無題迷話
弐章 第六話
ファゴッツから北上し、ヴァッサァマインで海路を求める事数日。一行は一向に船足を見つけられずにいた。
その最大の原因が後の【翼風諸島沖海戦】と言われる、大きな海戦が勃発する前兆だとは、その時の一行には全く分からなかった。
琥露はその両頬のヒゲで、海の方から何やら怪しい風が吹くのを感じていた。
猫連れの機奏英雄と言うのは珍しいのか、はたまた猫そのものが珍しいのか、どちらにせよ周囲の目を引いてしまう。己に自信の無い者達には、それはある種の拷問にも等しい。
琉都「…おい、琥露」
聞こえるか聞こえないかは別として、小声で肩の黒猫に話しかける。琥露は片目を開け、耳を傾ける──耳の毛が琉都の頬に当たった。
琉都「頼むから自分で歩いてくれよ」
琥露(嫌よ。面倒くさいんですもの)
猫らしい答えを返し、そしてまた目を瞑ってしまう。
六人と一匹は、港で船足を探す途中だった。
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ヴァレアインカウフェは、ザンドカイズほどに有名では無いにしても、紛れも無い港町である。しかし大抵の場合には、陸路の中継点や、補助的な海路の着点としかなり得ない。と言うのも、冬の間は海が凍るが、その点陸路ならばいつでもファゴッツへ行く事ができるためであろう。
氷上船が無いわけでは無い。しかも今は冬でも無い。だと言うのに海路の日和では無い、と言うのは明らかにおかしいはずである。
さすがに二日目の昼になると、一行の苛立ちも高まってきた。
昼食は昨日と同じ『海が見える喫茶』。その店は船乗りがよく屯するため、うかうかとしていれば喧嘩に巻き込まれる事もあるだろう。船乗りと言うのは血気盛んな者が多いからだ。
琥露(なんとなくだけど、嫌な所ね、ここって)
皿から猫舌でミルクを舐め取りながら、琥露は不平を呟いた──正確にはテレパスした。保存場所が悪かったのかパンから潮のにおいのするサンドイッチをほお張りながら、琉都は目だけで頷いて見せる。猫と話す機奏英雄とあっては、面目が立たないからだ。
最もその意見はソフィアも同じだったらしく、程なく異口同音に唱える。
ソフィア「なんとなくだけど、いやな所だね、ここって」
そう言って紅茶を啜り、その味はきちんと褒める。店主がこだわりをもって煎れたものらしい。
琉都「なら先に行けばいいだろ。ソフィアは陸海空汎用型の奏甲に乗ってるんだから」
ルィニア「ワタシが乗る場所が無いんだよ、フリューゲル・ヴァッサァには」
ソフィア「コクピットにセンサー機器を積みすぎなんだって」
ありがちな失敗である。そもそもそれほどに積み込めるスペースは無いはずなのだが、ソフィアが成人ほどにも身体が大きくないのを良い事に、ルィニアが興味を持った機器を全て取り付けてしまったのだろう。
汎用偵察機だな、とアルゼが呟いき、ルィニアは嬉しそうに肯いた。
ルィニア「怪我の功名、ってやつさね」
琉都「ちと違う気もするけど。じゃ、ソフィアだけ先に──」
ルィニア「不安で行かせられない!」
思わず大声になってしまったようだ。言ってから口を押さえ、済まなさそうに周囲を見ている。
琥露(それもそうよね。こんな小さい子を1人で海に放り出すなんて、琉都クンは何を思ったの?)
煩い、と呟き、琉都は何も聞かなかったかのように紅茶に口をつけた。
アルゼ「ところで、ふと思い出したんだが。砂で関節パーツが全部逝かれっちまっただろ?」
ルィニア「唐突だねぇ…。 確かにそうさね。下手をすれば新品を調達する方が早いかもしれない」
苦虫を噛んだような顔をしているアメルダを無視して、アルゼは話を続けた。やっと食べ終えた琉都は、同じくやっと飲み終えた琥露を抱き上げ、喉元を撫でてやっている。他の者は一足先に食べ始めていたため、少し前に食べ終えていた。
アルゼ「丁度いいじゃねえか。どっかの奏甲輸送船の護衛でもやって、一儲けして新調しようぜ」
アメルダ「サイレント・ソングは?」
アルゼ「お払い箱だな。あれはどうも俺と相性が悪いのか、運動性能がな」
ルィニア「そりゃあ歌術特化機体だからねぇ。当然ちゃあ当然さ」
だからこそ、とアルゼは熱のこもった弁を振るう。
アルゼ「オレは今度こそ、歌術と格闘と射撃のできる機体が欲しいわけだ」
琉都「…いいんじゃないの? 売ってれば、の話だけどな」
そう言って琉都は、琥露を無意識に手渡す。
琥露が激しく騒ぎ立てるので見れば、筋肉隆々のオネエサマが騒ぎ立てている黒猫──琥露を掴んで立っていた。
????「ここ、座っても?」
日に焼けて健康的な、造りの悪くない顔で豪快な微笑み(?)を浮かべる。その迫力に気圧されながらも、アルゼと琉都は少し退いて場所を譲った──己の宿縁に容赦無い睨むような視線を飛ばされる。
????「いやまさかここまで都合の良い話があるとはね」
そう言いながらオネエサマは、琥露をソフィアに渡した。かなり興奮している琥露を抱きしめるソフィア。
ルィニア「ちょっと待った。自己紹介も無しかい?」
体格差に気圧されつつ、一行の中で最も年長のルィニアが訊ねた。琉都とアルゼは己の宿縁に睨まれ動けそうに無く、ソフィアは琥露を抱いたまま怯えてしまっているからだ。
おっとしまった、と言う風に額を手の平で軽く叩き(布団叩きで叩かれるよりも痛そうだ、と思わざるを得ない威力だったが)、オネエサマはまた豪快な笑みを浮かべた。
????「わたしゃテオドラってんだ。この町出身の、北海の船乗りさ」
一行もそれに倣い、簡単に自己紹介をする。
ルィニア「で、その北海の船乗りのテオドラさんが何の用事だい?」
テオドラ「いや何。帰ろうかと思った所に、そこの機奏英雄が『船の護送でもやって』って言ったのが聞こえてね」
そこの、と言うのはアルゼの事らしい。自分でもそう言った記憶がある手前、この話はアルゼが断るのは無理そうな流れになった。
アメルダ「別に構わないけど、私達は高いわよ? 奏甲を動かしている以上はね」
テオドラ「承知の上さ。それに見た所、あんたら南方の生まれだろう?」
あんたら、と言うのは今度はアメルダとクゥリスの事らしい。ハルフェアは確かにアーカイアの南の端に位置する国家だ──ヴァッサァマインの人達から見れば大抵の国は南国だが。
アメルダ「えぇ、まぁそうよ。私とそこの子は、ハルフェアの生まれだわ」
テオドラ「ならもっと都合いいじゃないのさ。わたしゃ北海は得意なんだけど、ハルフェアほども南方に行くと、どうもバテちゃってね」
琉都「…船足GET、だな。 テオドラ。俺達はハルフェアに行くつもりだ」
やりぃ、ともう一回笑むテオドラ。豪快だがどこか人懐っこく見えるのは、その人のひととなりを表わしているのかもしれない。
テオドラ「なら善は急げ、ってね。もしよかったら、明日の朝はこの店で朝食を食べて。この店のオーナーとはちょっとした知り合いだから、わたしの名前を出せば割引にしてもらえるはずさ」
そう言うとテオドラは大金貨を一枚置いて、席を立とうとした。しかしその瞬間。
船乗りA「テオドラぁぁ!」
テオドラ「ゲ!やばい!」
船乗りB「さっさと借金をぉぉ!」
クゥリス「…借金?」
船乗りC「返さねえかこの馬鹿がぁぁ!」
三位一体とはこの事か。扉を開けた直後絶妙の間をもって、頬におそろいの刺青をしたガラの悪そうなアーカイア人船乗りが、一つのセリフを叫ぶ。
テオドラは多少うんざりしたような表情で、それを睨みつけた。
ソフィア「…ケンカになりそうだね」
ルィニア「そうだねぇ。店を出てしまおうか」
そう言って、言葉通りに素知らぬ振りをして出て行くソフィアとルィニア。琥露もソフィアの腕のなかから、猫手を器用に振っている。
アメルダ「わ、私も行くわ。宿で待ってるからね」
アルゼにそう言い残し、アメルダも逃げ出す。船乗りABCはテオドラを睨み付けるのに忙しいらしく、全く相手にもしなかった。
アルゼ「あンの薄情者…」
琉都「でも、正しい行動ではあるだろさ。アルゼの実力を全面的に認めているからこそ、ああやって逃げるわけだし」
そう言いながら、手ではクゥリスの背中を突ついて逃げるよう催促する琉都。しかし何を思ったか、クゥリスはそれを無視して、その場に突っ立っていた。
テオドラ「誰もあんたらに借りちゃいないって、言ってるだろう!」
船乗りA「誰がそんな嘘に乗せられるか!」
船乗りB「全くだ!」
船乗りC「そうやって今までも逃げてきたんだから!」
テオドラ「嘘はそっちだろ!」
船乗りA「誰が信じるかよ!」
ベギャっ、と鈍い音が店の中に響いた。その直後、テオドラが片頬を押さえながら立ち上がる。
テオドラ「ぁりやがったな…!」
ベギシッ、と先ほどの倍も痛い音をたて、船乗りAの頬にテオドラの拳が突き刺さる。
船乗りB「あ、姉貴!」
船乗りC「よくも姉貴を!」
拳を固めて立ち上がった船乗りBと船乗りCの目の前に立ちあがり、琉都は殴り掛かろうとするのを制した。そして今にも攻撃に移りそうなテオドラと船乗りAの間には、何故かクゥリスが割ってはいる。
船乗りB「ンだよ、このマセガキ!」
船乗りC「大人の話に首つっこむんじゃねえ!」
琉都「そうだな…店の中で暴れれば、その分金がかさむだろ」
船乗りB「あ゙?」
琉都「表に出ろ。俺も相手をしてやろう」
そう四人に言うと琉都は、少々後悔しているクゥリスの耳を引っ張りながら店の外へ出た。アルゼはリボルヴァーを両手に一つずつ弄び、暗にプレッシャーをかける。
仕方なく船乗り四人も、店の外に出た。
店外に出るや否や、四人は早速殴り合いを始めようとした。しかし流石に3対1では、どう見てもテオドラの方が不利である。
アルゼ「助太刀するぜ!」
リボリヴァーをクゥリスに預け、アルゼはその殴り合いの渦に飛び込んだ。しかしそれでも船乗りと言う筋力の必要な職の者には苦戦を強いられているらしく、まだどうみてもテオドラの方が分が悪い。
クゥリス「──っ」
琉都「クゥ。手をだすなよ、お前まで怪我されたら困る」
汎用ナイフを抜き放っていたクゥリスを手で制し、琉都は袍の袖から鎖やら金串やらを棄ててから、殴り合いの渦に身を投じた。これは殺し合いではなく、純粋に相手をねじ伏せるための、いわゆる『喧嘩』なのである。
時々赤いものが地面に飛び散るそれは、とっくにただの殴り合いの域を脱してしまっていたため、クゥリスはかなり呆気に取られてしまったが。
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翌朝5時。
昨日の殴り合いの傷が寒さでずくずくと疼くのか、テオドラは船乗りらしからぬオーバーコートを羽織って待っていた。背中には真紅で模様が描かれた、シンプルな両手槌を背負っている。
彼女の船は奏甲3機を積載するには多少小さいが、甲板に立たせておけば運べるはずだった。今までに一度だけ、奏甲のパーツを輸送した事もあった事からの確信である。
しばらく待つと、重低音が聞こえ始めた。全身板金甲冑がたてるカシャカシャと言う音をそのまま大きくしたようなそれは、絶対奏甲に特有のものでもある。
テオドラは、その口の端に僅かな邪笑を浮かべた。
水中の方が機動が良いのは、ブラオヴァッサァである以上仕方の無い事である。フリューゲル・ヴァッサァも陸海空の戦闘に対応しているにも関わらず、やはり海戦が最も得意であるようだった。
それは闘わずとも、水中で自由自在に動く様を見ていれば、大抵の者は予想する事ができた。
ソフィア『ねぇ、琉都兄ぃ。フリュヴァで船押したら、もっと早く動くかなぁ?』
琉都「逆風の時はそうかもな。俺に聞かれても帆船の事は良く知らないし」
ソフィア『あ、そ』
水中からフリューゲル・ヴァッサァが飛び上がり、羽を上手く使って甲板に着地させる。ソフィアのその手腕はプロでもなかなか真似できないだろう──最も、奏甲のプロなら自ら進んでは、ブラオヴァッサァに乗りたがらないのだが。
アルゼ「しっかし、暇だな〜」
口ではそう言いつつも、手はリボルヴァーを手入れしている。これはある種の手癖なのだろう。
アメルダ「そうよね〜。何がおきるでも無し、かと言って何かおきるのも嫌だわ」
ニトロとグリセリンの混合物を調合しつつ、しかし口ではそう言っている。言動不一致とはこの事だろうか。
琥露は琥露で猫の本能に任せ、船底で廿日鼠を追い回しているようだ。時々自慢げにテオドラに獲物を見せ、その度に苦笑しつつ撫でてくれるのを楽しんでいるようでもある。
クゥリスはと言うと、ずっと船室に篭りっぱなしであった。どうやら極度の船酔いにかかってしまったらしく、心地よい風が吹いている時以外はずっと寝込んでいた。その割には嘔吐症状が少なすぎるようであるが。
テオドラ「そんな所でくっちゃべってる暇があったら、船の帆をたたんどくれ! 小一時間くらいで少し時化が来るよ!」
そうテオドラが船尾にある操舵輪から叫ぶ。琉都は奏甲から降り、船に乗る前に言われていた所定の場所へついた。
誰とも無くかけ声をかけ、少しずつ素人なりに丁寧に帆をたたむ。風の具合が悪くなる前にたたみ終えられたのは、テオドラが玄人の船乗りでありかつ的確な指示ができる人だったからでもあろう。
帆をたたみ終えた後は、奏甲がとばされても困るため、鎖でしっかりと船体に縛り付ける。そう酷い時化は来ないだろうが、念には念を入れて、と言う意味でもあった。
ソフィアとルィニアは、船が横転しないようにフリューゲル・ヴァッサァで支える体制をとる。アルゼとアメルダもサイレント・ソングに乗り込むが、これには特に意味はない。琉都は琥露をひっ捉えに、船底へ下りて行った。
出航初日の夕方から、小規模ではあるものの激しい風雨に、テオドラの輸送船『青の騎士号』はさらされる事となるのであった。
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絶対奏甲の重みで大きくたわんでいる天井を見上げつつ、琉都は背もたれのある木の椅子に逆に腰掛け、何を考えるでもなく呆けていた。うつらうつらとはするものの、その度に何かしらの原因で目が覚めてしまうのである。
揺れで余計に船酔いが激しくなったため、同室に寝泊まりする事となっていたクゥリスは、アメルダが親切心から紡いでくれた歌術の効果で安らかな寝息をたてている。ルィニアとソフィアはあまりに大きな揺れを防ぐため、荒れた海に数時間ほど前からフリューゲル・ヴァッサァで潜っていた。
琥露鬼は誰も来ないだろうと予測してか、猫ではなく獣人の姿をとっている。そして猫──琥露の時には欠片さえ無かった落ち付きで、琉都とクゥリスを生暖かい微笑みと共に眺めていた。
急にクゥリスの顔を、椅子に座ったまま覗き込む琉都。そしてしばらく眺めていた後、何かを払拭するかのように頭を振った。
琉都「…琥露鬼」
琥露鬼「何かしら?」
琉都「やっぱ寝顔ってのは、誰でも可愛いもんなのかな?」
赤面しつつそう質問する琉都。
琥露鬼「そうね…。憎たらしい寝顔の人もいるけど、やっぱり可愛い物よ」
そう答え琥露鬼は、ふふ、と笑った。そして思い出したように、琉都クンのも可愛いわよ、と付け加える。琉都はそれを取り合えず否定してから、椅子の背もたれにあごを乗せた。
琉都「そうか…。今までずっとこの寝顔を見るたびに、可愛いなァ、と思ってたんだけど、それで普通だったのか」
琥露鬼「そうやって本人に言った事はあるの?」
そう、琥露鬼は面白半分にか、口に笑みを浮かべて訊ねる。
琉都「いや、無い。ってか言えるわけが無いだろ、そんな気障なセリフ」
先ほどよりも昇気しつつ、琉都は懸命に否定した。
琥露鬼「あら、そう?」
琉都「もし言うとしたら、二人きりの部屋で、俺だけが起きてる時に…って何言わせるんだ!」
琥露鬼「本心」
琉都「俺はそう言う事はしない!」
小首を傾げる琥露鬼。
琥露鬼「何故?」
琉都「俺なんかに好かれても、困るだけだ。…何か間違っているか?」
苦しそうに言い切る琉都の頭を、琥露鬼はそっと胸に抱きしめた。いきなりの行動に驚く琉都の頭を、母親が子供をあやすように軽く撫でる。
琥露鬼「…辛かったのね。最近まで誰も好きになれず、誰にも好きになってもらえなくて」
琉都は何か反論したようだったが、豊満な谷間でくぐもってしまう。琥露鬼は全く気にせず続けた。
琥露鬼「大丈夫よ。だって琉都クンは、宿縁に恵まれたもの。それに仲間にも。 それってつまり、ええと、それだけの人達に好いてもらえたんでしょ?」
反論しても無駄だと悟ったか、琉都はおとなしく聞いている。その間にも琥露鬼は頭を撫で続けていた。
琥露鬼「言葉にしたりして認めるのが怖いだけで、琉都クンも皆の事が好きなのよ。猫の姿で見ていて、よくわかるわ。……見ていてわかるくらいに不器用だけど」
ほっとけ、と1人愚痴る琉都。
琥露鬼「だから素直になったら? ね?」
そう言ってやっと、琥露鬼は琉都を解放した。耳まで赤いと言ってもおかしくないほど琉都が赤面しているのは、琥露鬼の胸部がかなり豊かであったためだけではない。己の気持ちに気付かされれば、誰でも何らかの感情が表に現れるものだ。
琉都「…わかった…。 それと──」
琥露鬼「?」
琉都「子供みたいな、と思われるかもしれないけど、母親に諭されている気分だった」
そう言うと、大分照れ隠しに琉都は笑顔をつくった。
確かに琥露鬼は、母性とでも言うべきものが、多分に感じられる女性であった。と同時に、かなり妖艶な女性でもあった。
琥露鬼「じゃ、もう一言。琉都クンとはまだ少しの間しか付き合ってないけど、私は琉都クンの事が好きよ──別に恋愛感情は無いわ」
そう言って琥露鬼は、巨大な人懐っこい猫のように笑った。
琉都「ありがと、琥露鬼」
琥露鬼「母親だもの。我が子が可愛くなくて誰が可愛いの?」
しかし琥露鬼の耳は、それが嘘だと馬鹿正直に表わしている。いつもの事だが、琥露鬼の大きな黒いネコミミは、彼女の心を直に表わしているようであった。
だが、琉都はそれに気付けなかった。
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出航してから6日めの事だ。翼風諸島を超えたらわたしの海じゃあないからね、とテオドラが言っていたが、それは本当だったようだった。
翼風諸島の影が見えるや否やテオドラは海図と方位磁針を取り出し、それだけで済めばいいが果てには航海術の本まで引っ張り出してくる。それほどまでに南海での航海が苦手なのか、もしくはただ単にやってみたかったのかはわからない。
しかしこの時期、その海域に入るのはどうやらあまりよくないようであった。
翼風諸島が遠ざかるのを見つつ、琉都は何かをぼんやりと考えていた。それが何なのかは、ひょっとしたらクゥリスは別かもしれないが、琥露にしかわからない。
と、その時である。幾つかの奏甲の機影が、『青の騎士号』の下を通りすぎて行った。海で泳げる絶対奏甲の機種は極めて少ないが、改修次第では汎用機も海戦仕様にはできる。しかしどうみてもそれはブラオヴァッサァであった。
ソフィア「わぁい、お魚さんがいっぱいだぁ〜」
ルィニア「本当だねぇ」
琉都「…嬉しくなさそうなのは気のせいか?」
ソフィアは見た目ははしゃいでいるものの、表情は深刻そのものだった。狙撃手のカンとでも言うものなのだろう、ソフィアは確固たるある事柄を予測していたのだ。
ソフィア「じゃ、わたしもフリュヴァで泳ご〜っと。ルィ姉、ライフルはどこ?」
ふざけ半分のように見えるが、目だけはかなり本気である。ルィニアは己の宿縁のその無意識の威圧感に、かなり気圧されてしまった。
ルィニア「え?あ、あぁ。そこの甲板の片隅に、纏めて置いてあるはずだよ」
ソフィア「ん、わかった」
頷いてソフィアは、先ほどのブラオ編隊のせいで揺れている甲板を、かなりの速さで走って行った。ルィニアはわけのわからぬままそれを追い、甲板を走って行ってしまった。
なんだかなぁ、と琉都は呟く。琥露はその側に座り、その碧色の瞳で琉都をじっと見上げていた。
その夕方の事だ。
前方に一触即発の雰囲気で佇む船団と、ブラオヴァッサァの軍団を発見したのは。フリューゲル・ヴァッサァがその存在を報せてくれなければ、『青の騎士号』はブラオ軍団のド真ん中を横切っていたかもしれない。
船団は100隻ほどの『青の騎士号』とほとんど同じ大きさの輸送船に、それぞれが2機か3機の絶対奏甲を載せている。ほとんどが非海戦仕様である事は、テオドラにでもすぐにわかった。
ブラオ軍団の方は、各々が得物として三つ又の槍を持っている他は、ヴァッサァカノンくらいしか武装らしい武装は無い。とは言え十分な水圧を加えて発射するヴァッサァカノンは、当たり所が悪ければ船舶を一撃で沈める事も可能。弾数制限がかからないと言う点では、これ以上に経済的な兵器は珍しいだろう。
アルゼ「…こりゃあかなりやべぇな。 アメルダ、戦闘起動できるようスタンバっててくれ」
アメルダ「とっくにしてるわよ。でもサイレント・ソングは白兵攻撃はもう無理だから、気をつけてね」
言葉を交わすも、海戦では大した戦果は期待できない。それはもう言わずともわかっている事だった。と言っても、何もせず沈められるなどもっての外、この船を護るつもりでいるらしい。アルゼもアメルダも、いつもと同じように、力を入れすぎず抜きすぎず構えていた。
琉都は琥露を抱え上げ、クゥリスがいる船室へと飛び込んだ。着替え中だとか言うベタな展開も多少期待していたかもしれないのは悲しい性だが、半分以上は本気である。個人武装が役に立たないのは十分に知っていたし、それ以上に今は奏甲が役に立たないのも知っていた──クゥリスは今寝込まなければならない状況だからだ。
しかし、その思惑もかなり外れてしまう。着替え中だったらしく、クゥリスは上半身下着(ブラではなくタンクトップだ)のみの姿で立っていた。何が起きたのか一瞬理解できなかったらしく、しばし固まるが、フリーズが解除されると同時にノイズ級の物凄い悲鳴をあげる。琉都は何かを投げつけたりされるよりも早く、琥露を抱いたままに船室を飛び出した。
琥露(ま、目の保養と思いなさいな)
そうテレパスしてきた琥露の頭を軽く叩き、琉都はある事に気付く。
琉都「…琥露。さっきのクゥの肩のアレって──」
琥露(気付いちゃったのね。黙ってて、って頼まれたんだけど)
琉都「…」
琥露(歌術なんですって。奏甲の傷を身代わりできるそうよ)
そうか、と呟いておきながら、琉都の脳裏には先ほどのクゥリスの姿が焼き付いていた。肩の痛々しい傷は、大抵の者は見てしまえば忘れられそうに無い。
琉都「俺のせいでクゥが……っ」
何に対してかは琥露にはわからなかったが、琉都は歯ぎしりの音がするほどに奥歯を噛み締めた。そして、何て事だ、と篭手で護られている自らの拳を何度も壁に叩き付け、それでも足りないのか頭を壁にぶつけた。三眼族の頭蓋と言うのはどうも同じ体積であれば人間のそれより強固らしく、ひたいが割れるよりも早く壁の方が凹んでいる。
琥露はどこかうんざりしたような表情で、琉都の顔を見上げた。と、ヒゲに何か生暖かい滴が落ちたのを感じる。俺のせいで、と何度か頭をぶつけていたが、だんだんとぶつける間隔が開き、最後には壁に頭を預けたまま止まってしまった。
琥露(琉都クン…)
琉都「琥露。俺は…今までクゥのために何かした事って、無いんだよ…。なのにクゥは……」
琥露(気にする事じゃないわ)
猫の肉球で琉都の頬に触る。
琥露(だって、それが琉都クンとクゥリスちゃんの、あり方だったんですもの。大丈夫──)
琉都「な訳が無いだろ!」
怒鳴る琉都。琥露はその声に一瞬竦み上がり、声の主はすぐに謝罪した。
琉都「…俺は、どうすれば…」
琥露(私に聞かれても。その答えは、クゥリスちゃんにしか、教えてもらえないわ)
でもなぁ、と呟くように琉都が言うとほぼ同時に、船室の扉が勢い良く──到底半病人ができそうはない勢いで開いた。そしてもはや怒りなのか悲しみなのか喜びなのかエトセトラエトセトラ…でもう何が何なのかよくわからない表情の、船酔いでダウンしていたはずのクゥリスが出てきた。
琥露を足下に降ろし、その視線を直に受け止めないよう視線を外しつつ、琉都はそちらを向いた。
クゥリス「何の用でした?」
声の調子を聞く限りでは、どうやら怒っている感情が一番強いようだ。顔には笑顔の影すら無い。
琉都「甲板に出ればわかるさ」
視線を合わせないまま、琉都は言葉少なに答える。
と、そう答えた時。船が今までに無い大きな揺れかたをし、床が45度くらい傾いたように感じられた。そして、どぉぉ…ん、と言う重い衝撃音がし、再び元の状態に戻る。
クゥリス「…また嵐ですか?」
琉都「いや。ブラオヴァッサァ編隊が近くで海戦しようと。 それはそうと、大丈夫だったか?」
船酔いをしていたから寝込んでいたと言う事から、先ほどの揺れで気分が悪くなっていないか気を使ったのだろう。
クゥリス「大丈夫ですよ。こけたりもしてませんし」
琉都「船酔いは?」
クゥリス「最初から平気でした」
本当にそうらしく、揺れても動いても辛くはなさそうだ。どちらかと言えば琉都の方が足下が危なっかしいくらいである。
琉都「あ、そう。…楽しかったか?」
騙されたと心の何処かに憤りを感じたが、琉都はそれを億尾にも出さずに、そう訊ねた。
クゥリス「……まぁ…それなりに…」
琉都「そうか」
そう言うと琉都は、クゥリスの側を通り、船室に入った。琥露が足に絡み付くようにくっついて歩くのが少し気に食わなかったようで、多少乱暴に足の腹で琥露を少し遠くに押しやる。
琥露(…怒ってるのね?)
煩い、と琉都は呟き椅子に腰掛けた。そして両手をおろしその拳を握りしめて立っているクゥリスを手で招く。
一瞬どうすべきか迷ったようだったが、クゥリスはそれに従って船室に入ってきた。そしてもう一つだけ用意されていた椅子に、琉都に向かい合うような形で腰掛ける。
琥露はその間に猫らしく座り込んだ。一つのソードラインだな、と琉都は思ってしまった。
クゥリス「戦闘の手伝いには行かないんですか?」
やはりまだ機嫌斜めのような声で、クゥリスは訊ねた。琉都は首を横に振り、それを否定する。
琉都「行っても役に立てないからな。奏甲技師曰、ハイリガー・クロイツは陸戦専用だそうだ」
クゥリス「そうでしたか」
多少は納得したようにそう言う。
琉都は背を椅子に預け、偉ぶっていそうには見えないように気をつけながら腕を組む。
琉都「それに、その、アレだ。その──」
そこまで言っておきながら、琉都は視線だけではなく顔を一度逸らした。そしてしばらく黙った後で、今度はクゥリスの顔を直視する。
琉都「──いろいろと困るからな。また勝手な事されたりでもしたら」
クゥリス「いろいろ…ですか?」
本気でわからない、と言った調子で訊ねるクゥリス。琉都はその答えを直接口に出そうとはしなかったが、ごにょごにょと誤魔化すような事を言っている。
だがやはりこういう場面では、強気な者が勝つ。
クゥリス「いろいろ、って何の事ですか?」
ぐい、と顔を近づける。
観念したのか、琉都は小さな声で
琉都「俺のせいでクゥが傷ついたりされると…」
と言った。
クゥリス「…よく聞こえなかったんですけど?」
困ったような声の調子で聞き返すクゥリス。琉都は一度言ってしまった手前、引っ込みが効かなくなってしまっていた。
琉都「俺が未熟なせいで、クゥが傷ついたりすると、悲しくて、悔しくて、困るんだよ!」
一息に言い切り、大きく呼吸する。足下で琥露が動いた気配がしたが、視線をクゥリスから外そうとしない。真っ直ぐにその大きな瞳を見つめる。
茶色だけど時々金色になるんだな、とそんな事を琉都は思った。事実クゥリスの瞳の色は一風変わっており、基本的に茶色だが光の反射具合では金にも見える。
クゥリス「琉都さん…」
琉都「ん?」
クゥリス「それは私も同じなんです。歌術だって師匠に習ったっきりだし、織歌を織るのも実はまだ慣れてなくて。だから、その、えっと…」
琉都「俺が傷つくのが嫌だったから、歌術で奏甲の傷を肩代わりした?」
こくり、とクゥリスは頷いた。その表情は先ほどまでとは違い、いつもの光の欠片も無い。
琉都も暫しは表情が暗いままだったが、時間が経つにつれて明るさを取り戻して行った。そして最後には、それなりに明るい表情で、手を打って1人うなずく。
琉都「クゥ」
クゥリス「はい」
返事をしてから、琉都は何かを躊躇うように少し時間を開けた。
琉都「確かに歌もまだまだだと思う」
かなり酷い一言。
元々しょげていた所に、さらに鬱になる言葉が投げかけられたのだ。これで元気になるはずもないだろう。
クゥリス「そんな──」
琉都「クゥはまだまだ上手くなると思う、って意味だけだ」
クゥリス「へ?」
琉都「ハルフェアに帰ったら、二、三日山篭りしないか。俺も修行をしないといけないから、一緒にさ」
思わぬ言葉だったのか、クゥリスは動きを止めた。その時丁度船が大きく揺れ、ぎしぎしと嫌な軋み音がする。
そしてその直後、クゥリスが何か言おうとした瞬間、船は一回転したかと思われるほどの大揺れにみまわれた。誰も座っていない椅子やインク瓶などと言った、軽くも無く重くも無い微妙な重量の物質が、船室の中を縦横無尽に飛び交う。
船室備品が床に落ちてガラクタになる音が響き、それでも少しの間は琉都もクゥリスも固まったまま動かない。何が起きたのか無意識が受け入れてやっと、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
クゥリス「本当に、まだ上手くなれると思っているんですね?」
琉都「違ったか? 俺はクゥの歌、まだ上手くなると、思っているんだが」
違わない、と頭を横に振るクゥリス。確信は無いが自信はある表情だ。
琉都は少しだけ満足げに頷いた。そして唐突に船室を出て、甲板へと向かう。
クゥリスもそれを追うように船室を出、甲板へと向かった。
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何を間違えたのか、非戦闘旗を掲げているにも関わらず、ブラオヴァッサァが砲撃してくる。サイレント・ソングに乗るアルゼはガンナーズハイになっているのか、迎撃可能な弾丸は尽く撃ち落としていた。
しかしヴァッサァカノンと名の付けられている水噴砲は、高圧力をかけた海水を発射する兵器のため、迎撃は不可能らしい。テオドラが素早く操舵し、ソフィアがフリューゲル・ヴァッサァで推力を与える事で、辛うじて回避しているに過ぎなかった。
琉都「アルゼ!」
奏甲にも乗らず、肉声で呼びかける。
アルゼ『やっと来たかよ、遅いぜ!』
外部対話装置から怒鳴り声が聞こえた。
琉都「何か手伝えるか?」
アルゼ『何も無い! 邪魔にならなければいいだけだぜ!』
琉都はそれを無視して、ハイリガー・クロイツに乗り込む。クゥリスもそれに続いて乗り込み、最後にエヴィル・クロイツと戦闘した時には琥露が収まっていた場所へ収まった。
琉都「クゥ。しつこいようだけど、肩代わりはするなよ」
クゥリス「琉都さんこそ、無茶はしないでくださいね」
ああ、と手短に応え、起動準備に入る。
織歌が構成され始め、幻糸炉へと織られた幻糸が送り込まれる。それに呼応するように、ハイリガー・クロイツの目に僅かに光が宿る。
まるで柔縄を引き千切るかのごとく鎖を千切り、ハイリガー・クロイツは立ち上がった。仁王立ちにブラオヴァッサァを睨む目は、戦意を宿してはいない。琉都がその気が無いからなのだろう。
ブラオヴァッサァの肩に取り付けられたヴァッサァカノンが水をチャージするため、海水を飲み干すように吸い込み始めた。対するハイリガー・クロイツは、特に何ら構える事も無い。
琉都「…そう言えば、この間の砂漠。あれで開封された機能って何だろうな?」
クゥリス『そんな呑気な…』
琉都「大真面目さ。この場面を乗り越えられるかどうかは、別としてな」
ヴァッサァカノンがチャージを終えたらしく、ブラオヴァッサァの一機がその砲門を『青の騎士号』に向けた。しかしそれが発射されるよりも早く、ハイリガー・クロイツが飛び移って機体を海中に沈める。飛び石を跳ぶかのごとく次々とブラオヴァッサァを海中に沈め、ハイリガー・クロイツはもう一度『青の騎士号』に戻った。
踏み台にされたブラオヴァッサァの機奏英雄達は頭に来たのだろう、船ではなくハイリガー・クロイツへ直に砲門を向けた。
クゥリス『琉都さん!?』
混乱したような思念で問い掛けるクゥリス。しかしそれを待っていたかのように、琉都はにやりとした。
琉都「これでいいんだよ、クゥ。船を沈められるよりはマシさ」
ハイリガー・クロイツにフィールドジェネレータの準備をさせる。クゥリスも琉都が何を思ったか察し、織歌を織る声に力を込めた。
フィールドジェネレータを両手で持ち、なるべく前へと突き出す。しかしジェネレータは吽とも寸とも言わない。
アルゼ『…何やってんだ?』
呆れたかのようなアルゼの声で、フィールドが発生していない事に琉都はやっと気付いた。
琉都「何って…お祈り、じゃないかと」
アルゼ『祈ってる暇があるなら撃退する手伝いをしろ、バカ!』
ゴィン、とサイレント・ソングがハイリガー・クロイツの頭を叩く。
琉都「そうは言われてもな…」
アルゼ『祈るよりも気合を入れろ! そのジェネレータで何かしようと思うのはわかったからな!』
サイレント・ソングが雷炎を纏っていない弾丸をヴァッサァカノンの銃口へ叩き込む。元々内圧の高かった所へ弾丸が撃ち込まれたためか、砲が爆発して腕がもぎ取られた。
琉都「さて、どうしたものかな」
クゥリス『考えてないで動いて下さいよ。本当に』
うぐっ、と言葉に詰まり、もう一度飛び石のようにブラオヴァッサァを跳び移ろうかと思った途端、意外な所から声が届いた。
琥露(琉都クン)
何事かとコクピット内を目で探す。クゥリスにも聞こえていたらしく、歌うのは止めずにきょろきょろと見回していた。
琥露(ここよ、ここ)
クゥリス『うわっ!?』
にゃっ、と一声。琥露はクゥリスの肩に乗り、そこでくつろいでいたらしい。秘密保持のために通信をシャットアウトする。
琉都「…何時の間に?」
琥露(さっきからずっとよ。 それよりも、クゥリスちゃん)
クゥリス『はい?』
琥露(ホロディスプレイ377を表示して。 琉都クン、キィボードを)
奏座の左右に浮かんでいたホロキィボードを後ろへ押しやり、琉都はハイリガー・クロイツを操る事にまた集中する。
ヴァッサァカノンを発射しそうな機体を選びつつ、もう一度飛び石をするためだ。フィールドジェネレータを肩に戻した。
クゥリスはどうやればホロディスプレイを表示したり操作したりできるのかわからないらしく、宙に浮かび淡い青緑色に光っているホロキィボードを見て困惑するばかりだ。
琥露(…いいわ。今から言うとおりに押して頂戴。まず──)
クゥリスは指示されたとおりに、恐る恐るホロキィボードを人差し指で押してゆく。指示内容はアケインルーン(アーカイア魔法文字)なのか、琉都にはよくわからないがクゥリスにはわかっているようだった。
琉都「ところで、377ディスプレイは何を表示するんだ?」
跳び移れる範囲に居る機体に跳び移りつつ、舌をかまない程度に気を付けて訊ねる。
琥露(機体組成歌術術式と機能制御歌術術式よ。現世風に言えばプログラムソースね)
まるで現世のコンピュータの存在を知っていたかの如く、間違えないようゆっくりとだが答えた。
琉都「で、プログラムソースなんか表示してどーするんだ? っと」
突き出された槍の穂先を避けて跳躍し、『青の騎士号』を経由してまた別の機体へ跳び移る。
琥露(術式の具合を調べるのよ。そろそろ“審判”が成長着床段階のはずなんだけど…。 あ、377が表示されたわ)
琉都「ちょっと待った。 審判ってどんな機能なんだよ?」
射撃では不利と判断したのか、次々と海中から繰り出される得物を避けつつ、水面に出た機体を跳び移り続けている。だがもう質問にも答えられないほど忙しいのか、琥露はクゥリスに的確かつ単純に指示を与え続けていた。
琉都は『青の騎士号』に一度戻るため、握斧を握ったブラオヴァッサァを踏もうとした。
だがもう何度も踏まれていたそのブラオヴァッサァは、タイミングを外して海中へ潜る。足場を失ってしまったハイリガー・クロイツは、それにつられるように海中へと沈む事になった。
フィールドジェネレータが作動しているのが幸いしたか、辛うじて表面がぶるぶると不安定に揺れる水泡に包まれる形になる。しかしそれでも潜っていられる時間は限られており、それ以上にヴァッサァカノンは到底防げそうにはない。
琥露(あったわ。これを実行して)
琉都「何が実行されるんだ?」
八方どころか上下も加えた三十二方に注意を払いつつ、手短に訊ねる。
クゥリス『“審判”が起動するそうです』
琉都「どんな効果だ?」
琥露(わからないわ。今までに見たことの無い歌術組成──三次元的だったんだもの)
三次元的な歌術組成、と呟く琉都。
クゥリスも自分が歌術を織れるにも関わらず、イマイチよく飲み込めていないようであった。しかし琥露に教えられた通り、起動コマンドをキィボードから入力して行く。
しかしその時、不安定に揺れる水泡の表面に、ヴァッサァカノンを構えたブラオヴァッサァの姿が映った。
琉都「くっ…水面に出れば──」
クゥリス『琉都さん。“審判”が起動します!』
琉都「え、ちょ、ま、待てっ!? まだ水面に出てないぞ!」
琥露(…関係ないわ。クゥリスちゃん、起動しちゃって)
一瞬どうすべきか迷ったようだったが、クゥリスは右の人差し指でホロキィボードの右端にあるキィを押した。
と、その瞬間。フィールドジェネレータだけではなく、機体から発生しているクロイツフィールドまでもが機能停止する。これ幸いと琉都は必死でハイリガー・クロイツを泳がせた。
水面に出る直前、一際大きなホロディスプレイが、琉都の視界を遮る。しかしそれを無視して、琉都は水面へとハイリガー・クロイツの頭を海面へと出す。
琥露(起動まで後30秒よ。機体が安定できる状態を──)
琉都「作れるかよ! 今、海中──」
言い終わるか終わらないかに、下から突き上げるような衝撃が、三人(正確には二人と一匹)を襲った。そしてそれに続いて、エレベータが降りるのを止めた時のような感覚。
その二つが過ぎた時、ハイリガー・クロイツは『青の騎士号』に降り立っていた。戦闘起動を解除したサイレント・ソングが立っており、その足下にはアメルダが怒ったような表情で立っている。
琥露(──これで大丈夫でしょ? 後20秒)
琉都「問答無用だな」
困惑したままの表情で、琉都は聞こえるように呟いた。そして何かを言われないうちに、ハイリガー・クロイツの両足を甲板で踏ん張らせる。
ブラオヴァッサァが海面から顔を出し始めるのを見つつ、琉都とクゥリスは琥露のカウントダウンを聞いていた。
琥露(15……10……5秒前──)
琉都「鬼が出るか蛇が出るか。自爆機能じゃないといいけどな」
クゥリス『冗談でも止めて下さいよ!』
琥露(2…1…起動!)
グオン、と幻糸炉が力強く咆える。まるで内から沸き上がる力に耐えるために、気合でどうにかしようとしているようにも思えた。
そしてそれに対応するかのように、クゥリスの織る歌も力強くなって行く。だが琉都が振り返って見たクゥリスの表情は、苦悶そのものであった。
琉都「クゥ! 大丈夫か!?」
クゥリス『大丈夫……多分……。苦しいですけど………』
過激な幻糸炉の作動で、周囲の幻糸濃度が数分の一まで激減する。そしてそれに比例するかのように、幻糸炉が発生させるエネルギー量は増えて行った。それを琉都が知り得たのは、三眼に投影されるステータスモニターのお陰である。
琥露(幻糸炉が織歌を手繰り寄せてるのよ、きっと。だから無理矢理に幻糸を紡ぐために、首飾りが呼応してるんだわ)
琉都「つまるところ、どういう事だ?」
琥露は猫らしからぬ、神妙な顔つきで宣言した。
琥露(幻糸炉がクゥリスちゃんを拘束して、意思に関係無く歌わざるをえなくしてる)
幻糸炉から発生するエネルギー量が限界に達すると同時に、上空の空間が蟲が現れる時のように歪んだ。そしてそこから、一本の筒が生える。
琉都「何だこりゃぁ…」
琥露(幻糸炉の臨界運転で発生したエネルギーを、空間開封にあてたのね、きっと。それで元々この機体に付与されていた歌術で構成されていた亜空間とこの空間を結合させて、格納されていた何かを呼び出すんだわ)
そこまで詳細に語られては、琉都は信じざるを得なかった。事実クゥリスは意思に関係なく、苦悶の表情を浮かべながらも歌わされている。しかしこれ以上どうすべきか、琉都にはわからない。琥露もそれは同じらしく、琉都がどうするのかを見ていた。
その筒を見て、琉都はある事に気付いた。それは、その筒がかなりの幅を持った縦長の穴を有している事で、丁度何か刃物を差し込むのに適していそうだと言う事である。
琉都はハイリガー・クロイツにカタナを抜き放たせると、その裂け目にも見えなくも無い穴へ差し込んだ。
一瞬間があり、そして激しい光が放たれる。
琉都「うわぁぁぁぁっっ!?」
思わず目を閉じてしまったが、それが琉都にとって良い事だったのか、悪い事だったのかはわからない。だがその光は閃光に過ぎず、一秒にも満たない時間で元に戻った。
琥露(凄い…物質の形状変化だけなら見た事もあるけど、存在力強化までしてしまうのは初めて見たわ!)
閃光で瞳孔が針のように細くなった目を細め、琥露はメインモニタに表示されている光景に見入った。少しして琉都も恐る恐る目を開き、カタナの遂げた変貌を見る。
琉都「…嘘だろ?」
クゥリスも歌術の強制が解除されたらしく、ブレスの数が多いものの歌を途切れさせる事無く、その元カタナだった剣を見やった。
クゥリス『これが…審判?』
“審判”に差し出されたカタナは、元の姿を失っていた。
幅の広い長剣の姿のそれは、柄の石突から切先まで、全て灰銀色の輝きを放っている。
そして石突と鍔元、そして切先に近い剣身の三個所に埋め込まれた血のように赤い宝玉は、まるで心臓のように定期的に明滅している。
明滅に合わせて剣身にくまなく走っている、そして三つの宝玉も結んでいる、直線で構成された赤い筋を光が走る様は、まるで剣が生物であり脈動しているような錯覚すら与えた。
琥露(使用可能な時間にはリミットがあるみたいね。早くやっちゃいましょ)
琉都もクゥリスも、琥露にそう言われ、やっと脈動から目を離す事ができた。それほどまでに不可思議な印象を与えたのである。
ハイリガー・クロイツがゆっくりと、その“裁きの剣”を掲げた。
琉都「っく…!?」
クゥリス『きゃっ!?』
ただ掲げただけで、持っている者達にすら重圧が与えられる。クロイツフィールドが回復していれば防げたかもしれないが、不幸にもと言うべきか、まだ機能が再起動していないようだった。
動きが急に緩慢になった事を良い事に、次々とブラオヴァッサァ達がヴァッサァカノンを発射する。
琉都「く……ぉぉおおおおお!!」
気合と共に、琉都はハイリガー・クロイツに“裁きの剣”を横薙ぎに振るわせた。
強大な存在力を秘めた“裁きの剣”は、その切先だけでなく刃全てから幻糸光の閃光を発し、それを飛ばした。その光は薄くなった幻糸の衝撃波であったため、幻糸兵器であるヴァッサァカノンが放った水硬弾を軽々と消滅させ、そしてブラオヴァッサァ達の後ろ側の海をごっそり沸騰させる。
その場に居た全員が、しばし呆然となる。
一分ほど阿呆のように呆けた後、ブラオヴァッサァの機奏英雄達が正気に戻ったのか、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
琉都「これが、“審判”…」
ただその過ぎた力に、琉都は呆然と呟くのみであった。
数分後、『青の騎士号』はどうにか戦闘区域を離れた。だが、アメルダとルィニアは、ハイリガー・クロイツの中でノビていた琉都とクゥリスの世話に、戦闘時よりも忙しい働きを要求される事になってしまったが。