しろつるぎの記憶 篇 》


           「 Interlude 1 」


「ふぁぁぁぁぁぁぁ……」
胃まで見えそうなほどに大口を開けてアレクはあくびをした。
「眠い……」
涙で歪んだ市場の景色。
昼下がりの今、夕食の買い物を……と、繰り出してきた人々でごった返している。
もっとも、今の二人にはその混雑もどうでもよいといった事だが。
彼らがいるのは人ごみからやや離れた場所にあるオープンカフェの白い丸テーブル(パラソル付き)だった。
「昨晩、遅くまで起きていたからですよ」
しっかりと釘を刺してくるのは、正面に腰掛ける彼の歌姫だった。
長いセピア色の髪と幼さの残る顔立ち。
儚くもどこか意思の強さを秘めた大きな瞳。
それがディアナの特徴だった。
「う〜ん……でもなぁ。どうしてもあの本を読んでおきたかったんだよ」
「『ドラッヘン・トーアの竜』ですか?」
アレクはコクコクと頷いてコーヒーを一口すする。
「本当にいるかもしれないね」
「竜ですか?」
再び頷くアレク。
ドラッヘン・トーアとは、広大な領土を誇るトロンメルの北端。
空を突くように高くそびえ連なるゲッター・トーアの連峰をさらに北に越えた先にある、トロンメル領最北端の山のことである。
想像を絶する険しい道程を越えた先に幽玄とそびえるその霊峰をその目に見た人々は、それを『竜の住まう山』と名づけた。
『竜の住まう』とはその荘厳な山の姿から名づけられたものだが、十数年前あるアーカイア人の探検家が実際に竜の姿を目撃したという。
アレクが昨晩読んだ本は、その冒険家が自らのドラッヘン・トーアへの行程や竜の目撃談を著し、一躍ベストセラーになった本であった。
「いや〜、絶対いるよ。竜」
「う〜ん……どうでしょうね」
子供のように目を輝かせてそう言うアレクにちょっぴり苦笑しながら、自分もアップルティーをコクコクと飲むディアナ。
両手でカップをしっかりと持って飲むのは彼女の癖だ。
食事のマナーは完璧なのに、どうしても直らない唯一の悪癖だった。
だがそんなちょっとした仕草も、彼女にはよく似合っていた。
とてもそれを咎めようなどと思う人間はいまい。
特に男は……。
"可愛いなぁ、もう……"
アレクは心でそう思う自分にハッとなった。
「ダメダメダメ。ロリまっしぐらじゃないかぁ!」
突然立ち上がってわけのわからない言葉をわめき散らすアレクに、
周囲の客の視線が殺到していた。
好奇の目。訝しげな目、エトセトラエトセトラ……。
「……もぅ、アレク様っ」
若干人見知りの癖があるディアナは、周囲の視線に恥ずかしそうに目を伏せて怒る。
「ご、ごめん」
「もぅ」
「ははは……」
人々の往来はより一層の混雑を生み出す。
その顔ぶれには一様なものなど無く、様々な人種が見受けられた。
召喚されてきた機奏英雄たちだ。
思いのほかこのアーカイアという世界になじんでいる人々が多いということをアレクは初めて気が付いた。
今までは気にも留めていなかったのだが。
「よく考えてみれば、僕もすっかりこっち・・・の人になってるなぁ……」
「え?」
「ん。こっちの話」
からかわれたと思ったのか、ディアナは小さく「もぅ」と言って再びアップルティーに口をつけた。
アレクはそんな彼女を微笑ましいと思いながら、再び先ほどの思考を再開した。
そう、大半の召喚者たちはたった一人の宿縁の歌姫と共に、それぞれの道を歩んでいる。
奇声蟲討伐に加わる者。
評議会が召喚された機奏英雄に奇声蟲討伐参加を強制していないためか、自由にアーカイアを旅するものも少なくない。
だがそれもこのアーカイアという世界の秩序の中での自由だ。
それから逸脱することは、すなわち『馴染めない者』と銘打たれてしまう。
もっとも、実際にこの世界にはそういった『馴染めない者』も少なからずいるのは事実なのだ。
そういった人間たちは、この世界のシステムに身を置かず、独自のシステムを作り上げている。
それは騎士団といったものであったり、あるいは傭兵や強盗団といった類のものまで様々だ。
ただし、そういったシステムは得てして世界の秩序とは相容れないものが多い。
そして相反した秩序同士の衝突は図らずしも争いとなり、最も悲惨な場合は戦争にさえ発展する。
「あの……アレク様?」
「ん?なに」
ディアナの声でアレクの思考の渦は凪いだ。
「どこかお具合でも悪いんですか……?」
アレクに向けられたディアナの顔は、不安に塗り固められていた。
「いや。ごめん、考え事をしてただけだから」
そう言って安心させるように微笑むアレク。
ディアナはその言葉を素直に信じてホッとした様子で言った。
「それならいいんです。難しい顔をされていましたから、心配しました」
「ははっ。そんなにひどい顔だったの、僕」
二人は顔を見合わせて、笑った。
「さて、それじゃあ行こうか」
「はい。ご馳走様でした」
アレクは二人分の勘定をテーブルの上に置くと、席を立った。
「いい天気ですね」
「そうだね。明日も晴れればなおよしなんだけど」
二人が見上げる頭上には雲ひとつ無い蒼穹の空が果てしなく広がっていた。
見ているだけで幸せになれるような空だった。
「アレク様……」
「ん?」
「……なんでもないです」
何か言おうとした彼女に応える代わりに、アレクはディアナの小さな手を握った。
「あ……」
最初は驚いたディアナだったが、うれしそうに握り返してくるのだった。


この時の二人は、アルムベアクの事も、イクスとフェイエンがそこへ飛び出していったことも知らなかった。
まして、この平和な日常の風景が崩れ去ることなど、一体、だれが想像しえようか……。


       ----------つづく----------