《 黒の乗り手 篇 》
 

       第7章 「黒の乗り手」
 

 トロンメル南部。
 その美しさを称えられるユヴェール湖の南西に位置する連峰。
 トーテス・タール。
 その連峰の西側の中腹からやや下った場所。
 その秘境とも言える場所に、古びた建造物があった。
 いつ造られたのか、またいつから使われなくなったのか、それすらも分からない巨大な遺跡。
 石造りの壁はあちこちが崩れ、美しかったであろうレリーフは幾度と無く風雨にさらされた結果、風化していた。
 それでも、ここがかつてトーテス・タールを神として信仰した古代アーカイア人が建立した
 神殿であることを見るものに伝えるのは、色あせ、風化してもなお放たれる一種の神々しさのためか……。
 この一帯には古代の遺跡が多く残されているものの、歴史家であっても滅多に足を踏み入れることは無い。
 理由としては至極単純だ。
 人の介入を拒む厳しい自然。たとえば、木の繁殖を許さない固い岩盤地形や夜の絶望的な冷気など、
 例を挙げれば枚挙にいとまが無いほど酷然とした自然が辺りを覆っているためだった。
 単純な理由なだけに回避の道は無く、結果として調査が行われることなどは無い。
 加えて今は奇声蟲という脅威もある。
 その人を受け入れることの無い大地にあって神殿は、たとえ朽ちかけであったとしても
 自然から身を守るためには大いに役立つ建造物だった。
 そう、隠れ家にはおあつらえ向きの……。
 

 男は神殿には不釣合いともいえる質素な暖炉の火を見つめていた。
 揺らぐ炎を見つめるその顔は狼を象った仮面に覆われ、素顔を窺うことはできない。
 唯一素顔が見えるのは、目と、鼻下から下の部分だけ。
 外は既に暗く、極寒ともいえる冷気に包まれている。
 男はゆっくりとした動作でユヴェール酒が注がれたグラスを傾けている。
 他に人影は見えず、英雄の半身たる歌姫の姿も無かった。
 その代わり、男の右手にある崩れた壁越しに黒い巨体が祭壇の上でひざまずいていた。
 光源が男の前にある暖炉の火しかないためか、その漆黒の絶対奏甲は闇の中でさえ
 さらに暗い影を落としていた。
 紛れも無くアーサー達が捜し求めている黒い奏甲だった。
 そして炎を見つめる仮面の男の名は――。
 

 その男が召喚されたのは他の英雄と比べれば、極めて初期の頃だった。
 召喚されてから暫くは歌姫に出会うことなく、また、おいて来た両親と妹の事を思い悲観した日々を送っていた。
 召喚されて、いったいどれだけ時間が経った後か、流れ着いた偏狭の村で彼は宿縁の女性と出会う。
 彼女は歌姫ではなかった。
 いや、『元・歌姫』と言うのがより正しいだろうか。
 ともかくその女性は歌姫では無く、一児の母だった。
 男は最初、彼女を疎ましがったのだが、その優しさに触れていくうちに
 一人の女性として愛するようになっていた。
 やがて二人は結ばれ、その小さな村で暮らすようになる。
 その村には大きい…というよりは物々しい工房があった。
 彼女は毎日その工房へと働きに行き、夫と娘のために働いた。
 男は村の人々と共に畑を開墾し、作物を作ることに精を出した。
 裕福ではないが、幸せな日々だった。
 ある日、彼女は男に一つのことを告げた。
 彼女には予知能力があるのだと、彼女の口から聞かされたのだ。
 そして、自分の娘にも同じ力がある…とも。
 そして彼女は言った。
 「私に何があっても、あの子だけは守って」
 男は「何をバカなことを」、と笑って、彼女を優しく抱いた。
 その数日後、彼女は殺された。
 彼女の能力に目をつけた工房の技師によって……。
 体は人形のように『解体』され、取り出された脳は開発中だった奏甲の中枢システムに組み込まれた。
 それを知った男は狂気した。それでも、彼女との約束を果たすために彼女の娘だけは
 ポザネオ市の知人の所へ預け、自分は工房へと単身乗り込む。
 結果男は捕らえられ、拷問を受けるも脱走に成功し、黄金の工房にて奏甲を奪取。
 再度襲撃に出る。
 …が、それは追撃してきた白銀のマリーエングランツに阻まれ、男は大怪我を負った。
 それでも男は命をとりとめて、再び奪った奏甲で村の工房を攻撃した……。
 もはや男を動かしているのは執念と復讐の念だけであった。
 その後、捕らえた関係者を死が甘美なものと思えるほどの拷問で殺し、復讐は終わったかに思えた。
 だが、最後に聞いた「まだ他にも同じようなプロジェクトはあった」という言葉は、
 男に新たな使命を与える。
 即ちプロジェクトを阻止し、犠牲になった者たちに安らか眠りを与えてやること。
 それが使命だと、彼は思った。
 男はおもむろに彼女の一部が移植された漆黒の機体を工房より持ち出した。
 幸か不幸か、そのすぐ後に村は奇声蟲によって壊滅的な打撃を受け、
 それを知る村人達は皆死んだ。
 しかしそれを確認しに向かった先で、白いフォイアロート・シュヴァルベが率いる
 特務隊と交戦になってしまったことにより、厄介なことになってしまったのは
 不運としか言いようが無かったのだが……。
 

 コツ。
 テーブルにグラスが置かれる。
 男はおもむろに立ち上がると、黒い巨体へと歩み寄った。
 上を見上げると、装甲の陰から紅い二つ目が彼を見下ろしていた。
 奏甲と人間。5倍以上大きさが違う二つの陰の視線は、確かに空中で交差していた。
 男にとって目の前の巨体は絶対奏甲ではなかった。
 たとえ硬い装甲で覆われていようと、闇を吸収する黒い巨体になろうと、
 今でも彼女だった。
 男の人生の中でたった一度だけ、唯一愛した女だった。
 「ユリア…。俺を怨んでいるか……?」
 紅い瞳を見上げながら、男は苦しそうにかすれた声で呟いた。
 いったいどれだけ今の言葉を呟いただろうか……。それこそ数え切れるものではないだろう。
 男の問いかけに答えはなく、その声は石壁に当たって泡のように消えた。
 男は自らの足元に視線を落とし、やがてもう一度だけ黒い奏甲の瞳を見つめてきびすを返した。
 「すまない…。それでも俺は……」
 その後は言葉にならなかった。
 ただ、強い光をたたえた瞳だけが男の心を物語っていた。
 仮面の男。
 その身が背負う業の深さを知る者はいない。
 ただ孤独に。ただ罪深く、神々しく、ただ哀しい。
 
 ――それが黒の乗り手、『ユリウス・シュヴァイツァー』という男だった。
 
 
 

         -------つづく-------

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