《 黒の乗り手 篇 》


       第4章 「オーヴァーチュア 〜序曲〜」

 ドクンッ、ドクンッ……。
 心臓の音がやかましいほどに聞こえる。
 イクスはうるさげに眉根を寄せた。
 ドクンッ、ドクンッ……。
 全身を脈打つ血液の流れが同時に不快な気分を運ぶ。
 はっきり言って気持ちが悪い。
 まるで自分の体ではないような…。そんな錯覚。
 「あれ……?」
 昏(くら)く沈んだ視界を一瞬、光が横切る。
 その10億分の1にも満たない閃光の様な光の中にイクスはあるものを見た。
 「……」
 頭の中で反芻(はんすう)して見る。
 まず目に入ったのは子供だ。
 子供が遊んでいた。
 場所は広い、ただ広いだけの庭。
 年は…まだ10歳にも満たないだろう。
 その子供は無邪気に広い空を見上げていた。
 何をするでもなく。
 目的も無く。
 結果も無く。
 ただ、あえて結果があるとすれば、それは時間が過ぎてゆくと言う事か。
 その光景が何を意味したか。それは分からない。
 音も無くモノクロームの写真のようなそれはただ一瞬の瞬きの中に沈んだ。

 「う…っ」
 目をゆっくりとあける。
 眩しかったからだ。外の光が差し込んできているのだろう。
 いや、先ほどの闇に慣れてしまったのかもしれない。
 「……夢…」
 「イクス」
 その光の中から見慣れた顔が現れる。
 「…フェイエン……」
 フェイエンはホッとしたように肩の力を抜いた。
 「よかった。心配したんだぞ」
 「ここは…?」
 「ここは私の屋敷ですわ。イクス・メルクリウス・フレイア」
 聞き覚えのある声がした。
 「オルトルート…」
 「あら。名前を覚えてくださっていましたの?」
 名を呼ばれた女――オルトルートは僅かに意外そうな顔をして言った。
 腰よりも長い金髪に切れ長の双眸、ややたれ目な所が背の高い彼女に
 かわいらしさを与えている。
 イクスはフェイエンに支えられてベッドから起き上がる。
 「ここはこれから貴方達がお使いになられる部屋ですからゆっくりとされて
 かまいませんわ」
 そう言って彼女は柔和な笑みを浮かべる。
 彼女を知らない普通の男なら一撃で恋へと落ちるその笑顔も、生憎と彼女の
 本性を知るイクスには何の効果もなかった。
 「それはどういうことだ?」
 ぶしつけな視線でオルトルートを見やるイクス。
 いかに美人と言えど見かけに騙されてはならない。
 彼女には以前に切り殺されかけたのだから、警戒するのは当然のことである。
 「ふふ…。そう睨まないで。別にとって食べはしませんわ」
 優雅に微笑むオルトルートに心中で「その笑いが信用できないんだよ」と言った。
 「イクス。『白の伯爵』との戦闘の後、お前が気を失った。
 その後のことを少し説明しよう」
 フェイエンはイクスの横で姿勢を正して説明を始めた。
 彼女の話によるとトーナメントの決勝戦において受けた最後の一撃によって
 気を失ったイクスはそのままフェイエンと共にここに連れて来られたらしい。
 そしてここに着いてからあのトーナメントの真実を聞かされたのだそうだ。
 曰く、あの大会は力のあるものを数人選抜するためのものであり、
 戦績上位の者は特務隊への徴用があるらしい。
 「待て、徴用とは強制か?」
 「どちらにせよ評議会の元で戦っているのですから特務隊であろうと
 別段変わりはありませんでしょう?今は力のある者が必要なのです」
 「その為にトーナメントなんてものをでっち上げたわけか」
 「その通りですわ。あなたたちのように戦果が著しい方を集め、
 その中でも選りすぐりの4人を決める。それがあのトーナメントの
 全貌ですわ」
 オルトルートは微笑む。
 その笑顔には柔和さが微塵も無く、氷のような冷笑に近かった。
 「特務隊への参加は強制です。もちろんこちらからも代価として
 この屋敷の一部と最新の装備、最高の技術・医療支援を提供いたしますわ」
 「イクス、これは評議会からの直接命令でもあるそうだ」
 フェイエンも申し訳なさそうに補足する。
 「……」
 イクスは無言。腕を組み、じっと自分の足元を見つめている。
 その折……。
 ガチャ。
 ドアの開く音がして見知った顔ぶれが現れる。
 「気がついたって?」
 「な…アレク!?どうしてここに…?」
 「僕達はトーナメント3位だよ?ここにいるのは君達と同じ理由に
 決まっているじゃ無いか」
 何を今更と言いたげにアレクは両肩を上げる。
 「イクス様ご無事で何よりです」
 ディアナは上品に笑って言った。
 同じ笑顔でもオルトルートとディアナとではこうも安心感が違うものなのかと
 少し感心しながらイクスはその笑顔に「ありがとうと」と答えた。
 そしてもう1組のペアへ視線を向ける。
 「あなたは…酒場で…」
 「改めて挨拶をしよう。私はアーサー・ディオール。よろしく頼むよ
 イクス・メルクリウス・フレイア殿」
 初老の男は静かに言った。
 「ではあなたが『白の伯爵』、ディオール卿なのですか?」
 「巷ではそう呼ばれているそうだな」
 どこか照れるように苦笑する男。
 その表情は人懐こくて、どこか少年のような輝きがあった。
 「ところで、特務隊への参加の件は了承してもらえるのかな?」
 「……」
 イクスは黙り込む。
 「参加の意思は関係ありませんわディオール卿。今は戦力が必要な時。
 それにそれと引き換えにこの屋敷と工房の全面協力を提供するわけですから
 拒否は許されませんわ。すでに奏甲の修理や屋敷を使用しているのですもの」
 「しかしオルトルート君。決意無き者を戦場に連れ出せばそれはすぐさま死を招く。
 いまここで覚悟を聞いておかねば、みすみす死体を増やすだけぞ」
 アーサーは静かに言った。それだけにその言葉のもつ意味は大きかった。
 ――決意無き者は死。
 それは何時何処の戦場でも同じ絶対の定理だ。
 「加えて敵はあの『黒の乗り手』だ。私とて覚悟の無い足手まといは必要ではない。
 必要としているのは覚悟を持った戦士だ」
 「…今、何と言いました……?」
 「『黒の乗り手』か?」
 「あのロウキを打つというのですか?」
 イクスは驚きに目を見開いた。
 「知っているのかね?」
 「……前に一度戦いました。結果は私の勝利でしたが、奏甲は大破、私とフェイエンも
 怪我を負いました。ヤツはあの時死んだはず…」
 「残念だが生きている。そして今は厄介な奏甲の奏者だ。
 私達の任務はその奏甲を破壊することなのだよ」
 その言葉を聞いてイクスは暫く黙考した後にフェイエンへと顔を向ける。
 フェイエンは静かにイクスの目を見ていた。
 まるで「お前に全てを任せる」というように…。
 「決まりだ。私達も参加させてください」
 「そうか。…覚悟はできているのかね?」
 イクスは静かに頷いた。
 時を同じくして、大きな運命の歯車が回り始めていた。
 初めはゆっくりと…。
 そしてそれはいずれ大きな動きとなってイクスたちを飲み込むことになる。
 しかし、それは動き出したばかりだ。
 今はゆっくりと、オペラの序曲(オーヴァーチュア)のように……。



            ------つづく------

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