小説
 『ルリルラ
   〜Limited Waltz〜』
     上編
序幕「プロローグ」
       
 6月。雨の月である。その年は特に降水量が多く、ここ埼玉では、毎日のように雨
がコンクリートの大地に降り注いでいる。
この6月というアンニュイな時期では何もかもが停滞しているかのようである
 変化に乏しく、退屈でうっとうしい湿気、熱気、そして日常がただ黙々と繰り返さ
れてゆく。もちろん毎日、同じ出来事だけががカセットテープのごとく繰り返されて
いるはずはない。日本国に住んでいれば、たいていの場合夕飯のメニューは毎日変わ
るだろうし(どこぞの社会主義国家の人が聞いたらビックリするだろう)、週刊誌やテ
レビ番組の内容だって日々変化しているはずである(北○鮮の人が聞いたらこれまた
おどろくだろう)。
 日常はささいな変化の積み重ねではないか?
 ただ誰もそれに気づかないだけで・・
 この物語は、そんなありふれた日常の大切さを伝えることが・・・出来ないかもし
れない。
 これから起きることは、少なくとも「彼」にとって、けして「ささいな」事でないのだ
から。
 「彼」を紹介しておこう。彼の名前は南 正貴(みなみ・まさき)。姓は南、名は
正貴という。日本国埼玉県の生まれにして高校2年生の17歳の彼もまた、平々凡々
と日常を歩んでいた。
 しかし、日常は彼の足元からぷっつりと途切れる。
 平穏も彼の前から足早に逃げ去る。
 彼に残されるのは激動の運命。
 彼はこれから多くの「モノ」を得る。そして、多くの「モノ」を失う。最後に彼が自分
の元につなぎとめる「モノ」は、まだわからない。


     歌が、響き渡る。「大いなる存在」の歌が。


                 
第一幕「埼玉に降る雨」
                   1
 6月23日水曜日、平日の朝が今日もやってきた。時刻は7時5分、外気温27
度、午前の降水確率は90パーセント。外はバケツをひっくり返したようなどしゃ降
りである。
 そこは、特徴のあまりない、白っぽい一戸建て住宅の、一室である。主にマンガが
詰め込まれている本棚のそばに、夏用の制服の上着とズボンがハンガーに引っ掛けら
れていることから、ここが学生の寝室だとわかる。
 PiPiPiPiPiPiPi・・・・・!けたたましく鳴り響く目覚し時計のア
ラームの音が、その部屋の住人の安眠をさえぎった。
「・・ったくよう・・もっとソフトに起こしてくれよ・・・この不快音発生装置め」
 部屋の住人は半分寝ながら悪態をついた。不快な音だからこそ目が覚めるのだとい
う事実を無視している。
「ふぁぁ。ねむい、ねむいぜあんちくしょう」そう言いながらゆっくりと上半身を布
団からもたげると、いかにもねむそうな顔でふぁぁ〜と2度目のあくびをした。
 ─今日も雨・・か。彼はそうぼんやりと考えた。部屋の窓はすりガラスなので外は
見えないが、光の入り具合や、そして何より外から聞こえてくる雨音が、大雨である
ことを教えていた。
 彼は数十秒間まどろんだ後、布団から立ち上がった。両親から「冷房を使いすぎる
な」といわれている彼は夜にエアコンを使わない。そのため掛け布団すら足で蹴飛ば
して寝ている彼の就寝時の格好は、シャツとトランクス一枚だけ、というお世辞にも
いいものではない。
 そしてそのままハンガーに乱暴に引っ掛けてあるカッターシャツと黒色のズボンに
着替え、洗面所にて顔を洗い、朝食のためリビングに向かう、これが彼こと高校生、
南・正貴のいつもどおりの起床パタ−ンであるのだ。


 正貴はリビングに入ると、台所で朝食の準備をしている母親、理恵子におはよう、
と挨拶した。その口調はやはりねむそうである。正貴の挨拶に対して母もふりむき、
「おはよう、正貴」と返事をする。その手にはフライパンを持ち、チャーハンを炒め
ている。朝食に出すのではなく、正貴のお弁当に入るものだ。
正貴は自分のお茶碗とお箸を台所から引っつかむと、炊飯ジャーを開けた。そして茶
碗にご飯をジャーから適量よそい、リビングの真ん中のテーブルに腰をおろした。
 目の前のおかずを一瞥する正貴。皿にはししゃもが3尾にほうれん草、そしてウイ
ンナ-が2本置かれていた。その横には昨日の残り物である肉じゃががフタつきの
タッパに入れられている。
 正貴はそれらを食しつつ、母親に話し掛けた。
「母さん、父さんはもう会社?」ウインナ-をくわえつつたずねる。
「ええ、もうとっくに出かけたわよ。それがどうかしたの?」母はチャーハンを炒める
のを終え、弁当箱にそれを詰めている。
「いやあ、外、雨がすごいみたいだからさ。父上が全身ずぶぬれのびしょびしょにな
るんじゃないかと心配なのですよ、お母様」、と正貴。無論、正貴が日ごろから母親
を「お母様」などとは呼んでいない事は明記しておく。
「大丈夫よ。レインコートと傘、両方持っていったわ」
「それはよござんした。」、とわざとおどけた風に言った。
 理恵子はそれを気にも留めず、弁当のしたくを続けている。
「正貴もさっさとそれ食べて、学校に行きなさいよ」
はいはい、と正貴は生返事をし、肉じゃがをほおばり、ご飯を口に掻きこんでゆく。
「ところで正貴、あんた今度の部活にお金要るんじゃなかった?」
 正貴は学校のワンダーフォーゲル部、通称ワンゲル部に所属している。休日などに
は、近辺の山や丘をハイキングするというのが主な内容である。
「ああ、それそれ!」と正貴は今思い出したといわんばかりに相づちを打った。
「交通費その他諸々、しめて2000円、お願いしやす、おっかさん」
「はいはい、正貴が学校から帰ってきたら出しておくから」
「ありがと。じゃあ、そういうことで再来週の日曜は朝から行ってくるよ」ニンジン
を口に放り込みながら正貴が言う。
「分かったわ・・・って正貴、あんたの食べてるその肉じゃが、お弁当にも入ってる
のよ」
まさきはそれを聞くと、「ええっ!?」と驚愕した。
「それ、さっきに言ってくれよ!もうあらかた食べちまったよ!」
「知らないわよ、お母さん料理中なんだから。それにタッパにフタしてあったでしょ
う?」
確かにフタはしてあった。
「いや、そんな・・・ああぁきのうの晩も今日の朝と昼も肉じゃがか・・・凹むよ、
大いに凹むよ」
正貴は肉じゃがが嫌いではないが三食続けてではさすがに飽きる。しかし母という絶
対権力の前には反論、反抗は無力であり儚げな力である。
「文句ばっかり言わないの、さっさと朝ごはん食べて、さっさと学校に行きなさ
い。」
 かくして、正貴はそのまま朝食を終え、少し凹みながら肉じゃが入り弁当をかばん
に詰め込み、玄関にとぼとぼと歩いていった。


 家を出る際、正貴は傘入れから自分の青と白のボーダーカラーの傘を取り出し,玄
関の戸を開けた。
 外は案の定、どしゃ降りの大雨である。正貴は、朝起きたときも、騒がしい雨音が
していたので想像してはいたが、実際にこの雨の中を歩くのは気が重い、と感じた。
 蒸し暑い大気(湿度は90パーセント越えである)、警報が出るほどの大雨(大雨警
報では学校が休みになるはずもなく)、そして肉じゃが入り弁当(三食目だ)の3連
チャンが正貴を苦しめる。
 しかし、正貴が苦悩した所で何かが変化するわけでもなく、黙って学校へ行く以外
の選択肢は残されていない。
(俺は・・・行くしかないのか・・・?あの場所へ・・・)さっさと高校行けよ。

                 
 降りしきる雨の中、正貴少年は傘を指し、とぼとぼと通学路を歩いていた。正貴の
住む地域は住宅街、コンクリートジャングルである。アスファルトの道の両側、立ち
並ぶ家々の排水パイプからはものすごい量の雨水が流れ出し、道沿いに設けられた側
溝は溢れんばかりになっていた。
 行き交う人はみな一様に不機嫌な顔である。こんな日に笑顔でいろ、というほうが
無理ではあるが。
 毎日のように歩く住宅街には新鮮味はまったく無く、正貴は半ば無意識のうちに足
を進めていた。
(今日の生物の授業は実験だったよな・・・それから体育と・・。あ〜体育館蒸し暑
いんだろ〜な〜。ヤダヤダ。・・・あ、数Bのノート小田原に貸しっぱなしだな・・
・あいつこっちから催促しないと返さないし、まったく。そういや、この前、マス
《ハンバーガーチェーン・マスバーガーの略称》で俺が立て替えた290円+消費税
5%もあいつ払ってないなあ・・・絶対忘れてるな。ああいう人間が就職しても国民
年金も厚生年金も払わないから国の財政が圧迫されるんじゃないのか。イエス・キリ
ストだって『カエサル(皇帝)のものはカエサルに、神のものは神に返しなさい』と
言ってるじゃあないか。俺のノートと290円は俺に返すのが神のご意志ってもん
だ)
湿気と熱気のせいか,はたまた天然なのか、正貴の考えはだんだん焦点が合わなく
なってきた。何故ノートと290円を返すことが神の意思なのか、それは彼自身にも
分からないだろう。
(神様と言えば、何で神社にお賽銭を投げ込む必要があるんだ?あのお金は大部分が
神主さんとか巫女さんの給料になるんだよな・・・あと境内の保全費とか・・・。別
にあのお金が神様に届くわけでも・・・)
 学校に近づくにつれ、学生服の若者たちの姿がちらほらと見受けられる。
 そのとき誰かが「ハヨッス。正貴」頭の中がカオスに満たされている正貴に対し、
そう言って後ろから肩をぽんとたたいた。
 「あ、あぁ、おはよ」と正貴ははっと目が覚めたかのように答える。正貴に呼びか
けた相手はノートと290円を返さない小田原、でなくて正貴と仲の良い友人の橋本
信久であった。正貴よりの背格好は大きく、顔は地味目であるが、その目には確かな
実直さが見える。ハヨッスという独特の挨拶は、彼を含むサッカー部員が先輩相手に
使う「おはようございます」が簡略化されたものだ。
二人は歩きながら言葉を交わす。
「今日は朝錬無いんだな」正貴が尋ねると、
「こんな雨じゃな、それにしても・・・」
「正貴よ、いくらどしゃ降りだからってそのゾンビみたいにジト〜とした顔はやめろ
よ。みっともないぞ」信久が苦笑しながらそう言う。
「みっともない?」正貴が聞き返す。
「とんでもなくみっともない」信久がきっぱりと言う。
「いや〜実はさあ、俺、色々悩みがあってなぁ」
「金なら貸さないぞ」信久はあらかじめ予防線を張った。
正貴は笑いながら「違う違う。ま、金のことも一部絡んでくるんだけれど」と言っ
た。
「脅迫でもされてんのか?」
 2人の横を自転車に乗った男性が通り過ぎた。
「犯罪に巻き込まれたわけでもなーい。実はな今日の昼の弁当、・・・肉じゃがなん
だよ。昨日と今日とあわせてこれで三食連続肉じゃがってなわけなのです」
 それに対し、さーて、さっさと学校行こう、と信久は呆れ顔で言い、早足で正貴の
前を歩き始めた。後方から正貴の、待ってくれ〜という情けない声。
正貴は信久に追いつき、「今のはナシ、ナシ!」と弁解する。
「今日、小田原に貸したノートと金を返してもらうつもりなんだけど、催促って気が
ひけるんだよ。なんかこっちがセコイみたいに思われるし」
「でも、あいつは正貴の方から切り出さないと一生返さないと思うぞ」
「そうなんだよ・・・ルーズにもほどがあるよ」正貴が渋い顔で続けた。
「しかし数Bのノートは必要だしなあ。催促は債権者の義務、ってことか」
「ま、そう言うことだ。せいぜい頑張れ」信久が正貴の肩を叩きながら言った。
「他人事だなぁ、オイ」
「他になんて言って欲しいんだよ?」信久が尋ねると、
「『正貴さ〜ん、頑張ってくださ〜い』(黄色い声で)ぐらい言ってくれ」と答え
た。
「却下。出来るか、そんなこと。」
「いや、人間やればなんだって出来る!さあ信久、オラに力を分けてくれ!」
「・・・・・・」信久は何も言わなかった。
そうこうしているうちに高校の校門が見えてきた。埼玉県立東邦丘(ひがしくにおか)
高校が正貴たちの学び舎である。その校舎は古くも新しくも無い、といった感じであ
る。
校門をくぐり、正貴達は自分たちの2年3組の教室へと向かった。


               2
ここは教室である。廊下側の壁に「2─3」の表札が取り付けられている。現代日本で
は文字は左から右へと読むのが一般的なので、これは「2年3組」と読めば、まあ間違
いではないだろう。
「・・・なので、このときはベクトルA・Cの内積は・・」
教室内では年配の男性教師が説明を交えつつ、黒板に式を書き込んでゆく。席に座っ
ている学生たちはそれを黙々と書き写す作業をこなすか、そうでないものは眠るかし
ている。正貴と信久はと言えば、2人とも前者である。とはいえ、正貴の方は少しま
どろんだ目つきをしている。
「2√3となる。・・・あと、この公式は使用頻度が高いから、覚えておくように」
 教師がそう言った所できりよく授業終了のチャイムが鳴った。
 起立、礼を済ませると、正貴は信久の席へと近寄った。
あくびをしつつ、「・・ふぁぁ〜、や〜っと今日の授業も終わりだ〜」と眠そうな声
で言った。
「授業中、ずっと寝てたのか?」と信久。
「うんにゃ。ちゃ〜んと起きてたよ」正貴は答えた。
信久はそうか、と言い、数Aのノート取り返したんだな、と言った。
 正貴が「授業は終わり」と言っているように、今は6時間目の数Aが終了して、本
来ホームルームの時間である。「さっき登校したばっかりなのに、もう帰りのホーム
ルームかい」と思われる人もいるだろうが、正貴の学校内での平凡な出来事を長々と
記しても何の面白みも無いので省略した。
 特筆すべきことといえば、正貴が小田原から数Bのノートを「取り返した」ことぐ
らいだろうか。正貴が昼休みに小田原の2─2の教室に行き、ノートの引渡しを要求
したとき、返ってきた返事はこうだった。
「ああ、アレ1組の八栗に貸しちまった。ゴメン」
 貸しちまった、じゃねえだろうが・・・と正貴は怒りに顔を引きつらせつつ1組に
赴き、八栗からノートを受け取った。オレ、まだ写してねえのに、という八栗の愚痴
がもれなく付いてきたが。
正貴はそのことを信久に話して聞かせた。「・・・ということなんだよ。何で俺がこ
んなに苦労しなきゃなんないのかね・・・はぁ」正貴は信久の机にへばりついてい
る。
「貸す相手は選ばなきゃな」と信久は言い、正貴は「本当にそうだ。もう奴にはびた
一文貸さん!」と同意した。
「びた一文といえば、金も貸してたんじゃないのか?」
正貴は疲れた表情で「そっちはもう諦めた。今日も併せて2〜3回催促しても駄目
だったしな」とだけ言った。
「まあ、勉強になったと思えば良いかもな」信久は笑った。
正貴は「不良債権を抱えた銀行の気持ちが良く分かりましたよ」と苦々しく答えた。
「貸し倒れか・・・っと、先生がきたぞ、学活だ。席に戻れよ」と指を指した。
 正貴がそういわれて後ろを振り向くと、前の入り口から担任の男性教師が入ってき
た。
彼は両手に抱えたプリント類を教卓におくと、生徒たちに席につくよう呼びかけてい
る。
信久の机にへばりついていた正貴は「お前、ホント真面目だな。もう少し気楽に行こ
うぜ。気楽に」といって立ち上がった。
「真面目で悪いことなんて一つも無い。おれの性格だからな。それに・・・」信久は
続けた。「正貴、お前だってそう不真面目でもないだろ?」
「どうだかね、よくわかんねえや」そう言うと、正貴は席へと戻った。

さて、肝心のホームルームである。
いつもの通りにプリント等の配布物が配られ、先生が明日の予定を述べた。(明日は
大清掃です、と先生が言った所で教室のあちこちから嘆きの声が聞こえた。無論、正
貴も、え〜、とブーイングをした)
そして終わりの会で田中君が「きょう、まさひとくんにたたかれました。いたかった
です。」と言い(嘘)、委員長がまさひとくんに田中君に対して謝るように言い(大
嘘)、二人が仲直りしたところで先生が「さあ、皆さん今日も1日の感謝をこめて、
アッラーの神に祈りを捧げましょう」と言った。(真っ赤な嘘)
 
こうして、ホームルームは終了し、掃除係は掃除に、クラブのあるものはクラブに、
帰る者は帰路にと散っていった。正貴はと言えば、信久に同行し、サッカー部の部室
の前で信久を待っていた。正貴は雨の中、傘を差している。
「それで、どうだった?部活はアリ?」部室から出てきた信久に正貴は聞いた。
「いや、ナシだ。期末一週間前だし、このあめじゃあな・・・正貴はワンゲル部のほ
うはいいのか?」期末とは学期末の試験のことである。今回は1学期の期末試験だ。
「ああ、ウチは再来週まで活動は無し。ミーティングもテスト終わってから」
その時、「いや〜ワンゲル、っていつもヒマそうでいいな。」と横から口をはさむも
のが一人。サッカー部員の2年の一人である。同級生だが正貴とはあまり親しくな
い。
「サッカー部なんて毎日大変だぜ。朝錬に放課後練習、毎日くたくただよ。その点、
ワンゲルは月に1回ハイキングに行くだけだしな。うらやましいぜ。」とこっちが聞
いてもいないのにべらべらと、しかも皮肉ったらしくのたまう。
「へいへい、まったくだね。」と正貴は口調をあわせる。別に怒るほどのことでもな
いし、と思っていた。
「ホントにそれで運動部って言えんのか?」
 怒るほどのことではないと思っていた。
「たった数人しかいないしよ、同好会なんじゃねえの?」
 怒るほどのことでは・・・
「そっちの予算、サッカー部に回せりゃ良いのにな。結構もらってるだろ」
怒るほど・・・
「何でワンゲルなんか入ってんだよ」
 怒ら・・・ないわけあるあかぁ!
いくら温厚な正貴さんでもさすがに少しばかりブチ切れかけたその時、隣にいた信久
がすさまじい剣幕で、そのサッカー部員に「いいかげんにしろ・・・工藤」と低い声
で凄んだ。信久の高い身長と相まって、はたから見れば強面の先輩と軟弱な後輩にし
か見えないような光景である。
「冗談にしても、度が過ぎるんじゃない無いのか、え?」周りの空気が一瞬で凍る。
「あ・・いや・・・ゴ、ゴメン!」それだけ言うと、工藤は校舎に逃げるように、と
いうか逃げていった。
「あ〜・・・んじゃ・・・帰ろうか」と正貴は言った。その表情にもう怒りは無い。
信久は、ああ、と言い傘を差し、正貴とともに帰路についた。

 相も変わらず雨は分厚い雲から降注いでいる。
「さっきはすまん。」アスファルトの道を歩きながら、信久が言った。
「別にいいや。それに信久のせいじゃないし」
交差点を曲がりながら正貴は答えた。
「工藤はなあ、部活でもあんな感じなのか?」正貴が聞き返した。
「そうなんだ、悪口やら中傷が多い奴だよ。しかも、自覚が無い。」
「いや、自覚はあると思うな。いわゆる確信犯だよ。」
「そうか、なら尚のこと厄介だな・・・」信久の口調は重い。
「そう。一番腹が立ったのは、俺の事じゃなくて部活を馬鹿にされた事なんだよ。他
のワンゲル部の部員まで馬鹿にされてる気がしたよ。というか馬鹿にしてたな。」
「本当にすまん」のぶひさはまた謝った。
「だからお前のせいじゃないって。でも強いて言えば・・・」そこまで言って正貴は
口ごもった。
「強いて・・・なんだ?」
「もう少し早くに助けて欲しかったな」正貴は笑いながら言った。
「・・・怒るタイミングが掴めなかったんだ」
ひゃひゃひゃ、と正貴は笑い、お前らしい、と言った。
「しっかし、怒ったときのお前の顔は凄かったぜ。ケータイで撮りたいくらいだっ
た。俺のケータイがカメラつきだったらなぁ」と言いつつ正貴はズボンのポケットか
ら携帯電話を取り出し、ジョイント部分をパカパカと曲げた。
「撮らんでもいい」と言う信久の表情ももう暗くは無かった。
いやいや、あの顔は俺のケータイの待ち受け画面に・・・と正貴が言う途中、どこか
らか「音」が聞こえてきた。
(なんだ?)
正貴はその「音」に違和感を覚えた。
(どこから聞こえるんだ?)
 ごうごうと音を立て、雨は降注いでいる、なのにまるでその「音」はそれを無視す
るかのように静かに聞こえてくる。
 正貴が辺りを見渡す。「音」はどの方向から聞こえているのかすら分からない。
なぁ、信久、と正貴はなぜか不安になり隣の友人に声をかけた。
「あ、あぁ正貴、何か・・・何かおかしくないか?」
「何かって・・・お前も聞こえるってこたぁ、幻聴じゃないってことか・・・」
 二人は歩道で立ちつくした。すると「音」が大きくなり始めた。いや、違う。雨音
が「遠く」なり始めたのだ。そして、「音」が近づいてくる。まるで意思を持ってい
るかのように。
「これは・・・歌?」最初に気がついたのは信久であった。
「歌、だって?」
正貴は耳を澄ませた。それは歌だった。
聞いたことの無い歌。
言語すら分からない歌。
しかし、その歌声は今まで聞いたどの歌よりも清らかで、美しかった。
 荘厳な調べがだんだんとはっきりと二人の耳にではなく心に届く。その歌はどこか
らも聞こえてはいなかった。正貴達は歌を「感じて」いた。
雨音が、「世界」が、だんだん小さく、遠くなってゆく。
 正貴がそれに気づき我に帰ったとき、彼らはまだアスファルトの大地に立ってい
た。だが、その感覚は次第に薄れつつある。
 自分と、世界が断絶される時。
「な・・・なんだよこれ、おい!信久・・・」そう言って信久の方をふりむいた、次
の瞬間、信久の姿はもはやそこには無かった。信久の存在は一瞬で消え去った。
「え・・・?」
 そして正貴自身もまた、ロウソクの炎のように、ふっといなくなった。
 薄れゆく意識の中、正貴は思った。
(あ・・・明日って大清掃の日・・・って何でこんなどうでもいいことを・・・)
 
 埼玉の大地に
 6月の雨は降り続く。
消え失せた少年2人
 いなくなっちゃった高校生が2人。



あれこれあとがき:どうも、新参者のマーシレス、と申します。このたび、生まれて
はじめて小説(にもなっていないようなもの)を書いてみました。だらだらと長い割
には、内容が皆無だったりする辺りはご容赦くださいね。文頭に『上編』とか書い
ちゃってますが、途中で力尽きる可能性があるので、あまり気にしないで下さい。 
 
これを呼んでくれた方と、掲載させてもらっているユッキーニさんに感謝しつつ、ち
まちま書いていこうかと。

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