第二話『絡む運命が歌を紡ぎ』 あの、刹那の攻防の後。 少女は俺に『レン』と名乗って何処かに消えた。 きっと、彼女にも行くべき場所や何かがあるのだろうと。 この世界で唯一の知り合いになりそうだったけど、敢て、止めなかった。 騒音が治まったのに気が付いたのか、戻ってきた女の人達に、 自分が今おかれている状況を話すと『英雄』だといわれた。 あなたが戦ったその蟲は『奇声蟲』と呼ばれる世界の脅威で。 それに立ち向かう我らの『希望』が『英雄』なのだと。 戦ったのは、俺じゃないと。 告げたくとも笑顔に遮られる。 ―――きっと、それは。 笑顔の下で泣いているように見えたからだろう。 † なにがなんだか分からない騒動の中で案内された宿は、この世界の中にあって上等な部類なのだと推測出来た。 ベッドはあからさまに一人で眠るに大きすぎるし、宿屋だと言うのに箪笥が完備されている辺りも普通ではない。 それら全ての調度品に文句を言えるはずも無く、ただ一つだけ不満を口にするならそれら全てが“女性向け”としか思えない華美な装飾だったことだけだろう。 そんな装飾から逃げ出すようにして、これまた無駄に大きなテラスに通じるガラス戸を開けて外に出た。 想像していたテラスの倍の広さを誇るその場所を軽く見回してから手摺に肘を付く。 そうして、一息吐き出す。 吐息は、憂鬱な音を立ててから、ゆっくりと空へ昇って行った。 無論、残暑のような気温の中で吐息が白く染まるはずも無く、強いては白く染まった吐息が空へと昇るように無色透明な吐息が空へと昇って行くのを幻想しただけだ。 理解出来ないことの連続が、こんなにも疲れるなんて。 曖昧に理解した気になって居たが今日実感して、それがその理解を遥かに超える疲労だったのだと実感した。 そもそも、理解出来ない出来事に襲われる疲労の大きさを理解した気になってる時点で間違えなのだが、それは置いておくとしよう。 ―――あの、命がけの攻防のあと。 駆けつけてきた人々に言葉の通り揉みくちゃにされた。 それこそ、情け容赦なんかなかった。 集まってくる人来る人がこちらを不思議そうに眺めた後、すぐ其処に転がっている真っ黒になった奇声蟲の死骸とこちらを見比べ始めて。 そうして俺に笑顔を向けて『有難う』と口にする。 その繰り返しが延々と、数えるのも馬鹿らしくなるくらいに繰り返されたのだ。 自分はただ逃げ惑い、挙句殺されかけただけだと言うのにまるで俺が倒したかのようなその感謝の仕方。 真っ直ぐな感情がこれほどまでに怖いものだとは、後にも先にも実感できる機会は今回限りのものだろう。 そう。 有難うといわれるたびに感じていたのは、微かな自尊心をくすぐる心地のよい高揚感ではなく、むしろその対極の恐ろしさ。 感謝されるいわれなどまったく無いというのに、まるで溺れた時にすがりつく藁のように。 必死に感謝するその様は何処か狂気地味ていた。 自分に出来た唯一のことは、真実を曖昧な困惑の笑顔の下に隠し通して、ただその感謝を一身に受けるだけ。 知りたい自分のおかれた状況に付いての説明も、その怪物が何なのかと言う説明すらも。 彼女たちが寄せる感謝の前に“偽善”という覆いで我慢するしかなかった。 堪えたと言えば、それが一番堪えたのかも知れない。 だって、それは。 ―――縋り付きたい心境の中。 今にも折れそうな心のままに、 その心にたくさんの心をしがみつかせると言うことに、 他ならなかったのだから。 結果、自分のそんな隠し通した恐怖を若干でもやわらげる説明を満足に受けられたのはこの宿屋に案内されるまでの二十分足らずだけだった。 気が付けば沈み始めていた太陽の中で説明のために残された時間は本当にそれだけしかなかったのだろう。 きっと。 この優しい夜に一時でもいいから今日の悲劇を忘れて眠りたいに違いないのだから。 「―――たっく、笑わせるよな」 悲劇を忘れたいのは他でも無い自分だと言うのに。 今日と言う日まで幻想だ戯言だと否定していた“異世界”の住民たちを心配する自分が滑稽で仕方なくて、そんな自嘲的な言葉が口から漏れる。 そもそも、今日はただ感謝されただけだ。 自分から関係したわけではなく、ただ一瞬すれ違っただけのようなもの。 そこには、ただ恐怖を緩和させる以上の何の意味も無い。 感謝した人達とて、明日の朝になればなにに感謝したのかもどうして感謝したのかも日常以上の価値を持たない刹那の戯言に落ちぶれる。 結局は胸の内にこびり付いた恐怖を一時でいいから拭い去りたかっただけなのだ。 わかっている。ちゃんと理解している。 なにせ、自分だって少なからずそういう部分があったのだから。 あの怪物―――受けた説明では奇声蟲、といったか―――は俺が倒したんじゃない。 倒したんじゃないが、そうだ。俺はみんなのほうに行かないようにしっかりと囮役を果たしたじゃないか。 止めを刺さなかっただけで、ちゃんと俺は自分の限界まで闘ったんだ。 しっかりと感謝されるだけのことはしている。 説明にもあったじゃないか。俺は英雄だって。 世界を救う希望で、みんなの心の支えのような存在で―――どうにも、俺だけの存在ではないみたいだけど―――此処には俺しかみんなの支えになれる人物は居ないのだから。 うん。 しっかりと俺は自分に出来る限界を果たした。 ―――果たした、はず、なのに。 「なんで震えが―――止まらないんだろう、な」 手摺に置いた腕を見るまでも無く。 両肩も。 膝も。 心ですらも。 震えて、震えて、どこまでも怯え切っている。 震える両手で震える肩を掻き抱くように抱きしめるが、震えは一向に収まらない。 そうだ。 名前も見たことすらも無いたくさんの人々に感謝を告げられている最中でさえこの震えは止まらなかった。 むしろ、徐々に徐々に震えは、どうしようもなく悪化していったように思える。 未知が。 分からないと言うことが、こんなにも怖いなんて。 一時の高揚感すら得られ無い程に強いこの恐怖からくる震えが心を締め付ける。 それは、まるで蛇を連想させた。 既に弱っている心に巻き付き、窒息するまでゆっくりとゆっくりと圧迫し殺して行く―――そんな、緩慢な地獄を連想させた。 誤魔化そうとする心は恐怖に軋み、止まらぬ震えは吐き気を伴って全身へと伝播する。両手で身体を抱きしめようと、必死に自分は救われていいのだと誤魔化そうともそれらは一向にやむことをしない。 そんな自分を認めたとき―――どうしようもないほどに、惨めな気持ちになった。 震えながら見上げた空。其処に広がる星は全く知らないものだらけで、暗闇を優しく照らす月すらも見慣れぬ双月が浮かんでいる。 孤独だった。 世界の中で、唯一何も知らない、何も分からない不純物。 まるで白い画用紙に一滴だけ垂れた黒いインクのようなどうしようもない違和感が、心の中を黒く染めて行く。 「―――また、怖がってる」 その言葉は、唐突に空を見上げる自分のすぐ横から掛けられた。 うわ、ともなんとも言えない曖昧な驚きの声と共に慌てて横を見やると、手を伸ばせば届く距離にあの少女が居た。 本当に奇声蟲とか言われるあの怪物を一人で圧倒し、殲滅せしめたあの―――女神のような少女が。 「どうしていつも……そんなに怯えてる?」 去り際にレンと名乗った少女が小首を傾げながら問いかけてくる。 それは、あの時、俺に問いかけてきた言葉と同じ極々当たり前の言葉。 「こ……コワイからに、決まってるだろ」 その当たり前の問い掛けに、当たり前の言葉を俺は返す。目の前の少女は「ふぅん」と曖昧に頷いてからゆっくりとした動作で先ほどまで俺がしていたのと同じ様に空を見上げた。 月光に、少女の瞳が煌めく。 「怖いってなにが? 私―――それとも、他の何か? 自分とか、あの奇声蟲とか、色々あるけどなにが貴方は怖いの?」 「え―――」 「貴方の怯えるその怖い物が―――私には、分からない」 空を見上げたまま、本当に分からないといった疑問の声音で問いかけてくる。その響きは酷く純粋な子供のような声に聞えた。 なにが怖いのか。なにに怯えているのか。 身体の震えは何時の間にか収まっていた。身体の奥のほうでまだ震えているような感覚が残ってるけど、それでも、先ほどまでの明らかな震えに比べればだいぶマシになったと言えよう。 少しマシになった心で、少女の問いに答えようと思考をめぐらせた。 そうして、思いつくのはやはり問いと同じ様に単純なものだけだ。 「たぶん、分からない事が―――俺は、怖い」 「そう」 俺の言葉にそんなどうでもよさげな頷き一つで少女は返事を返す。俺も、少女なら多分そんな感じに返答するんだろうと半ば無意識に覚悟していたからなんとも思わなかった。 大体で。自分でも言っていてどうでも言い様な理由だ。『ワカラナイ』ことに怯えるなんて何も知らない赤ん坊でもあるまいに『分かる範囲内』でどうにかするのが立派な人間と言う種族だろう。その立派な人間に分類されているかはわからないけど、少なくとも何も知らないわけじゃない今は―――分からない事に怯える必要なんてこれっぽっちも無い。 ほんと―――どうでもいい理由だ。 と、其処まで考えて本格的に恐怖が取り除かれて若干の余裕が生まれた思考がふと疑問を思いつく。 そういえば。 「そういえば君は―――」 「レン……そう、名前、教えたはず」 「……レンは、一体どうやってここにきたんだ?」 何かこだわりがあるのか代名詞を使った俺の言葉を遮って訂正させた少女に、俺はそんな―――当たり前の疑問を投げかける。 そんな問い掛けに少女は目を丸くして空に向けていた視線をこちらへ向けた。まるで、信じられないものでも見たかのようなその驚き方が、どうにも先ほどまで帯びていた神秘的なイメージとかけ離れていて少し以外だった。 「どうやってって―――」 驚いた状態のまま少女は右手をつぅっと部屋の方へと向ける。暗闇で月光にだけ照らしだされているせいで強調された少女の白い指が指し示す方向は、どうにも部屋の入り口らしい。 ああ、つまりはなんて事無い。 レンは部屋の入り口から普通に入ってきたのだ。ただ単に俺がそれに気が付くほどの余裕がなかっただけの話で。 「―――大丈夫?」 妙に先ほどまでとは違う本気で心配しているような声音で少女は改めてそんな事を問いかけてきた。 「大丈夫、大丈夫……多分、大丈夫」 「そう。なら、いいけど」 自分のした質問の馬鹿さ加減に落ち込みながら曖昧に返事を返す。 全く、今日と言う日は自分にとって厄日なのだろう。 運の悪い時はとことん運が悪いものだとは言うが、こんな些細なことにまで働くとは予想外を通り越して神サマの悪戯心に腹立たしい。 ほんと、ついていない。 レンとの会話を見たってそれは明らかだ。 先ほどから当たり前の問い掛けと、当たり前の答えばかり。 もうちょっと気の聞いた言葉の一つや二つ言えればいいのに、と後悔してばかりだ。 「ねぇ……」 「ん?」 自虐していた思考を遮るようにレンの声が響く。 考えていた事もほんとどうでも言いことばかりなのであっさり迷い無く捨て去って、レンへと向き直る。 と。 「―――私がどこから来たのかははともかく……なんで来たのかは、聞かないの?」 向き直った瞬間、レンはそんな二の句も告げないような俺の馬鹿さを指摘した。 確かに、どこから此処に来たとかよりも数十倍核心に迫った問い掛けだ。その問い掛けを思い至らなかった自分の馬鹿さ加減が少々笑えない程度には重要な問いといえよう。 そうだ。なんでレンは此処に来たんだ。 思えばこの少女と自分の接点はあの奇声蟲騒動以外にありえるはずも無い。この世界に『召喚』だかなんだかされて来た『英雄』である自分が、この世界の住民であるレンと知り合う機会なんてあの時以外にありえなかったのだから。 それに、部屋の扉から入ってきたと言うのはともかくとしてどうやってカウンターに居ただろう、幾人かの人の目を盗んでここまで来たのかも気になる話だ。 宿屋、と言う体制をとっている以上、あんな騒ぎがあったとは言え何人かの人が入り口の付近に居たはず。それもこんな高級ホテルみたいな宿屋なんだから、それなりの警護だってあったはずだ。 ―――それを潜り抜けるのは不可能と言ってもいい。 隠密とかそういった技能に精通でもしていない限りそれは無理だ。 「そ、そうだ……どうして君は」 「君、じゃなくてレン」 「……レンは、ここに来たんだ?」 その問い掛けをした瞬間、まってましたと言わんばかりにレンはこちらを真っ直ぐに認める瞳で笑いかけながら。 「宿縁―――あなたが、私の英雄。そして私が貴方の歌姫、だから」 だから、ここに来たのだと。レンは告げた。 その瞳には何の迷いも無く、その声音にもなんの不純がなかった。 本当に―――それはまるで純粋な音色のように闇夜に響き渡った。 だからこそ、俺はその荒唐無稽でこちらの都合なんか知ったこっちゃ無い言葉を無条件で信じるしかなかった。 ―――否。 信じる気になったんだろう。 「歌姫―――それは、英雄を助ける者。 英雄―――それは、世界を助ける者。 英雄が世界を救うためにありとあらゆる脅威と戦うのならば、 我々歌姫は英雄のありとあらゆる困難を助けなければならない。 どこまでも寄り添い歩み寄り。 比翼連理の鳥のように何時までも、 死が二人を分かつその時まで共に歩む切れない絆。 不慣れな剣に戸惑うあなたを。 私の想いが英雄に変える。変えてみせる。」 それはまるで、朗々と歌を読み上げているかの如く、堂々たる言葉だった。 思えば。 レンをはじめてみた時もそうだった。 少女と言う存在は本当に女神と見間違えるほどに威風堂々としていて。 その存在に、一片足りとも後ろめたいことなどないかのように前を見据えるその強い瞳。 風に靡く髪はまるで彼女の自由を歌うようで。 身に纏う衣装はまるで彼女の神々しさを引き立てる天の衣のようで。 俺にはそんなレンと言う少女が、始めてみた時から特別だったんだと思う。 だから、自然と俺はこの言葉を聞いて思ったんだ。 俺は、レンを。 「よろしく―――私の英雄様」 ―――レンを護りたい。 それこそ、俺の全てをかけてでも。 それは、絡んだ運命がまるでオルゴールのように音色を紡いだかのような。 ささやかな出会いだった。 第二話『絡む運命が歌を紡ぎ』 完 |