無題迷話
弐章 第七話 上





 ノルデハフェンシュタット。“元”シュピルドーゼ海軍母港でもある、アーカイア主要港の一つ。


 テオドラは自称「南の海には詳しくない。」北海の船乗りであったためか、わざわざシュピルドーゼをほぼ3/4周するようなコースをとるようだった。そのためにも物資の補給を行いたいのか、船乗り援助ギルドに要請して様々な物を買い込んでいる。
 ただの羅針盤兼同乗者として乗り込んでいた6人と1匹は、補給が終わる4日後まで町で待つよう言われていた。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 夕食時までは何事も無く、ただのんびりと過ごす事ができた。
 いや、何事も無くと言ってしまえば全くの嘘かもしれない。アルゼは爆風による裂傷だらけになってアメルダと帰ってきたのだし、ルィニアはソフィアが呆れるほどに財布の中身を無駄遣いしてしまっていたからだ。
 琉都は何もする気がなかったのか屋根によじ登って琥露を撫でながら空を見上げていたし、クゥリスは歌術発声訓練を延々と続けていたので、この二人と1匹だけが本当に『のんびり』できていたようにも思える。
 そうしている内に1日目は終わろうとして今、一行の前には味よりも量を重視したであろうような料理が運ばれつつあった。
 海鮮料理には違いないだろうが、創作料理のようである。海老の尾や貝殻が所々から飛び出しているのがやたら目に付く。スパイシーな香りが食欲をそそるが、見た目で一瞬フォークを突き立てるのを躊躇ってしまう。メニューには『今日のおすすめ』としか記されていなかったのだが。
アルゼ  「…一体何なんだこりゃ…」
 ぽそり、と呟き、フォークで軽くつつく。
ソフィア 「これ、食べれるのかなぁ…」
 もしそうだとしても、と言った表情で呟く。
 そして、現世生まれだけでなくアーカイア生まれの者達までもが、良く意味のわからない視線を琉都へと向けた。
琉都   「……何を期待してるんだ?」
 軽くため息をつき、そう訊ねた。それなりに食べる気だったのか、小さな一口大のその料理の欠片が皿の一辺にすでに作ってある。
アルゼ  「あ、いや。中国人ってのは好き嫌いが極端に少ない、って言うのを思い出してな。」
ソフィア 「日本人も『潜水艦以外の海の物なら何でも食べる』って言われるくらいだし。」
 全く根拠の無い言葉を引っ張り出し、そして視線を向ける。
 つまりは、最初に食べて毒味をしてくれ、と言う事なのだろう。もっとも、毒味と言えるほど大層なものなのかどうかは別として。
琉都   「そんな事、本気で信じてるのか?」
 首を縦に振る二人。
 すでに目が「さあ早く逝っちゃってくださいな!」と言わんばかりに促している。
 琉都は助けを求め、アーカイア生まれの三人に視線を向けてみる。しかしアメルダとルィニアはそんなものなのかと思っているようだったし、クゥリスは琉都がいつ苦しみ出しても良いように歌術体勢を整えてしまっていた。
琉都   「…そこまで酷いか…?」
ソフィア 「絶対に!食べたくないくらい酷い。」
アルゼ  「と言う訳で、さぁ喰え。温かいうちが美味いぜ?」
 そう言うなら自分が食えばいいだろうが、と思いながらも、琉都はそれをフォークで持ち上げる。
 スパイシーな香りが鼻腔をくすぐり、唾液腺が刺激される。
 いろいろな意味で覚悟を決め、琉都はそれを口に放り込んだ。
ソフィア 「…大丈夫?」
琉都   「………美味い。」
 本当かどうか微妙な間をもって、それだけ言うと琉都はコップの水を一気に飲み干した。
アルゼ  「マジで?」
琉都   「辛味がかなりキツイけどな。鷹の爪とかがかなり効いてる。」
クゥリス 「鷹の爪…?」
ルィニア 「唐辛子の一種だったと思ったよ。多分だけどね。」
 へぇ、と呟くクゥリスの隣で、琉都はまたそれを口にし始めた。辛いものは休みながら食べるとキツいので、休憩無しに一気にかきこむ。
 まともに味も確かめずに胃袋に詰め込み、喉が熱っぽく感じられるようになっても水を飲まず、ある種の我慢大会の様相を感じさせる勢いで食べ続ける。
 と、その時だ。階下がにわかに騒がしくなった(ちなみに一行が泊っているのは、1階がエントランス、2階が食事処、3階以降が宿泊施設で4階建ての立派な宿だった)。何人かの客が何事かと階段から階下を覗き見ようとしていたが、階段は途中で折れ曲がっていたため何が起きているかよくわからないようだ。
 それでも野次馬逞しい誰かが階下へ下りて行ったようだ。程なく絹を割くような、と言うには程遠い男の声だが、悲鳴が聞こえた。
 ルィニアはある程度気になっているらしく、何があったのかねぇ、と呟いた。
 しかし誰もそれに答えなかった。もっとも、仮に何があったかわかったとしても、それは不幸に過ぎないのだが。


□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


 二日目の朝。
 胃の辺りが非常に気分悪いと言って、アルゼは起きてこなかった。アメルダは仕方なく、彼の看病をするために、宿に一日居ると言う事を残りの4人に伝えた。


ソフィア 「情けないなあ、アルゼは。わたしの方が身体は弱いはずなのに。」
 と同意を求めるように琉都の顔を覗き込む。
 ソフィアは元は身体が弱く、精神的にも衰弱していた。と言うのは、病弱な事を親が虐める材料に使っていたのか、虐待されていたであろうからだ。
 今はすっかり健康体のため、精神的にも問題無いように見える。
琉都   「そうは言っても、やっぱり向き不向きが人間にはあるんだからな。仕方ない。」
 同じ物を食べたはずにも関わらず、琉都は全く調子が悪くなさそうだった。中国生まれの日本育ちなので、消化器系がかなり丈夫なのだろう。
クゥリス 「でも、町に居ない時の料理も、結構辛口ですよね。」
 現に今彼らが買い込んでいるのは、保存が利くような香辛料の類である。
 船に乗ってからずっと船の食料を使っていたため、少しだけ残っていた香辛料が悪くなってしまっていたのだ。
ソフィア 「うん…あれって琉都兄ぃが作ってたんだっけ?」
琉都   「まぁ、半々だな。」
 残りの半分は誰が作っているのか、とはあえて聞かない。
 手が空いた者が適当に呼ばれ、適当に手伝わされると言う事を、ソフィアもわかっていたからだ。
 ふとルィニアが歩みを止め、その場で何かを見上げるようにした。手を繋いでいたソフィアは、そのまま歩いていたため肩にごく軽く痛みが走る。
ソフィア 「? どうしたのルィ姉ぇ?」
 そう言って同じ方向を見上げるが、何が見える訳でもない。強いて言うならば看板があるだけである。
 ジャンク/中古パーツ店、と。
 明らかに商店の並ぶ場所には不向きな看板であるが、それはそれである意味目立っていたので、看板としては良い物なのかもしれない。看板は客を店に呼び入れる物だから。
ルィニア 「……ここ、よってくよ。」
 反論の余地を与えずに、ルィニアは店に入って行った。もちろん、ソフィアの手を握ったままで、引きずるようにソフィアもつれて行かれる。
クゥリス 「…どうします?」
 少し呆れたようにそう訊ねる。
 うーん、とひとしきり唸り、
琉都   「ま、放っておこう。大人なんだし、勝手にするだろうさ。」
 いともあっさりと答えた。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 薄暗い、だが蛍光ほどの光の粒子があちこちに飛散している空間である。
 琥露鬼はそこへ“戻って”来て、様々な情報を入出力していた。しかしキィボードやディスプレイ等の類は一切無い。それは彼女の思念で全て行われているのだ。
 彼女の故郷の世界でも、こういった装置は比較的珍しく、非常に高価なものである。何故それを使えるのかと言うと、それは単に彼女の上司──正確には名目上だけの上司──が上層部に掛け合ってくれたからである。
 ふと、蛍光粒子がカーテンのように分かれ、そこから燃えるような青の縮れ髪の男が入ってきた。煙草を咥えているが、今の所火はついていない。
????  「あ、琥露鬼じゃねえかョ!」
 開口一番に指差して叫んだ彼の瞳は、髪とは全く違う白熱色のそれである。しかしそれは左目だけで、右目はアイパッチをあてているためよくわからない。
琥露鬼  「…そうだけど、なにか悪かったかしら?」
 そう言い、琥露鬼は肩にかかった髪をかき上げた。そして些か挑発的な視線を向ける。
????  「いやァ、別にィ?」
琥露鬼  「ならいいけど。」
????  「でもクシェウ兄貴は怒ってたぜェ。文字通り火ィ吹いて『琥露鬼の奴、何で連絡の一つも寄越さないんだ!』ってなァ。」
 彼はそう言うと、ボーッと火を吹いて怒る真似をして見せた(その時に煙草の先に親指の先ほどの火が生まれた)。それがあまりにもそっくりだったため、琥露鬼はおもわず吹き出してしまった。
 しかし次の瞬間、クシェウがそれほど怒る時には必ず幻視監視されていると言う事を思い出し、慌てて口を押さえた。
琥露鬼  「あぁ…どうしましょう…」
 本当に困った、と言うようにその場に琥露鬼は崩れ落ちる。
????  「安心しろよォ。兄貴の優秀な弟分である、このヴォルフが宥めておいてやったぜェ。」
 そう言うとヴォルフは笑った。普段は琥露鬼にやり込められている分、こういう時に一発お見舞いできると爽快なのだ。
 琥露鬼はそう言われて、むすりとして立ち上がった。そして書類を押し付け、そのまま獣形になってその空間から姿を消す。
ヴォルフ「…ちっとやりすぎたかァ?」
 頭をぼりぼりとかき、書類に目を落とす。
 便利な機械があるにも関わらず、重要な情報は書類の形でも提出する事になっていた。と言うのは、思念と言う物は必ず主観であるからである。書類ならば必ず客観であるため、重要な部分が偏見などで変化する事が無い。
 と、二、三枚見る内、それがたった三組、つまり六人の情報を書き留めているに過ぎない事に気付いた。最後の定期報告で「ある者達と行動を共にする。」とあった事を思い出し、彼女のこの行動が何を求めているか、なんとなく気付いた。
ヴォルフ「そういう事かョ。まったく、面倒な仕事をおしつけやがったぜェ…」
 ふぅーっと煙を吹き、そして何となく煙で輪を作り、その中に小指の先ほどの火の玉をくぐらせた。


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○


 さて、と“それ”は呟いた。
 いや正確には呟いたように思った。
 “それ”は喋る事ができない。そもそも“それ”の同類は、須く喋る事はできないのが基本だが。
 その代わり、“それ”には代弁者を得る能力があった。
 予め用意されていた人格を、幻糸の波動と精神波で、対象となる機奏英雄に上書きする。そうする事でその者は“それ”の忠実な下僕と成り果てるのだ。
 それ以外にもそれなりに数多い能力を、製作者から“それ”は与えられていた。
 そう言った能力の一つに“人の心を惑わせる”能力がある。まるで食虫植物が得物を甘香でおびき寄せるように、人の心を惑わせる事で“それ”は代弁者をおびき寄せる。
 現に今も、“それ”は捕えた得物を代弁者とすべく、総力で洗脳にかかっていた。
???  「かかった。」
 かかった?何が?
???  「C−マイナス4、イーブル・クレウツ。」
 な…!?
 “それ”は動揺した。洗脳がそろそろ終わると計算では出ていたのだが、そうでもないらしい。いやむしろ能力装置が壊れかけてすらいる。
???  「イーブル・クレウツ、ダイレクトコネクタ、オープン。」
 意思とは関係なく声に従う己の身体に、“それ”はさらに動揺した。そんな事をさせる事ができるのは、200年ほど前の大戦の際に己を造った技師達だけだからだ。
 200年も生きる人間はいないはずだ。
???  「人間なら、だよね?」
 ……成る程、罠にかけたつもりが逆にかかったと言うわけか。
 “それ”は諦めたかのように動力を切り、自我プログラムを補助モードへと切り替えた。そしてその直後、ダイレクトコネクタから熱い思念の塊が注入され、残っていた自我も消え去った。
 “それ”もまた、かの世界の技術を織り込まれていた。そして今搭乗している少女(波打ち際の泡を固めて造ったような服を着ており、その両肩と腰に合計四つの水球がついている。15歳ほどに見える)もまた、その世界の者だったのだ。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 さて、と彼は呟いた。
 場所は昼にも関わらず薄暗い、陰の気のこもるような裏路地である。目の前には幾つかの映像が、今彼が見ている映像にダブって映っていた。
 そしてその一つには、白い十字架型の肩プレートアーマーのある、一般に出回っているどの奏甲とも違う機体──ハイリガー・クロイツの姿が映っていた。
 また別の一つには、その奏者が映し出されていた。
????  「どーやってこいつらを、セイントから引き離すかだな…」
 右手で追い払うように振って映像を消し、左手の篭手の手の平を軽く右手の平で叩く。そして幾つかの印を結ぶと、目の前に緑色の光のワイヤーフレームで描画された、一見してチェス板のようなタクティカル・ボード(戦術板。軍人が作戦シュミレートを行う時に使う)が現われた。
????  「まずイーブルは捕獲できたと…」
 ヴゥン、と微かに音を立てて、ワイヤーフレームで描画された、逆十字の駒がタクティカル・ボードの上に現れる。ただし色は白だ。
 それがノルデハフェンシュタットを表わす□に向かって移動し始める。
????  「そうするとセイントの維持コストは確保できるな…」
 次は正十字の駒。ただし色は薄汚い灰色である。これは最初からノルデハフェンシュタットの□に出てきた。
????  「残りの二機は…」
 ヴゥゥン、と音を立ててボードのかなり上に、キューブの駒と鬼火型の駒が現われた。
 しかし落ち着く場所が無いかのようにブルブルと震え、しばらくそうしていてから彼の手の中に落ちる。色は両方とも青である。
???? 「保存場所が不明。 さて、移民団は…」
 トゲトゲの駒がボードの上に無数に連続して現れ、気持ち悪い紫が半分以上を埋め尽くしてしまった。
???? 「そうなると、やっぱり彼の助けが必要か…?」
 篭手で覆われた左手を握り、そしてゆっくりと開く。すると篭手が二つ交差している駒がそこにはあった。それをノルデハフェンシュタットに置く。ついでにもう一つ、剣の駒も同じマスに置く。
 篭手の駒は正十字と同じ灰色で、剣の駒は逆十字と同じ白である。
???? 「…そうだな。ヴォルフに動いてもらうか。」
 そう言って剣の駒を軽く叩くと、それは燃え上がり始めた。そしてすぐに炎の駒と分化する。
???? 「後は、どの辺りまで“焔狼”がバラすかだな。それで反応も変えなければ…」
???  「闇夜?」
 いきなりコードネームで呼ばれ、彼──便宜上“闇夜”と呼ぼう──は慌てて振り向いた。視界に入ったのは、マントを羽織りフードを目深に被った、妖艶な女性。ただし猫のような瞳は奇麗な碧色をしている。
???? 「あぁ、琥ろ…琥珀か。丁度良い。これを。」
 そう言うと“闇夜”は“琥珀”に手の平を向け、気合を込めて何かを射出した。そしてそれは“琥珀”の身体に命中し、思念となって一種の記憶として脳内に定着する。
???  「コードC、No.074? 200年も前のものじゃないの。」
???? 「いや、正確には『コードC、No.074-2』だ。焼き直しだけでなく、手直しも入れたからな。」
 そう言ってタクティカル・ボードと駒を全て消す。そして今度は、緑光で形作られたメッセージウィンドウを出した。白い文字がその薄緑の背景を流れて行く。
???? 「ま、何にせよ人員不足は明らかだし。その辺の所は、しっかりと承知、してくれよ? わかったか?ん?」
 ぽん、と肩に手を置き、少し脅し混じりに「ん?」と首を傾げて見せる。
???  「…セクハラ、です。」
???? 「ま、一応謝るけど、お前ンな事言える立場かな? 琥珀ちゃん?」
 ぐ、と言葉に詰まる。確かに定期報告もせず、勝手に行動を取っていたのだから、名目上だけとは言え上司である“闇夜”に怒られるのは当たり前なのだ。
 それに“闇夜”が特定の女性に特別な想いを抱く事を嫌うのは、“琥珀”も“焔狼”も“蒼龍”もよく知っている。
 だからこそ女好きな“焔狼”を抑えつつ、思わず心が揺らぐほど魅力的な“琥珀”と、思わず守ってやりたくなる可愛らしさを持った“蒼龍”と、共に仕事ができるのだと言う事も。
???? 「ま、とにかく『コードCNo.074-2』はもう始動してる。“琥珀”、お前はセイントのコンダクターを言いくるめて、ここから最寄りの酒場に連れて来い。パターン・レッドでな。」
???  「イーブルは?」
???? 「“蒼龍”が捕獲した。気にするな。 他の機体が揃うまでは、あの2機でうまくやらせるしか、無い。」
 そう言うと“闇夜”は、その燻し金色の竜眼で“琥珀”を見つめた。そして言葉を使わず、行け、と合図する。
 “琥珀”はそれに従い、黒猫の姿になって何処かへ行ってしまった。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


 時間はもはや夕方になろうかと言う頃。琉都とクゥリスは仕方なく、二人だけで宿への帰路についていた。何故ならルィニアがさっぱり動こうとせず、仕方なく放置してきたからである。ソフィアはもう飽き飽きしていたようだが、がっしりと手を繋がれていたため逃げる術も無かった。
 閉店時間になれば嫌でも追い出されるだろう、とあくまで仕方なく置いてきたのだ。
クゥリス 「あの…琉都さん?」
琉都   「ん?」
 荷物を大量に持っている(ルィニアが購入したパーツ類を大量に持たせた)ため、落とさないよう慎重になりつつもクゥリスの方を向く。
 見れば恥ずかしがってでもいるのか、顔が少し下を向いていた。しかし上目遣いに琉都の方を見ている。
クゥリス 「こ、こうやって並んで歩くのって、久しぶりですよね…」
琉都   「人通りも無いしな。人通りがある所は、もう何とも思えないか?」
 素っ気無く訊ねかえした琉都は、努めてポーカーフェイスでいようとしているようだった。
クゥリス 「それは、まぁ…」
 ふーん、と答えが琉都から返って来る。
琉都   「つまり、俺はその程度だ、と。人の群の中では、ただの機奏英雄か。」
クゥリス 「違…!」
琉都   「違うと言うなら、人通りのある所で歩くのと、無い所で歩く、その違いを教えてくれよ。」
クゥリス 「え…っと…」
 真面目に考えているクゥリスを見つつ、宿への道を確実に歩く。
 さすがにパーツ類は重過ぎたのか、琉都はばててきたようだ。しかしそれでも早く休みたいがために、歩むのは絶対に止めようとしない。


クゥリス 「わかりました!」
 宿が目の前まで迫った時、急にそう叫ばれたため、琉都は思わず荷物を取り落としそうになってしまった。
 慌ててバランスを取り戻し、立ち止まってクゥリスを見る。
クゥリス 「違いがやっとわかりました。」
琉都   「…へぇ?」
 どんな違いが、と琉都が訊ねるよりも早く、クゥリスが近付く。そしていきなり琉都の心臓の辺りに手を当てた。
 そしてしばらくそうした後、二歩下がる。
クゥリス 「人通りが無いと静かですよね。」
琉都   「あぁ、まあ。」
クゥリス 「聞こえるんです。琉都さんが。」
琉都   「…?」
 よくわからない、と言おうかと思ったが、それはクゥリスが傷つくような気がして、琉都はそうしなかった。
クゥリス 「琉都さんが、って言うより、琉都さんの心臓の音とか、息とか…。琉都さんがそこに居る、ってちゃんとわかるんです。心臓のリズムで。」
 それで、えっと、とまだ説明したさそうなクゥリスの頭を軽く撫でて、琉都は説明を止めさせた。そしてクゥリスに背中を向け、無言で歩き始める。
 琉都が急に無言になったため、怒ったのかな、などと考えながらクゥリスはその後ろ姿を追う。


 宿の扉を開くために立ち止まり、しかし琉都はすぐには扉を開けなかった。
琉都   「クゥ。」
クゥリス 「はい?」
琉都   「心臓の音、聞こえてるんだな?」
クゥリス 「聞こえてると言うか、どちらかと言うとやっぱり“感じて”ます。」
琉都   「そうか…。俺もクゥの心臓の音を“感じ”れたらいいのにな。」
 最後の方はほとんど呟いたも同然の声だったが、それでも静かなためしっかりとクゥリスには聞こえていた。
 宿の扉を開くと、そこは通りとは打って変わってとても賑やかだった。


 物理法則がどう変更されたらこんな事が可能なのか、と一瞬だけ琉都は真面目に思った。
 明らかにここに居るはずのない人物が、悠々と茶など飲んでいる。いつもの小洒落た小丸眼鏡ではなく黒縁眼鏡をかけていると言う違いこそあれ、間違いなく居るはずのない人物だ。
クゥリス 「ルィニアさん!?」
ルィニア 「…? どうかしたかい?」
 ごく当たり前、と言った顔で、何かの図面から視線を上げないまま返事をする。
クゥリス 「え、でも、私達の方が早く帰って…あれ?」
琉都   「どこぞで馬車か何かで相乗りさせてもらったんじゃないのか?」
クゥリス 「あ、そうだったんですか。」
 もうそれで納得と言う風に頷いて、クゥリスは荷物を置きに部屋へ戻って行った。階段を登る足音が遠ざかってやっと、琉都はその隣りの席に腰をおろした。
 パーツ類を一つ一つ検分しつつテーブルの上に並べてゆく。気付かない内に落としている物が無いか、もしかしたらと不安な時にはよく使う手である。
ルィニア 「排出バルブは何ミリ?」
琉都   「大体5、6ミリだと思うけど。自分で選んだんじゃ無いのか?」
ルィニア 「生憎と超人じゃないんで、忘れる時だってあるさね。」
 置いてきたはずの人間が置いて行った人間よりも早く帰るのは、すでに超人の業だと思います。琉都はそう思わずにはいられなかった。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 月が美しく輝く。
 儚くも美しい、蒼い光。


 その月光の下、“闇夜”と“焔狼”はただ静かに立っていた。時折、機械的な「ピッ」と言う音が“闇夜”の手元の黒い箱から発せられるが、それにも全く動じはしない。
 “闇夜”はおもむろに両手を地面に突くと、息を鋭く吐いた。と、路地を形作る分子が幻糸の振動で冷たいまま液体化し、“闇夜”が沈み始める。“焔狼”も手に持っていたゴーグルをつけると、その液体化した地面に飛び込んだ。
 ぽちゃん、と水のような音がし、そしてその直後、地面はまた固体化した。


 “蒼龍”は御し難い“それ”を何とか飛ばせ、ノルデハフェンシュタットに向かっていた。休憩は機体を着水させて行っている。
 機奏英雄ではないと言うだけで、これだけ操作性に違いがあると言う事に、歌姫でもなくましてやアーカイア人でも無い“蒼龍”は驚いていた。
 そして後悔もしていた。これならば“指揮者の譜面”を持ってきて擬似英雄化した方が楽だった、と。


 琥露鬼は屋根に登り、月を眺めていた。手には一枚のチラシが握られている。
 それを読み、我ながら良い出来だわ、と呟いて“琥珀”は笑った。
 いつも琉都やクゥリスの前で“琥露鬼”が笑っているような笑い方ではなく、彼女が“琥珀”である間だけよくやる笑い方で。
 だがしかしこれは、あくまで最終手段である。出来る事ならば、琥露鬼は普通に説得してしまいたかった。


 カーテンが無いため射し込む月光が眩しく、琉都は眠れずに居た。目を瞑って蒼い光を見まいとするが、それでも月の光は眩しい。
 様々な事情でほぼ一人一部屋を取っていたのだが、ベッドはしっかりと固定されており、到底動かせそうにはない。
 耳を澄ませても、他の部屋で何かが起きている気配は、感じ取る事が出来ない。言いようの無い、不安と寂しさのような物が、琉都の心を掠めて行った。
琉都   「…寒…」
 呟いて、毛布をかき寄せる。

 こん、こん。

 誰かが扉をノックしているように思えたが、勘違いだろうと思い反応しない。

 こんこん。

 今度は先ほどより幾分、間が短い。
 だが琉都はまだ反応しない。本当に寒い訳ではないのだが、毛布から出るのが嫌だったのだ。

 こんこんこんこんこんこんこ…………

 しつこくノック音。手首か手首を動かす筋が痛くなるまで続くのだろうか、と考えると毛布が云々などと言っている以上に眠り辛くなりそうに思えた。
 仕方なく琉都は、毛布を抜け出して扉を開けに向かう。

 がちゃり

琉都   「今、夜中──」
 まともに顔も見ずにそう言い、残りの言葉は萎むように消え入ってしまった。
 今、琉都の目の前には、クゥリスが寝間着姿で、愛用の枕を持って立っている。
 ほぉ普段と違うのもなかなか、などと考えてしまう辺り、琉都も人の子である。いや、正しくは人間と同じ精神構造の亜人、だろうか。忘れがちだが、彼は三眼だ。
 えへへ、と照れたように笑うクゥリス。
琉都   「何してるんだ?」
クゥリス 「えっと、その、あの…」
 また、えへへ、と誤魔化すように笑う。
 しかし琉都は眠いため、多少機嫌が悪そうだった。
クゥリス 「明日も何も予定が無いですし、いっしょに寝ようかな、なんて思ったりしたんですけど…だめ、ですか?」
 うつむき加減に上目遣いで訊ねる。
琉都   「う… だ、ダメとは言わない、けど。」
 かなり動揺したようだ。
琉都   「大丈夫なのか?そんな事して。」
クゥリス 「私の部屋には琥露鬼さんがいてくれてますから、大丈夫ですよ。」
琉都   「いや、そういう意味でなくてだな、あー…」
クゥリス 「琥露鬼さんにも同じ事言われましたよ。一体何が不安なんですか?」
 天然か、確信犯か。
 どちらにせよ琉都には、いやマトモなシュミの男には、かなり厳しい状況となってしまうだろう。まさに据膳云々であるのだから。
 アルゼなら喜んでいただく事だろう、と言う言葉が一瞬頭を過ぎる。
琉都   「いや、別に。知らないならわざわざ言うまでも無い事だ。」
クゥリス 「じゃ、いっしょに寝ても、いいんですね?」
 だから上目遣いにおねだりっぽく言うな、と心の中で叫びつつ、琉都は黙って扉に背を向けた。
 クゥリスもその後に続いて部屋に入り、そうっと扉を閉める。
 琉都は枕の位置をずらし、黙って毛布を被る。クゥリスはその隣りに枕を置き、背中合わせに毛布にもぐりこんだ。
 月の光が眩しい。
 そのせいか二人とも、全く眠れそうになかった。

クゥリス 「あ…」
琉都   「どうした?」
クゥリス 「琉都さんの心臓の音、聞こえます…」
琉都   「……」
クゥリス 「……」
琉都   「鈍感なのかな、俺って。全っ然、聞こえない。」
クゥリス 「そうですか?」
琉都   「あぁ。…灯台下暗し──とはちょっと違うか。何だろう、近いのに遠い?」
クゥリス 「……」
琉都   「……」
クゥリス 「……聞こうとしていますか?」
琉都   「さぁ?」
クゥリス 「じゃあ、琉都さん。あなたは、そこに、いますか?」
琉都   「肉体は在る。魂も在る。意識も在る。…“俺がいる”をどう定義するか、だな。」
クゥリス 「じゃあ…私は、ここに、いますか?」
琉都   「…俺にわかるのは、クゥの肉体で出力できる部分だけだからな。魂も、意識も、きちんとそこに在るか、それすらわからない。」
クゥリス 「……」
琉都   「でもまぁ、気の流れ具合から言えば、居るんじゃないか? 結局自分が“在る”のか“居る”のか、それは個人々々にしかわからないし。」
クゥリス 「へ理屈ですね。」
琉都   「へ理屈でも理屈には違いない、とも言う。」
クゥリス 「じゃあ──」
琉都   「…どわっ!?」
クゥリス 「──私が聞こえますか?」
琉都   「……」
クゥリス 「へ理屈抜きで。私が、聞こえて、いますか?」
琉都   「……非常ぉーに、緊張してるんだろうな。物凄く聞こえてます、はい。」
クゥリス 「……こんな事しなくちゃ、聞こえないんですね……」
琉都   「ゴメン…」
クゥリス 「……」
琉都   「……」
クゥリス 「いいですよ。これからも、ずっと、一緒にいられるんですよね?」
琉都   「…ああ。」
クゥリス 「じゃあ、いつでも聞いてもらえるんですから。」
琉都   「人前でやったりはしないだろうな。」
クゥリス 「……」
琉都   「その沈黙は、まさか…」
クゥリス 「もし琉都さんが、望むんでしたら、いつでも……」
琉都   「……あははは……」
クゥリス 「それはそうと、いつまでそうやってるんですか?」
琉都   「……」
クゥリス 「早く離れて下さいよ。恥ずかしいんですから。」
琉都   「っと。悪ぃ。」

 そこに無理矢理に耳を押し当てさせられていたが、何時の間にか手がどけられていた事にやっと気付き、琉都は素早く身を引いた。
 しかし勢い余って、寝台から見事に転がり落ちる。頭を思いっきりぶつけたにも関わらず、案外平気そうな顔をして寝台に戻り、そして何事も無かったかのように毛布を被った。
 そして今さっきまで見事に眠れなかった事など嘘であるように寝息を立て始める。
 実はクゥリスが気付きこそしなかったが、ただ気絶しているだけだった。


 月は何もかも、ただ穏やかに見守っていた。


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○


 早朝。
 鳥も寝ぼけまじりに鳴いている、と言うのがいいのだろうか。うるさいほど鳴いているわけではないが、一応は無数のさえずりが聞こえる。


 何か重たいような気がして琉都が目を覚ますと、目の前に黒に近い茶色の鳥の巣があった。一瞬本気でそう見えたが、クゥリスの髪である事にすぐに気付いた。
 琉都は仰向けの状態である。よくよく見れば、寝間着の胸板の辺りはよだれだらけで、重たい以上に不快な状態である。
 どうやら寝相が悪いようだ、などと思い、琉都はまずは諦める事にした。下手に起こせば誤解されかねない、と言う事もあるからだ。
 しかしそうは運命の織り手が許さなかったか。
 情け容赦なく扉が開く。
ソフィア 「おっはよ〜、って琉都兄ぃ何やってるの!?」
琉都   「襲われてる。……いや嘘だけど。」
 と、クゥリスがもぞもぞと動いた。寝返りをうつのかと思ったが、そうでもないらしく、少し姿勢を変えるとまた安らかに寝息をたてはじめた。
ソフィア 「…で、いつまでそうやって寝てるの?」
 さぁ、と返事をする。
 赤面しているソフィアの後ろに、歯ブラシを口につっこんだままのアルゼが顔を出した。
アルゼ  「…お前…」
琉都   「……おはよーさん。」
アルゼ  「ん、ああ。 いやそうでなくて、お前、そんなシュミだったのか?」
 どんなシュミだよ、と思わずツッコミを入れ、琉都はやっと自分が篭手を着けていない事に気付いた。
 その腕には指先から肘の辺りまで、藍色のよくわからない刺青のような物があった。しかも三眼に覚醒する前とは、全く別の紋様である。
ソフィア 「そう言えば琉都兄ぃ、わたしにも色目使ってなかった?」
アルゼ  「…ロリコソか。(ぼそっ)」
 しかも腕の事は全くツッコミが入らない。
琉都   「いや、下だけでなく上もストライクゾーンが広めだけど。大体10コくらいなら無問題。」
アルゼ  「……ロリ+年増=全年齢対応、だぜ?(ぼそっ)」
ソフィア 「え?わたしとルィ姉とで3P!?」
琉都   「どこからンな単語が飛び出す!? 年齢不相応な単語を登録してある言語ライブラリがあるのはどの頭か!?」
 ここ、と二人して自分の頭を指差す。琉都はもはや何を言っていいかわからず、頭をかかえた。
 そしてさらに混乱は加速する。
ルィニア 「どうかしたのかい…ってうわわわわわ!!?」
 流石は機械一筋に生きてきただけの事はある。これ以上はないと言うほどに赤面し、顔を両手で覆って、壁にぶつかるまで後退し、そしてそれ以上下がれなくなるとその場にへたりこんでしまった。
アルゼ  「刺激が強すぎたようだぜ。」
ソフィア 「そりゃそうだよ。だって、わたしだって直視できてないんだもん。」
琉都   「だから、お前らが考えてるような事は、ぜんぜんしてないから。」
アルゼ  「はいはい。ヤっちゃった奴等は必ずそう言うんだよ。」
ソフィア 「うわー…」
 心地よくない視線を向ける。
琉都   「……モウイイデス。ハイ。」
 虐められっ子のようにそう言い、琉都は顔を背けた。それ以上動けないのだが、そろそろ全身が痺れてきている。
 クゥリスにはそろそろ起きてもらわなければ、ひょっとしたら末端部から壊死するかもしれない、などととんでもない事が思考回路から浮上する。
ルィニア 「禁忌……歌術が使えなく……」
 一歩間違えば精神患者扱いにもなりかねない呟きも、思考回路を変な方向へ導いていく。
 そして止めがやってきた。ある意味では待ちかねた止めが。
アメルダ 「あー、やっぱり……ぃぃぃいいい!!?」
 最後の方は、もはやこの世のものをかけ離れた、歌術式呼吸法で放たれた叫び。間もなく宿中の全員が目を覚ますだろう。
アルゼ  「おい、一応は女なんだし、そんな顔したらヤバくねーか?」
 しかし反応しない。
 気になったので見てみれば、確かに「そんな顔」と言えるような、とんでもない表情をしていた。そして固まっている。
琉都   「あのー…」
アメルダ 「ひゃいっ!?」
アルゼ  「……何でオレの声じゃ反応しねえかなぁ……」
 とりあえず無視。
琉都   「どうでもいいので、どうか出て行ってくれ。でなきゃ扉を鍵ごと閉めてくれないか。」
 そう言うと、まともに動ける面子はそろいも揃って部屋に入った。ルィニアは腰を抜かしていたので、到底動けそうにないが。
ソフィア 「ルィ姉。手、貸そうか?」
ルィニア 「あ、ああ。たのむよ。」
 そういう訳で、面子が全て揃った。
琉都   「…起こすべきか…」
 ため息をつく。
 皆が見ている中で起こすとなると、相当に手段を選ばなくてはならない。そのプレッシャーが、琉都にとんでもない行動をさせた。
 声をかけもせず、いきなり横に落とした。その時の衝撃で目が覚めそうなのか、ううん、と唸ったりもするが全く気にしない。
 そしてそのまま起き上がり、衣類を持つと、琉都はそのまま扉の外に向かった。
琉都   「さて、っと。 んじゃ俺、一風呂浴びて来る。」
 何がしたいのか良くわからない、と言いたげな顔をしている一同を残し、琉都は大浴場へと向かう。
 本場ハルフェアのそれには程遠いものの、この辺りの温泉は特殊な泉質・効用が多いと言われている。恐らくは竜ヶ尾山脈の幻糸鉱山が、何らかの影響を及ぼしているのだろう。
 その証拠に、温泉に浸かっていて蟲化した機奏英雄、と言うような話も皆無ではない。
 “場合によっては、のぼせたり、錆びたり、蟲化したりしますので、浸かりすぎにはご注意ください。”
 そう注意書きにもあるのだから、恐らく間違いはない。錆びたり、と言う文句が気にならないではないが、人間に対しての警告では無い事だけは明らかである。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 長く伸びた黒い髪を括り直しながら“闇夜”は、案外にも簡単に事が運びそうだと言うのに、大きく長くため息をついた。
 彼のカンが正しければこの後、一苦労せねばならないからだ。
???? 「…古井戸の清水か、水道の汚水か、だな。」
???  「この場合は後者かしら?」
 そう声をかけたのは、事が運びそう、と思える原因をもたらした者。
 彼女の瞳は碧色で、猫科の動物を彷彿とさせる瞳孔をしていた。
 いや、“闇夜”の瞳も、それに近い形状である。より正確に言うならば、彼のそれは竜眼なのだが。
???? 「“琥珀”…。 誰がゾンビパウダーを使えと言った?」
???  「あら、非残留麻薬を配合したテトロドトキシン系の仮死薬はダメだったの? だったらそうと先に言ってよ、もう。」
 ちなみにブゥードゥー教のゾンビパウダーは、河豚からではなく薬草から化合する物だが、彼女が使ったのは河豚から抽出したそれである。
 “闇夜”はもう一度大きくため息をつくと、“琥珀”から仮死薬の成分表を受け取り、科学班に解毒剤を調合してもらおうと『船』に向かった。
 とは言え、彼の移動速度であれば数分で往復出来る距離である。
 今から調合してもらったとしても、十分に想定時間に間に合うだろう。
 そう踏んだのが、大きな間違いの一つだった。