説明してくれないかな、事細かに」 「? そんなに重要な事だったかのか?」 「そりゃもう重要だって。灰色青春を送っているレグくんが、今まさに目覚めようとしてるのだから! だからオレたちとしては、余分な知識を植え付け……もとい正しい方向に導く必要があるわけで……」 「いや、優夜さんそれはちょっと……」 「むう…………」 「いいからまず話す。その後でオレがみっちり講義してあげるから!」 真っ青な空には所々浮かぶ雲。嵐はとうに過ぎ去っている。 だがここ、大十字学園特組では、嵐の種は一年中尽きる事は無い様だった。 第7幕 終わり |