無題迷話

第零章 壱話





 何か聞こえた気がして、琉都は汚い字で書かれたノートから視線を上げた。
 家族は皆、出かけてしまっている。まぁ、そのために休日だと言うのにたたき起こされたワケだが。
琉都   (・・・?)
 誰かが扉の向こうがわに居るような気がした。すりガラスのはめられた扉なので、誰か居ればすぐに見て分かる。だが、琉都には扉を開けて確認しなければいけない気がした。
 友人から譲り受けた、肘までしっかり防護する篭手を両腕に装着しているが、いろいろと工夫を凝らしたおかげで、何の取っ掛かりも無いドアノブを難なく捻る事ができた。そして扉を押して開く。
 開くとき無意識に、足も一緒に踏み出した。すぐに床板の感覚を足の裏に感じるはずだったのだが、それが無い。
琉都   「おゎっ!?」
 重心をかけた足が何も踏む事が出来なければ、人間には二本の足しかないのだから、当然倒れる。琉都は反射的にノブをしっかりと掴もうとしたが、不思議な事にノブはまるで油が塗ってあったかのようにするりと逃げていってしまった。
 次の瞬間、白光、と言うのだろうか。白とも光ともつかぬ何かが、琉都の視界を塗りつぶした。

■□  ■□  ■□  ■□  ■□  ■□  ■□  ■□

 霧が晴れるように、視界が晴れていく。はっきりと見えるようになってから、最初に視界に飛び込んできたのは、植物の優しい緑だった。その緑の隙間から、太陽の光が漏れている。
琉都  (さっきの光は、太陽光じゃなかった。)
 がしゃん、と音を立てて手を地面につき、体を起こす。どうやら樹木の根元に倒れていたらしく、光がまぶしく感じられた。
琉都   (床板をすり抜けて落ちた先は、異世界でした。・・・なァんてな。)
 樹に手をつき、立ち上がる。落ちて来たにしてはどこかが痛むと言う事も無く、むしろいつもより身軽に立ち上がれた。
 ジーンズについてしまった草葉を、両手の平ではたく。そして、周囲を見回しながら独り言を呟く。
琉都   「さて、どうしたもんかな。」
 気持ちいい風が、頬を撫でて走り去った。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 クゥリスは、いつもの散歩道がある辺りを外れて、少しだけ北西に行ってみる事にした。
 何故、と訊かれれば、何故だから、と答える事はできないだろう。散らし歩くから、散歩と言う。いつも気分次第で歩く道は変えているし、それが楽しいから散歩を趣味にしていると言ってもいい。

 何か違う気がする、と言うツッコミは無用。
 それはさておき。

 ハルフェアの広域に亘って広がる葡萄平原には、所々に農場のようなものがあった。そこに住む人々は日々、畑を耕し、種を蒔き、植物の世話をする。秋にはその見返りとして植物がいっせいに、だが順番どおりに実をつける。
 その営みを、1年のサイクルで繰り返す。

 ぶもぉ〜、もぉ〜
 不意に、後ろから無数の牛の鳴き声が聞こえた。振り返って見れば、集団脱走したのか、白と黒の塊が走って来る。見ると、牛の所有者と思われる人物が、誰か止めてくれ、と言うような事を叫びながら白黒塊のはるか後方を走っていた。

牛所有者?「誰か〜!ウチの牛を捕まえて〜!」

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

?????「誰か〜!ウチの牛を捕まえて〜!」

 琉都が微かに声の聞こえた方向を見ると、白と黒の塊が道を突っ走って来ている。
琉都   (白と黒のブチの牛は・・・乳牛の一種だったか?)
 そんな事をぼんやりと考えながら、琉都は近くに落ちていた棒を拾い、それを踏切の遮断機のように道に差し出す。
 牛たちはもう、すぐ目の前まで来ていた。

 べきしっ

 あっと言う間にその棒は折れ、くるくると宙を回転してから白黒のまだら模様の動く地面──いや、牛の背中に落ちた。牛たちはそのまま爆走して行く。
琉都   (まぁ、そうだよな。当然と言える結果だ、うん。)
 琉都は手に残った棒を地面に投げ捨てる。そしてふと、牛が走り去った方を見る。と、何かあったらしい。牛たちが混乱しているように見えた。

 ギィイィィィィ・・・・・・

琉都   「・・・!?」
 突然、精神を乱す音が聞こえた。黒板を爪で引っかいた音を強化したかのような、神経を逆撫でする、空気の振動。
 何がこんな音を発したのかは知らないが、一刻も早くこの地獄から抜け出したい。そう思い、琉都は道を駆け出した。初めの一歩は音源に近づいてしまったがそれに気付き、二歩目からは脱兎の如く逃げ出す。
 走っていく先には、建物が見えた。
 しかしその場から一歩離れる度、心の中で何か別の要素が強まるのには、全く気付かなかった。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 精神に大きなダメージを与える、奇声(ノイズ)と呼ばれる鳴き声が微かに聞こえた。それと同時に、周囲が一気に警戒態勢に入る。と言っても、皆それぞれ各々の家に戻り、しっかりとカギを閉める程度しかできない。
 だが。
クゥリス (何?この感じ。何か、こう───。うまく言葉にできない・・・。けど。)
 クゥリス一人だけ、道端に立って、奇声の聞こえた方向を見続けている。

 少しして、巨大な影が頭上を通り過ぎていった。
 それを追うように、クゥリスは走り出す。しかも、ノイズが聞こえた方向に。
 思考がそうすべきと判断したのではない。体が自然に動いたのだ。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 少し走ったところで、道が二股に分かれていた。
 だが、琉都は何か見えざる知らざる力に導かれるように、迷うことなく一方を選ぶ。ひょっとしたら、そっちの方向に建物の影が見えていたから、選んだのかもしれない。しかし──。
琉都   (ここまでくれば、大丈夫か? ・・・いや、そうでもなさそうだな。)
 町に入った事で少しだけ安心し、琉都は足の速度を緩める。
 だが、後ろの方から走り始めた時よりも少し小さいぐらいの音量で、例の音が聞こえた。と言う事は、追ってきたという事だろう。

 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 その音が聞こえるのとほぼ同時に、空が一瞬陰った。何が飛んでいったのか、と気になって、琉都は空を見上げる。
琉都   「巨大な、人・・・?」
 背中から翼を生やした、人の姿の何か。人の姿と言っても、まるで軽鎧を着込んだかのようだが。
 両手には、武器を一振り持っている。その武器は形状から言うと、剣と突撃槍の中間、槍剣と言った所か。
 その“何か”は宙返りを一つキメて着地すると、音の方向に向けて槍剣を構える。
 だが琉都は、そこで最後まで見ようとは思わなかった。気にはなったのだが、そんな気になれなかったのである。その場を離れ、走り出した。
 琉都が走っているのは、延々と長い道、ではない。すぐ先の建物が増え始めるあたりで、T字路になっている。
 琉都はT字路を曲がろうとした。その時である、心が何かを叫んだのは。
 立ち止まり、曲がろうとした方とは逆の方を向く。
 視線の先には、一人の少女がいた。彼女もこちらを見ている。

 長い、長い時間、そうして見つめあう。


 これからずっと共に居るであろう者の姿を初めて見つけたのは、この瞬間(とき)、この場所。
 これは後日談ではなく、心がそう告げたのだ。