しろつるぎの記憶 篇 》


       第3章 「満る月T 〜アルムベアク〜」


イクスは一人、夜空を見上げた。
「満月までは……7日ほど、か……」
澄み渡った空にはやや欠けた二つの月。
周囲に人口の光は無く、月光だけが夜露に濡れる地面にイクスの影を映している。
テントの方へと視線を移した。
そこではフェイエンが早々に休んでいるはずだ。
混乱状態にある彼女を有無を言わさずに寝かしつけたのはイクスだった。
頭をリセットするにはどんな時でも睡眠が最も有効だ。
メリッサの安否が確認できない今、心ばかり焦っても仕方が無い。
彼女にはそう言って納得させた。
「焦っているのは俺なのにな……」
自嘲の言葉は夜気に溶けて消える。
結局のところ、彼女から離れたかっただけなのかもしれない。
今のフェイエンを見ていると、自分までもが焦りを表に出してしまう。
それがイクスには怖かった。



「イクスさん」
後ろからの不意な声。
振り向くとそこには和服姿の女性が立っていた。
「これは、和泉さん」
彼女はイクスの傍に来ると、同じように夜空を見上げる。
「綺麗な夜空ですね」
「……ええ」
イクスは戸惑った。
目の前にあったものは、青白い月光に照らされだす美しい白。
豊かに伸びる黒髪との対比。
"美しい……"
思わず見とれてしまうその姿に、イクスは不思議な既視感に見まわれた。
その黒髪の艶やかさ。柔らかさ。
"何だ、一体何だろう?"
おぼろげな虚像イメージが脳裏に浮かぶ。
イクスの、失われた記憶の断片。
だがそれを思い出すことは、今の彼には許されなかった。
「どうされましたか……?」
和泉の気遣わしげな声が、思考の渦より意識を覚醒させた。
「い、いえ」
イクスはごまかすように再び空を見上げる。
和泉は心配そうにしていたが、やがて。
「あの……。失礼ですがイクスさんの御歳はいくつですか?」
「え?」
突然の質問に戸惑いながら唯一名前と共に覚えていた年齢を口にした。
「十九です。あの、それが何か……?」
「いえ。……その、イクスさんがあまりにもご丁寧なしゃべり方をするもので、てっきり私より年下なのかと思ってしまいまして」
「?」
露骨な疑問が顔に表れてしまった事を一瞬イクスは後悔するが、しかしそれは遅い。
「やはり勘違いされていたのですね」
和泉の声には苦笑と、そしてほんのちょっぴり怒った口調が混ざっていた。
「私はまだ十八歳なんですよ?」
「そうだったんですか」
そう答えたものの、イクスは再び後悔した。
まさか女性の、それも年頃の子の年齢を高く読んでしまうとは。
「はい」
ちょっと脹れてみせる和泉。
「申し訳ない……」
「いいですよ。もう慣れてますから」
いかにも「不本意だ」と言う表情だったが、その顔には威厳が無かった。
逆に子供っぽい印象を受けて、イクスは顔をほころばせた。
てっきり自分より年上だと思っていたせいもあってか、今までの「美しい」から「可愛らしい」に
印象が変わったのだ。
そんなイクスに、彼女はいつもの微笑を浮かべて、
「ですから、その敬語はやめてくださいね。私の方が年下なんですから」
「え?あぁ、はい。……でなくて、わかった」
彼女は満足そうに一層笑顔を深めた。
その時だった。
夜を引き裂いて、フェイエンの絶叫がこだましたのは……。


          ●


フェイエンは夢を見ていた。
眠っている彼女がそれを夢だと認識できたわけは、それはあからさまに夢だとわかるものだったからだ。
焼け焦げた大地と、転がる無数の死体。
そして朽ち果てることの無い絶対奏甲の残骸。
空はどんよりと曇り、今にも泣き出しそうな雰囲気だった。
だが、そこには空気が流れていなかった。
巻き上がった煙はいつまでも形を崩さない。
空の雲は一向に流れない。
そして何より、この死気が動かないのは異様だった。
つまり―――
「時が動いていない……?」
時間軸より切り離された空間。
あえてこれをたとえるなら、写真のようだとでも言おうか。
だが、モチーフがあまりにも陰惨すぎる。
周囲を見渡すも、何処にも生は無い。
「……?」
いや、ただ一つ。場違いなものがあった。
純白のローブに身を包む小さな影がポツリと立っていたのだ。
「あなたは、だれ?」
その少女は不思議な虹彩の瞳をフェイエンに向けて言った。
「私は―――」
「ああ。フェイエンね」
「!?」
抑揚の無い、殆ど機械か何かの合成音声の如く、少女はつぶやいた。
驚くのはフェイエンだ。
初対面の少女が名前を知っていたのだから。
それもこんなわけのわからない夢の中の。
いや、夢だから―――ともいえるが……。
「あなたは、誰だ」
少女は嘲るような視線をフェイエンに向けながら、
「どうして辛そうな目をしているの?」
「……」
フェイエンの質問には答えず、少女は逆にたずね返す。
少女は無表情ではあったが、明らかに愉快そうな言葉遣いだった。
「だまれ。第一、これは私の夢なんだぞ。変な奴が出てくるな、私は疲れている」
メリッサの事で頭が一杯であったことと、この不可解な夢に対する苛立ちからつい、刺々しい言葉を紡いでしまう。
こんな幼い少女に、と後悔しても時既に遅し。
「……」
相変わらず少女は表情一つ変えずに、その銀色の瞳でフェイエンを見つめていた。
頭まで覆うローブ。顔の横辺りからこぼれるのは、瞳と同じ銀色の髪だ。
「……すまなかった」
居心地が悪くなったフェイエンはひとまず謝る。
「どうしてそんなに苛立っているの?」
「それは―――」
「あぁ、あの娘の事が心配なのね」
フェイエンが口をつぐんだのは言葉を遮られたからではない。
今、少女はなんと言った?
「姐さんを―――メリッサを知っているのか!?」
自分のほぼ二倍年上の事を「娘」と呼ぶのはいささかおかしくはあったが、
かといってその他には思いつかない。
「ええ。彼女は死んだわ」
心底嬉しそうに言う少女。
「なっ!?」
「嘘だというのなら見せてあげる」
ささやく少女の声と同時に、フェイエンの脳裏には一つのイメージが焼きついた。
「ひっ!!?」
そのイメージはメリッサの―――。
「どう?これで信じる?」
呼びかけにこたえることなどできはしない。
血まみれになって地面に倒れるメリッサ。
そのイメージはあまりにもリアルで、血の臭いさえ感じた。

「あ、ああ……嘘だ…嘘だ!これは夢だ!早く醒めろ!!」
「本当よ。それから、これは夢なんかじゃないわ」
少女の凍りつくような笑顔がフェイエンを見つめていた。



「はっ!!?」
フェイエンは跳ね起きた。
「……」
ぎこちない動作でゆっくりと首を巡らせてみる。
そこには無数の死体も、絶対奏甲の残骸も、そしてあの銀の少女もいなかった。
今フェイエンがいるのは和泉たち調査隊から借り受けたテントの中だ。
枕元に置いた懐中時計を手に取る。
凝った装飾が施されたその時計の針は真夜中の二時を指していた。
「やはり夢か……」
息が荒い。
大分うなされていた様だ。
深呼吸を一つ。
やはりあれは夢だったのか。
「夢……。夢……。夢……?」
だけど、あれを夢だと思えない自分も確かにある。
突然、あの嫌なイメージが脳裏をよぎる。
「違うっ!あれは絶対に違う!!」
だが、心の片隅であれは真実だと言う自分がいた。
私のイクスを盗ろうとした、忌々しい女。
自分には無い誰もが認める美貌もある。
そう、あのイメージが本当だったらいいのに……。
「違う!違うっ!!」
激しく首を振り乱すフェイエン。
「そんなことは思ってない!思ったこと無いっ!!」
本当に?
一度も?
それは嘘。
「嘘じゃない!姉さんは……姉さんは……」
シンダヨ?アナタノノゾンダヨウニ。
「いやっ……。もう……やめて……。違うの……だから……」
イイエ、チガワナイ。アナタハカノジョガニクカッタ。
「あ……ああ……」
聞こえるはずの無い声が聞こえる。 耳元でささやくような、それでいて心の奥深くに流れ込むように。
もはや本当の自分の気持ちはどちらなのかさえ、フェイエンにはわからない。
どうすればいい?
どちらを信じればいい?
「イクス……」
そうして彼女は宿縁の相手の事を思い出す。
そうだ、彼に聞けばいい。
「イクス、どこ?」
イクス、イクス、イクス。
イクスイクスイクスイクスイクス。
いつしかフェイエンの目からはとめどない涙が溢れていた。
「どこ?イクス。何処にいるの?」
寂しいよ。怖いよ。わからないよ。
私は姉さんのことをどう思っているの?
姉さんは、無事なの?それとも―――。
「イクスっ!―――ああぁぁぁぁぁぁっ!!!」
涙声で叫ぶフェイエンに、いつもの気丈さは無い。
「いやっ!イクス!どこなのぉ!!?」
狂っていく心の歯車。
とめどなく崩壊する自我。
その時―――。
「フェイエン!!?」
ただならぬ声に、誰かが飛び込んできたらしい。
「あ……あぁ……」
涙でぐしょぐしょに頬をぬらしたフェイエンを見て、飛び込んできたイクスは驚愕の表情を浮かべた。



「どうした?」
つとめて平静を装うイクス。
いま、フェイエンは危険な状態だった。
心が壊れかけている。
誰が見てもそれは明らかだった。
ともすれば消えてしまいそうな理性を、懸命にとどめようとしている。
「フェイエン。何があったんだ」
彼女の前にしゃがみこんで、イクスは優しく問いただす。
「あ……」
イクスの頬を伝う、震える指先。
それに応えるようにイクスはフェイエンをギュっと抱きしめる。
思いのほか華奢な彼女の身体を包み込むように。
「あ……う」
時が1分、1秒経つほどに、フェイエンの容態は悪化してゆく。
「フェイエン。フェイエンっ!」
「ああ……あ、あああああああ」
涙を流すフェイエンの姿がにじんだ。
泣いているのか?俺……。
頬を伝う熱い水滴が涙だと理解するにはしばらくの時間が必要だった。
壊れていく。
フェイエンが。
壊れていく。
どうしてこんな……!
「あっ、あ、あ、あああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
そしてついにフェイエンの心はは完全に崩壊した。
あまりにも不可解で、あまりにも突然に。
弛緩するフェイエンの身体。
「フェイ……エン……」
イクスは泣くしかなかった。
「どう……して……」
抱きしめた身体は汗にまみれ、だらりと力なく手足が垂れ下がっていた。
「く、そぅ……」
「イクスさん!」
テントに飛び込んでくる和泉。
外にはただならぬ絶叫に調査隊の面々が集まっていた。
「!?」
だらりと弛緩したフェイエンの肢体を抱えるイクスを見た和泉は言葉を失った。
「うぁっ!?」
和泉の後ろにいるミリィが急に頭を押さえて、じっと耐えるようにうずくまる。
「な、何でこんなに幻糸が濃いの!?……頭が…割れそうだよぅ!」
「和泉!フェイエンが……!フェイエンが!」
「落ち着いてください。……私が診ます」
和泉はイクスと入れ替わりにフェイエンの傍に座り込んだ。
それから手馴れた様子で適所を観察してゆく。
「……大丈夫。気を失っているだけのようです」
その言葉にイクスは深い安堵のため息を漏らした。
どうにか乱れた心を押さえつけ、冷静になる。
「そうか……。よかった、本当に……」
「一体何があったの?」
ミリィの質問はイクスにも答えられないものだった。
「わからない。急にフェイエンの叫び声が聞こえて……。ここに来たときにはもう……」
「でも、本当にこの幻糸の濃さは異常だよ……。これだけの幻糸を動かせるのは歌術しかないと思う」
「フェイエンが歌術を?」
「わかんない。けど誰かが歌ったとしか思えないよ」
「イクスさん、しばらく外に出ていただけませんか?」
不意の和泉の言葉にイクスは疑問譜を浮かべた。
「何故だ?」
すると和泉はちょっぴり怒ったように、
「フェイエンさんをこのままほ放っておくのですか?着替えさせて差し上げますから、お外に行ってください」
「あっ」
そういうことか。
イクスは顔を赤らめてそそくさとテントから立ち去った。


          ●


 月明かりに映し出される木々の陰に紛れるように、女は立っていた。
闇を見通すように爛々と光るその目は夜行性の動物を連想させる。 「ふふっ。これで一人脱落……」
不可解な言葉を呟き、その女は陰湿な哄笑と共に闇に解けて。
消えた。



       ----------つづく----------