しろつるぎの記憶 篇 》


       第7章 「満る月U 〜グレンツェ〜」


 視界がぼやけて見えた。
意識はまだ朦朧としている。
視界の隅に僅かに人が見えた。
ぼやけていてもなお、美しいと思う黒髪に、イクスはまた既視感を憶えた。
あれは、誰だったか……。
イクスの失われた記憶がぼんやりとその影を投影した。
姉さん……?
霧のようにおぼろげに思い出したのは姉の事だった。
そうだ。
確か自分には美しい黒髪を持った姉がいた。
「姉さん……」
喋ったつもりだったが、実際は喉が微かに鳴っただけ。
それでも、その人は律儀にそれに気づいて、横になったイクスに
「気がついたのですね!よかった……」
と微笑みかけてくれるのだった。
「…………和泉」
「はい」
姉ではなかった。
「当然か……」
「はい?」
聞き取りづらかったのか、それともイクスの言っている意味が解らなかったのか、和泉は首をかしげた。
その拍子にサラリと肩から長い黒髪が流れる。
「いや……いいん……だ………」
僅かに薫る黒髪のやさしい香りに導かれ、イクスは穏やかな寝息をたて始めた。


          ●


 結局、イクスが完全に回復したのは意識を失ってから4日目の事だった。
幸い身体に大きな怪我は無く、意識を失っていたのも濃密な幻糸の中に長時間いたのと、
あの紅い奏甲の攻撃で脳震盪を起こしたのが原因と思われた。
イクスが眠っていたその間に、ロスロフ隊はポザネオ市へと帰路を歩んでいた。
結果を出せなかった事に、部隊はいささか落胆してはいたが……。


イクスは、ボロボロになったフォイアロート・シュヴァルベ ――パーソナルネームは『ベルクート』と言った―― を見上げ、溜息をついた。
結局、あの戦いは紅い奏甲がイクスに止めを刺さずに撤退して終わりを告げた。
それは和泉たちが戦闘音を聞いて駆けつけた時に、イクスが無事だった事からも明らかだ。
「何故止めを刺さなかった……?」
イクスはそう考えはしたものの、答えは出るはずも無い。
再び溜息をついて、宿に帰ろうと歩き始めた。
今、調査隊の一行は帰路の途中にあるグレンツェという小さな村で休息をとっていた。
今晩はここで一夜を過ごすことになる。
「ん?」
宿の前に一人、少女が佇んでいた。
「ミリィ」
イクスの声に、少女は彼の元に駆け寄ってきた。
「イクスっ!」
飛びつかれてバランスを崩しそうになるが、何とか踏みとどまった。
まだまだバランス感覚が戻っていない。頭を激しく揺すられたのが原因だろう。
「おっとっと……」
「よかった、気がついたんだね!和泉ちゃんから聞いて探してたんだ」
「えへへ」とはにかむミリィに、イクスは激しい自己嫌悪に見舞われた。
「ミリィ。……すまない」
「どうして謝るの?」
「君を巻き込んでしまったから……。あの戦いに」
そう、あの戦闘で危険に晒されたのは、イクスだけではない。
後ろに乗っていたミリィも、一歩間違えば命を落としていたはずだった。
「だから、すまない。俺は…無力だった」
頭一つ以上小さいミリィに頭を下げるイクス。
「いいよ。そんなの。だってしょうがないよ。フェイエンさんの支援が無かったんだもん、負けて当然なんだから」
ミリィは再び笑う。
「ミリィ……」
「ね。あたしお腹減っちゃった。なんか食べよ?」
「……そうだな」
イクスの顔にもいつもの苦笑が戻ってきた。
さすがにエリスの妹。
その性格に、こちらまで励まされる。
ミリィに手を引かれて入った宿の狭い食堂には、ロスロフをはじめとして調査隊のメンバーが数人座っていた。
「イクス、調子はどうだ」
みんなを代表してか、ロスロフが尋ねた。
和泉から体調に問題はないと連絡は聞いているはずなので、これは礼儀の上での質問だろう。
「ええ。大体回復しています。迷惑をお掛けして申し訳ないです」
だからイクスも他人行儀な礼をした。
そこで食事を終えた数人が席を立つ。
「ここ座れよ。まだ食ってないだろ?ミリィもほら」
「えぇ。すみません」
「ありがと」
そこはちょうどロスロフの正面の席だった。
だだ、ロスロフは既に食事を終え、食後のコーヒーを愉しんでいるところだったが。
「回復早々ですまないが、事の推移を聞かせてもらえないか」
イクスは頷き、ロスロフに応じる事にした。


 イクスとミリィが食事を終えようとしたころに、和泉が食堂に現れた。
ロスロフ達はすでに退席している。
「こんばんわ」
しっとりと微笑むと和泉は厨房へと入っていく。
「ん?」
怪訝顔のイクスに応えたのは、となりでアップルティーを飲んでいるミリィだった。
「和泉ちゃんね、お手伝いしてるの」
「どうして?だって普通は……」
「ここの宿は働き手が少ないそうなので、勝手ながら私がお手伝いを買って出たんです」
厨房からコーヒーを運んできた和泉はそう説明した。
たしかに、ポザネオ市の宿ならまだしも、ここのような片田舎の宿では人を雇うことなどできないのだろう。
働いているのはどうやら、年老いた老婆とその娘だけのようであった。
「美味しいかどうかわかりませんけど……」と言って和泉はコーヒーカップをイクスの前においた。
イクスは礼を言ってカップを口に運ぶ。
一口すすると、お世辞抜きに美味かった。
「……美味い」
だから思ったことを口にした。
「ありがとうございます」
イクスの感想に、柔和な笑顔を浮かべる和泉。
思わずドキリとしてしまう。
隣にフェイエンがいれば、イクスの様子に密かに愛剣の鯉口を切っている事だろう。
だが今そのフェイエンは隣にはいない。
目を覚ます気配が一向に無いのだ。
「フェイエンさんの事を……?」
「えっ?」
驚くイクスに、和泉は優しい微笑を浮かべた。
「フェイエンさんの事を考えるあなたは顔に出やすいから」
ふふっ。
「……心配ですよね」
打って変わって心配そうな表情。
この娘は他人の事すら自分の事のように考える癖があるようだ。
短い付き合いでイクスはそのことを理解していた。
「まぁ……ね」
と、不意にイクスはあるものを思い出す。
「そうだ、これ……」
イクスが取り出したのは、あの夜に森で拾った例の糸だった。
「これは?」
「例の戦闘が起こる前に拾った。何かの楽器の弦だと思う」
イクスはそれを手でもてあそんだ。
不思議な光沢、いや、自ら発光している。
手触りはしなやかでありながら、同時に強靭さも持ち合わせている。そんな感じだ。
「それって、歌奏楽器じゃないかなぁ……」
ミリィが興味深そうに糸を見つめた。
「歌奏楽器?」
「聞いた事あるよ。なんかね、本島の北の方には魔的な音色を奏でる楽器を作る人たちが住んでる村があるって」
「それじゃ、これは……」
ミリィの話からイクスの中には確信めいたものがうまれていた」
「たぶん、その楽器の弦だと思うよ。たまにね、うちのギルドの人がそれに似たやつを持って帰ってくるの」
ミリィの言うギルドとは、彼女の家が運営する商業輸送隊のことだ。
そう、彼女の家はやはり大商人の家系らしい。見かけどおりに。
「なぁミリィ、ひょっとしてこれの出所とかわかるか?」
しかしミリィは首を振る。
「ごめん、わかんない」
「そうか……」
そこで話が途切れた。
折角見つかったと思った手がかりも、歌奏楽器なる物の一部という以上の事はこの場ではわからないのなら、仕方がない。
「いや、……待てよ」
言葉も程々に立ち上がったイクスは食堂の出口へと急いだ。
「イクスさん?」
イクスの突然の行動が理解できないまま和泉が尋ねた。
「ここにもいるじゃないか。物知りな人が」
弦を握り締めたイクスは言い終わるや食堂から飛び出していった。 「あ」
イクスのその言葉に和泉とミリィは顔を見合わせてポカンとしていた。


 イクスはフェイエンの手当てをした老歌姫の部屋を訪れていた。
老歌姫はイクスが差し出した糸を見るなり、
「これは歌奏楽器の弦じゃな」
と、あっさり見抜いてしまった。
さすがにこの老体で現役歌姫な女性だけあって、その知識も深い。
「これを何処で?」
「調査隊のキャンプから少し離れた場所です。ちょうど俺がやられた辺りで拾いました」
イクスはなるべく詳細にそれを見つけて拾うまでを老歌姫に説明した。
老歌姫は黙ってそれを聞いていたが、やがて一つの答えを出した。
「おぬしの話からするとこの弦はおぬしの歌姫に掛けられた禁忌歌術を維持するためのものじゃ」
「えっ!なら、……ならこれを処分すれば、フェイエンは目覚めるのですか!?」
一縷の希望に老歌姫に尋ねるイクスの声が僅かに弾む。
しかし、老歌姫は首を横に振った。
「いいや。そのくらいではあの歌術は解けはせん。あれは非人道的な歌術であるから禁忌とされたものじゃ、
その程度の事では簡単には解くことはできんのじゃ」
老歌姫は深いシワの中にその瞳を沈めて溜息をついた。
「まさか、わしも生きているうちにこのような酷い歌術を見ようとは……」
「解く事は…できないのですか……」
「解けることを祈るだけじゃ」
静かにそう告げる老歌姫に、イクスはもう一つの道を開く質問を口にした。
「この弦の、歌奏楽器の出所を知りませんか」
「歌奏楽器は、ルゥンという小さな村で作られるという事は知っておる。その場所が何処であるかまではわしも知らんがの」
「そうですか……」
ありがとうございました。
そう言って、イクスは退出した。
「ルゥン……か」
イクスはその響きを確かめるように口にする。
拳をキュッと握り締めて……。



       ----------つづく----------