《 黒の乗り手 篇 》


       序章 「かくも平和な日々?」


 2つの月がまるでお互いを愛しむ様に寄り添って、やさしく、穏やかにそのつややかな輝きを地上に放っている。
雲ひとつ無い快晴の夜空には無数の星がつきを囲んで、踊るように瞬いている。
まるで2つの月の愛を祝福するかのように……。
そんな幻想的な夜空の下、青年は静かに寝息を立てていた。
年のころは19歳。端正な顔立ちは誰が見ても良家の生まれだとわかるだろう。
しかし、何故その様な『おぼっちゃん』がこの様な雨露もしのげない様な野外で寝ているのだろうか?
無用心な事この上ない。まるで身包みを剥いで下さいといわんばかりだ。
カサカサ…。
草木の葉がこすれる音…。こんな夜中に誰が?
前述のように無防備なおぼっちゃんを見つけた輩が、金品を狙っているのだろうか。
それとも異形の怪物『奇声蟲』だろうか。
やがて草木の茂みから人影が現れる。足音は小さく、忍び足と言っても間違いでもない。
樹木の葉のおかげでその人物の姿はわからない。
「ん…んぅ〜」
それに気づきもせずに青年は幸せそうなため息と共に身じろぎする。
人影は青年の近くに来ると小さく「クスッ」と笑って青年の傍に腰を下ろした。
どうやら物取りのようではないようだ。よく見ると小柄で、そういった行為には適さない体つきだ。
「アレク様……」
青年の肩を優しく揺さぶりながら、同じく優しい声で青年の名を呼ぶ。
「ん…ん〜っ…?」
青年は重たそうにゆっくりと半眼を開けて、声の主の方を向く。
そこには盗賊なんてものには遠く及ばない、小柄な少女が優しい微笑を湛えていた。
「ディアナ…」
名前を呼ばれて少女は耳に心地よい声量で言う。
「お目覚めになってください。お食事が出来ましたよ」
「…嫌だ……」
「え…?」
いきなり拒まれて少女はたじろいだ。
「ア、アレク様…?」
少し慌てたように少女は再び青年の名を呼ぶ。今度は少しばかり声が大きくなる。
青年は再び目をつむり、言った。
「キス…」
「え?」
「目覚めの、キス…。してくれないと起きない」
「ええっ!?」
少女は素っ頓狂な声を上げて、その後口を両手で押さえた。
「え…っと…それは…」
そう言う少女の顔は既に月明かりの下でも判るくらいに真っ赤だ。
「その…アレク様が…の、望まれるのでしたら…」
そう言って少女はアレクの頬に軽く唇を重ねた。
「!?」
青年は体をビクリと震わせて目を見開いた。眠気などあっと言う間に吹き飛ぶ。
頬を染めた顔を離し、ゆっくりと少女は目を開ける。
「…お目覚めになりましたか?」
恥ずかしそうにもじもじしながら少女は青年の方を見やるとそこには――。
真っ白になった青年の『抜け殻』が転がっていた。
「キャーーっ!!?」
少女の悲鳴が幻想的な夜の空に響き渡った。

        ○

 「もう!アレク様ったらっ!」
滅多に聞くことの無いディアナの怒った声に、さすがにアレクも小さくなって謝るしかなかった。
怒るといってもまったく怖くは無い。頬をプクリと膨らませて、大きな瞳を僅かに吊り上げただけで、
むしろ可愛くさえ見える。
「いや、ごめん。本当に」
「信じられません!「キスしろ」と言っておいて、されたら気絶するなんて。私、ショックだったんですよ…?」
最後の方は声が小さくなってしまった。
「ごめん。ディアナ…」
「もう…いいです…」
そう言って顔を上げたディアナの顔には微笑が戻っていた。
 原因は先ほどの1場面に在る。
起しに来たディアナをアレクがすこしからかってみたのだ。それで冗談で「キスして」と頼んだのが、
まさか本当にされるとは思っても無くて驚きのあまり気を失ってしまったわけだ。
我のことながら、その程度の事で気絶してしまうとは何とも情けないなと思いつつも、もう1度アレクは
謝った。
「本当に、ごめん」
ディアナは再び微笑んだ。
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜。仲がいいところをスマンが、食事中にそういうのは…」
第3の声が聞こえる。テーブルを挟んでアレクの前に座っているその青年はそう言うとナイフとフォークを置いて
グラスに手を伸ばす。
「いいじゃないか、イクス。別に邪魔はしてないだろ?」
「まぁ…そうだが。そういうのはもっとこう、二人っきりのときにでもだな…」
そこまで言ってイクスは不毛だと悟ったのか、肩をすくめてからグラスの中の赤紫の液体を飲む。
その液体は見かけどうり、現世で言う所のワインなのだが、19歳のイクスは何の迷いも無く口に入れた。
別に酒を飲んでも何も言われる事は無い。ここは、現世ではなく『異世界 アーカイア』なのだから。
国が違えば法律も違う。ましてや『世界』が違うときたら、そんな細かい事をいちいちうだうだと言っていられない。
「ところで、味の方はどうだ。フェイエン?」
グラスを置きイクスは隣の少女の方を向いた。
少女はフォークでソースの絡まった一口大の肉を口に運んで、幸せそうに咀嚼した後でイクスの問いに答えた。
「うん。相変わらず美味だ。特にこのソースは不思議な味がして…」
再び肉を口に入れ味わって食べる。
「〜〜♪」
やや幼さの残る顔に満面の笑顔を浮かべて言葉にならない至福感を感じているようだ。
イクスはそんな彼女の横顔を見ながら、頬を緩める。
「…なんだ。君達『ラブラブ』じゃないか」
アレクの言葉にフェイエンは一瞬ピタリと食べる手を止める。
やがて顔を真っ赤にして立ち上がり、アレクに必死に抗議し始めた。
「わ、わわわ私は、その様な事は!アレク殿こそ『らぶらぶ』などとはしたない言葉を口にされるなど…!」
「そうかな?結構適切だと思ったけど?」
「と、とにかく私とこいつはそういったものではない!断じて!!」
やけにはっきりと断言した後で再び食事へと戻っていく。
「……まぁ、そういうことだ…」
あっけにとられていたイクスもまた、そう言うと食事を再開する。
アレクとディアナは顔を見合わせると、苦笑をこらえるのに苦労した。

        ○

 二日後の夕刻。任務より帰還したイクスたち4人は評議会から報酬を受け取りに集会場へと足を運んだ。
「1週間で衛兵9匹か。大分少なくなってきたな」
先頭を歩くイクスが誰にというわけでもなく言う。
奪還より1ヶ月が経過した集会場は大分復興してきている。急を要する事だったためにさすがのトロンメルの
人たちも歌術を使った大々的な修復を行った。その結果だ。
今更ながらイクスはこの世界の『歌』というものの凄さを再認識した。
「そうだな。ポザネオ島から奇声蟲が掃討されるのももうすぐだろう」
付き従うフェイエンは嬉しそうに答えながら再建されてゆく集会場を見渡している。
「戦闘が短時間で終わってくれてありがたいよ。ディアナに負担がかからなくてすむからね」
「アレク様…」
寄り添うように歩く二人。
「…はいはい……」
振り返ることなくイクスはため息をつく。
「お二人とも、静かに。もう待合室だ」
フェイエンはそう言うと背筋を正してドアを開けた。
 待合室は余り混んでいなかった。既に夕刻ということもあってか受付の係員の人も少ない。
フェイエンは一番近い受付に歩み寄ると受付の女性に敬礼して二、三言話した後で
書類を書き始める。やがて書き終えた書類を提出して報酬の入った袋を渡された。
「ディアナ殿。こちらへ」
フェイエンに促されてディアナも受付の方へ歩いていった。
残されたのはイクスとアレク。
「…イクス」
「何だ?」
お互いに顔を合わせることなく言葉を交わす。
「君、ディアナの事をどう思う?」
「え?」
突然の質問に思わずアレクの方に向き直った。アレクも同じようにイクスと目を合わせる。
「どうって…優しいし、可愛い子だと思うが…?」
「いやいや、そうでなくて。元気そうに見えるかって事」
アレクは苦笑する。
「あぁ、そういうことか」
どうも2日前の会話が引っかかってしまっているようだ。
改めて受付に目をやる。
そこではフェイエンに色々と教えてもらいながら書類に書き込むディアナの姿がある。
こうしてみるとまるで姉妹だなとイクスは思った。
顔や性格が似ているわけではないが、二人は何かと仲がいい。
ディアナは書類を書きおえて係員に提出するとフェイエンに微笑んだ。
「……別に、元気そうじゃないか。喉の事は別として何か気になることでも?」
「いや、…そうか。元気そうに見えるか…」
アレクもその光景を見ながらまるで自分に言い聞かせるように言う。
「引っかかる言い方だな。はっきり言え。力になれる事なら協力するぞ?」
「……最近、夜中によくうなされてるんだ」
少しの沈黙の後、アレクは意を決したようにイクスに告げる。その表情は暗い。
「ディアナがか?」
「うん…。よくは聞き取れないけど、何かに怯えているみたいで…。それ自体は一、二分で収まるんだけど、
ほとんど毎日だから心配でね」
堰を切ったように話すアレク。その話を黙ってイクスは聞いた。
「君だってフェイエンが同じ事になったら心配だろ?だから…」
「アレク」
アレクの言葉を断ち切ってイクスは諭すように告げる。その表情からは彼の考えは見えてこない。
「お前は心配事が多すぎる。同い年の俺が言うのも変だが、もう少し余裕を持て。
その事だって杞憂に過ぎんかも知れんぞ」
そう言うと受付の方に視線を向ける。ちょうど2人は係員に挨拶をしてこちらに帰ってくるところだった。
「帰ってくるぞ。さっさと気持ちを切り替えろ。ディアナが心配するだろ?」
「……」
俯いていたアレクは暫く目を閉じた後フッと目を開け、顔を上げる。いつものアレクに戻っていた。
「心配するな。もし何かあったら俺もフェイエンも必ず助けになる。だから今は心配するな」
「…うん。ありがとう」
「礼などいらん。当然の事だ」
イクスはちょっぴり誇らしそうに笑った後でフェイエンたちの下へ歩んでいった。
アレクもそれに続く。

結局もらえた報酬は600G。まぁ生活には困らないだろう。
大体彼らは兵舎に部屋を用意されている。集会場奪還時の報酬代わりだ。だから実質出費と言えば
食費がそのほとんどを占めている。
「よし。早速だが夕食に行くか」
クイッとグラスをあおる仕草をするイクス。フェイエンは半ば呆れながらに言う。
「また『娘々亭』か?この前、姉(あね)さんに負けたばかりなのに…。それに飲みすぎは体にもよくない」
「そんなに飲んでないだろう?グラスに3杯くらいどうって事無いさ」
ちなみにイクスの言うグラスとはワインタンブラーなんてかわいいものではない。
ちょっとしたバケツ位はあろうかという大きさのものだ。
「大体、姉さんは俺よりもう2杯飲み干したんだぞ?まったく凄い人だよ!」
珍しくはしゃぐイクスにとても好意的には見えない視線を向けるフェイエン。
「な、なんでしょ?」
「お前、本当は姉さんに会うのが目的ではないのだろうな?」
「は?いや、もし仮にそうだとしたら?」
その言葉を聞くやフェイエンは腰の愛剣の柄をゆっくりと握る。
「宿縁の名の下に断罪する。……まあ、冗談だがな」
「…はは……。目が笑ってないぞ」
顔を引きつらせるイクス。こらえ切れなくなったようにアレクが吹き出した。
「なんだよ?」
「どうなされた?」
二人の声がハモる。
「ははっ、仲がいいよね。君達」
そう言うと再び笑う。
「そうか?」
「なにを…!」
再び声が重なった。今度こそディアナも控えめに笑い声を上げた。

        ○

 「いらっしゃいま…って、イクス!フェイエン!」
木の扉を開けるとウエイトレスの女性が元気よく声をかけてきた。
「こんばんは。姉さん」
「ご馳走になります」
それぞれに挨拶をする二人。アレクとディアナは一度宿舎に戻ってから来るという事で途中で分かれてきた。
「1週間ぶりね。さあさあ!奥に入った入った!ミズキ!カウンターにお二人様ご案内〜」
「はぁ〜い。どうぞ〜」
奥からもう1人のウエイトレスがやや間延びした声で朗らかな返事を返す。
「今日も繁盛しているようですね」
案内されたカウンター席で正面のマスターに話しかける。
「ありがたいことさね。うちの店の周りは奇声蟲の被害もほとんど出てないし、奇跡みたいだよ」
店の主人であるちょっとぽっちゃりした中年の女性――フランチェスカは器用に肉を焼きながらフェイエンに
笑い返す。
「ほんとに盛況だな」
イクスは店内を見渡しながらフェイエンの言葉に相槌を打つ。
10メートル四方の木造の建物の中は同じく木製のテーブルと椅子が配置され、あちこちの小さなランプが
不思議な安心感を抱かせる雰囲気だ。
そんな店内には地元のアーカイア人や歌姫連れの機奏英雄がぎゅうぎゅうになって座っている。
その間を縫いながら姉さんことメリッサはテキパキと注文料理を運び、注文を聞き、片づけをする。
もう一人のミズキも同様だ。
「メリッサちゃん!ニモ酒もう1杯!」
「こっちも頼むよ!」
「私達にはフルーツ割でお願いね〜」
「肉皿あと2つ追加!」
「はいはい。ちょっとまってて!…はいお待ちどうさま。マスター!ニモ3!1つはフルーツ!それから肉皿2つね!」
「はいよ!」
そう言うとフランチェスカは次々に注文品を作っていく。その手つきの鮮やかなこと。
「ほら!あんた達何も注文しないつもりじゃないだろうね?」
手を休めることなくフランチェスカ。
「あぁ、ごめん。じゃあニモ酒2つ。1つはフルーツ割で」
「はいよ!」
慣れた手つきでジョッキに注ぐと片方には秘伝のフルーツ果汁が加えられた。
「ほら、出来たよ」
ドンと置かれたジョッキの取っ手を掴んでイクスとフェイエンはお互いのジョッキを軽くぶつけた。
「乾杯!」
イクスが一気にあおろうとジョッキに口をつけた時、後ろから軽く小突かれた。
「あんまり飲むんじゃないわよ?後でまた相手したげるからさ」
耳元で妖艶な声でささやかれてイクスはフェイエンの方を気にする。
彼女はジト目でイクスを見ながら、ちびちびとジョッキを傾けていた。
イクスは脂汗を額に浮かべ、やや引きつった顔で力なく
「お手柔らかに……」
と言った。それがどちらに向けられたものかは彼だけが知っている。




              ------つづく------

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