無題迷話
弐章 第九話
ハルフェアの南に広がる葡萄平野。
その一画に、リクセンブルク村と言う、小さな村があった。
村とは言え、家々の数で言えば町と言う事も可能ではある。だが如何せん、密度が低いのだ。
各家がそれぞれ広大な牧草地と葡萄畑を持っており、そこでほとんど自給自足の生活を賄っている。
俗世の憂き事を忘れ、ここで隠居する隠者も居るとまで言われるほどだ。奇声蟲もそうそう出現せず、それ故に機奏英雄も来る事は滅多に無い。
だが、歌姫はこの村の者にとっては身近な存在だった。
と言うのは、過去の歌姫大戦で目覚しい働きをした者の末裔が、今でも必ず1世代に1人は歌姫を輩出しているからである。
イング=フォルティッシモは最近、ひどく寂しい思いをしてきた。
と言うのは、彼女の3人の娘が皆、戦争に駆り出されていたからである。
干し葡萄入りのパン生地を鉄板にならべながら、イングは少し前までの幻影を今のキッチンに重ねていた。
うっかりな癖に色々と手伝う、第3位階の歌姫になった長女メリシア。出来上がった食べ物をつまみ食いする、次女トリーネ。そして一番よく手伝ってくれた、三女クゥリス。
彼女らが居ないと言うだけでこのキッチンは、いや、フォルティッシモ分家は陰鬱な気がこもってしまっていた。
予め熱しておいた炉にパン生地を乗せた鉄板を入れると、イングは手近な椅子に腰掛けた。そしていつも最低1冊は携帯している本(今持っているのは“パンと歌”と言う本だ)をポケットから取り出す。
彼女が本をよく読むのには、それなりの理由があった。彼女は歌姫の中でも、時紡ぎの歌姫と呼ばれるかなり高位の役職を得ていた。階位もそれ相応に第8位萌黄を持っている。
そのため英知の殿堂の司書である時紡ぎを退役した今でも、本を読む癖があるのだ。
それだけではない。時紡ぎとなる際の儀式で、彼女は超人的な対歌術耐性と直感を得ていた。それに瞳が時折金に光ってみえるようにもなった──これは彼女の子供達も受け継いでしまったようだが。
イング 「……穏やかな風が吹くわね……」
ぼそり、と自分でも気付かない内にイングは独り言を言った。そしてまた本に没頭する。その時。
ズズン、と地響きのような音が彼女の耳に届いた。何事かと玄関に飛び出し、道の左右をきょろきょろと見回す。ちなみにここから見える視界内は、ほぼ全てフォルティッシモ家代々の土地だ。
ズズン、ズズン。大分鈍重なその音が、だんだん近付いて来る。
イング 「奇声蟲…じゃないわね。絶対奏甲かしら?」
独り言を呟く。と。
???? 『もうすぐ娘さんが帰るだろうから、迎えてやれよ。』
誰かが耳元でそう囁いた、ようにイングは錯覚した。どこかで聞いたような、しかし聞き覚えの無い男の声。今まで一度も無かった現象に、イングは動揺した。
が、それ以上にその声の囁いた内容に驚いた。そして野良作業できてしまいそうな今の格好を思い出し、急いで家の中へ引っ込む。
誰かを出迎えると言うのにこんな格好をしているのは、彼女自身が許せなかったのだ。
ぱたぱたと部屋へ駆け込み、クローゼットを引っ掻き回す。ちょっとだけ質が良いだけで飾りの無い服を見つけると、イングは急いで着替え始めた。
イング 「後は化粧もして…ううん、時間が無いわね。」
すっかり独り言を呟く癖がついてしまっているようだった。
ハイリガー・クロイツの手の平から降りたクゥリスは、他人行儀と言えばそうかもしれないが、自宅のドアのノックリング(鉄の輪で、ドアを叩いて訪問を報せる物だ)を掴んだ。
そしてゆっくりと、トントン、とドアをリングで叩いて訪問を報せる。が、誰かが出て来る気配は、無い。
クゥリス 「あれ…?」
もう一度、トントン、と叩いてみる。
だがまだ誰も降りて来る気配は無い。
琉都 「出かけてるんだろ。そうでなけりゃ、農場か。」
全く自信無さげに、琉都はぼそりと呟いた。そうだろうか、とクゥリスが思い始めた途端、家の中からパタパタと何かが走るような音が聞こえる。
パタパタパタ…
バタン!ガツン!
イング 「遅くなってごめん、って、あら?」
この家の扉もまた外開きだったようで、絶妙の立ち位置に居たクゥリスは扉の角で顔を強かに打ち、その場で顔面を押さえてうずくまりうめいていた。気のせいか、押さえている手の平の隙間から血が滴っているようにも見える。
あちゃあ、とイングは呟く。琉都は呆れたように半笑いを浮かべながらも、事態を静観していた。
琉都 「感動の親子対面には程遠かった、と。 おっと、イングさん、お久しぶりっす。」
とりあえず片手を軽く挙げ、イングに一応の挨拶をしておく琉都。イングもそれに軽く頭を下げる程度に返した。
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温かいココア。搾りたての牛乳。煎れかたの怪しげな茶。
それぞれが好きな飲み物をマグカップに入れ、席についている。
イングは沙紗に驚いたものの、理論上は可能だと割り切ってしまったようだ。沙紗に良いサイズの人形用のカップには、牛乳がなみなみと入っている。
ココアの熱さで舌を火傷しそうになりながらも、琉都は今までのあらましをイングに語っていた。それに時折クゥリスが細かいツッコミを入れる。
最後まで聞き、イングは湯飲みから茶を啜る。
イング 「なるほどね…。まあ、大体はわかったけど、ちょっと質問していい?」
琉都 「ああ。わかる範囲でなら。」
イング 「そのクシェウって、一体何者なの? それにハイリガー・クロイツも。」
そう訊ねられ、琉都は失笑した。
どちらも彼自身にもわからない事だし、教えてくれもしなかった。
クゥリス 「クシェウさんは、いい人だよ。それだけ。 ですよね、琉都さん?」
全くそうであると疑っていないように、クゥリスが助け船を出した。いや、彼女自身は助け船とも思っていない。真実なのだ。
琉都は慌てたように肯く。
琉都 「そう。 ハイリガーだって、偶然手に入っただけだ。」
しかしイングは、その答えが全く意に介さなかったようだ。何かを思い出すようにしばし宙に視線を泳がせ、そしてこう言った。
イング 「“クシェウ=ヘダイト”は『歌姫大戦』の時に、奇しくも同じように宿縁を失なった、フォルティッシモ家の始祖ともいえる“ライナ=フォルティッシモ”とペアを組んで、100匹以上の貴族を叩き落とした伝説の機奏英雄の名前。 それだけじゃなくて、見た目も伝承と全く同じよ。話を聞く限りでは、だけど。 “ハイリガー・クロイツ”も彼の後期の搭乗機よ。」
そう言ってイングは、また何か考えるように茶を啜る。
ヒュウ、と琉都は茶化すように口笛を吹いた。
琉都 「よくそこまで覚えてますねえ。」
イング 「昔、“時紡ぎの歌姫”だったから。 …スェルって子が推薦してくれたからなれたんだけどね。」
少しだけ恥ずかしい事を言ってしまったのか、イングは誤魔化すように笑った。琉都とクゥリスも、つられて誤魔化すように笑う。
だが、同じ事を考えていたようだ。困惑したような視線の目配せだけで、互いにそれとなく察する。
そして話題を逸らすべく、琉都が話を切り出した。
琉都 「まあ、いいけど。 それより知りたい事が…」
イング 「答えられる範囲で、元・時紡ぎの権限が及ぶ限りで答えるわ。」
いともあっさりと了承してくれた。
多少困惑を残しつつも、琉都は質問する。
琉都 「白銀の歌姫による演説で、『機奏英雄は奇声蟲になる』と言う文句があったそうだが、あれは事実なのか?」
いままでずっと笑っていたイングが、急に険しい顔になった。そしてすっと立ち上がり、廊下へ出ていってしまう。
何かまずい事でも訊ねたのかな、と琉都はクゥリスに目線だけで訊ねてみた。が、その意図に気付けなかったらしく、クゥリスは小首を傾げるだけだった。
冷めかけたココアを飲み待つ事数分、イングは広○苑ほどもあるハードカバーの本を持って戻ってきた。そして物凄い勢いで本のページを捲り(そのたびに埃が舞い上がるため、沙紗がちょこちょこと琉都の方へ逃げてきた)、何かを探す。
さらに数分待ち、イングがあるページで捲る手を止めた。そして重々しく答える。
イング 「…あったわ。“男と言う存在、幻糸に中れば、異形へと変わらん。” この文章を鵜呑みにするなら、それは事実になるわね。」
クゥリスはその答えを聞くと、どう反応していいのかわからない結果として、なにも反応しなかった。しかし目は虚ろで、魂が抜けてしまったようにも見える。
何の本なのだろうかと思い、琉都は表紙を覗き込む。そこには金で『アーカイア史 歌姫大戦』と書かれていた。
琉都 「奇声蟲になるのを防ぐ手段は?」
一縷の希望も逃す物かとばかりに琉都は訊ねる。だが。
イング 「私の知識の中にある限りでは、無いわ。 幻糸との接触が少なくなった今だと、奏甲に常時乗りでもしない限りは、蟲化しないから大丈夫だけれど…」
その答えは、希望までも打ち砕いた。クゥリスはその言葉に更にショックを受けたのか、椅子ごと後ろに倒れてしまう。気絶したらしい。
沙紗が素早く動いて、その小さな身体で精一杯介抱しはじめた。
琉都はその様子すらも無視し、何かを考え込む。イングは質問に一応は答えたので、クゥリスの介抱を手伝い始めた。
暫くの間その光景が続く。
簡単な柱時計が、4時を報せる鐘を鳴らした。
琉都 「イングさん。 もしも、の話だけど…」
そう、琉都はいきなり切り出した。クゥリスの介抱を切り上げて夕食の下準備をしていたイングは、包丁を片手に持ったまま振り向く。
イング 「何?」
琉都 「もしも、“クシェウ=ヘダイト”が同一人物だとしたら、幻糸の侵食を食い止める方法がある裏付けにはならないか?」
ありえない話だけど、とイングは一応は考える。
イング 「仮定の話に過ぎないけれど…200年近く“クシェウ”がこちらに居たなら、よね。 だとすれば、何らかの方法で幻糸を防いだか、体内の幻糸を放出しているはずよ。そうでなければとっくに蟲ですもの。」
琉都 「…それを伝授してもらえるとしたら?」
本当に一縷の望みに過ぎない。だが琉都は、確信があるようにそう言った。
しかしあくまでも事実を知っているイングの反応は冷たい。
イング 「夢のような話ね。」
そう言うと、イングは夕食の下準備に戻ってしまった。
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丁度その頃、ハルフェアの首都ルリルラ、その裏道にある“黒竜の酔拳亭”地下。
クシュン、と到底似合わなさそうなくしゃみをするクシェウ。いつものラフな格好ではなく、スーツ姿だ。
スェル 「花粉症?」
何か煩雑な書類の束を抱えた、いつものローブとは違いスーツ姿のスェル。
クシェウ 「…いんや、多分誰かが噂してるんだろさ。」
そう言ってクシェウは何かの書類に署名し、ハルフェア王家当代当主宛ての封筒に蜜蝋で封印した。
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翌朝。
琉都は言いようの無い不安感と、そしてまるで身体を蝕まんとするような不快感で、今までに無い不快な目覚めを体感した。部屋の床に直接布かれた布団から、上半身だけを起こす。
彼が目を覚ましたのは、クゥリスの部屋だ。部屋の主が長い間帰ってこなかったにも関わらず、イングがこまめに掃除をしていたらしく埃一つ無い。
ふと琉都が隣に目を移すと、寝間着の上半分がはだけたあられもない格好で、クゥリスが不機嫌そうに目を覚ました所だった。彼女はもちろん寝台で寝ていた。
沙紗はもうとっくに起きていたらしく、はだけてしまっていたクゥリスの服をぎりぎりの所で支えている。が、今までに無く寝起きが悪かったためか、クゥリスはそんな事に気付かないようだ。
互いにぼそぼそと挨拶らしき言葉を交わし、しばらくそのままボーっとして過ごす。
十分程度経ったか。
琉都が部屋を出て用を足す僅かな間に、クゥリスはボタンの掛け違えこそしてしまっていたものの着替え終わっていた。だがまだボーっとしている。
幾分意識がはっきりしてきた琉都は、ボーっとしているクゥリスを廊下へ押しやってから着替えた。
簡単な朝食をとり、特に何を言い合わせた訳では無いが、2人は村から少し離れた平野へと来ていた。
風が吹き抜ける、特に何も無い、ただの平野のように見える。だが、ここに来て2人の感じる不快感は、朝よりもいっそう増していた。
不快感の源がどことも知れぬが故に、どこを睨むべきかわからない。だが琉都は、二眼を閉じたままで額の紅眼を開き、気配だけを察知しようとしていた。
琉都 「…クゥ、幻糸の乱れをチェックしてみてくれ。」
クゥリス 「はい。」
いつに無く神妙な面持ちで応え、クゥリスは歌術“大地の調べ”を紡ぎだした。本当に僅かな時間だけ歌い、そして歌い終える。
そして。
クゥリス 「奇声蟲が…それも、大小たくさんいます…!」
それだけを絞り出すように言うと、その場にへたりこんでしまった。
琉都はそれを聞き、小さく舌打ちした。近場だからと油断して、ハイリガー・クロイツには乗ってこなかったのだ。
だが、奇声蟲の姿は見当たらない。
琉都 「蟲はどの辺りに居るんだ?」
二眼も開き、気配だけでなく視覚も動員して、琉都は奇声蟲のおぞましい姿を探す。
クゥリス 「し、下に…」
一体どれだけの数が居るのかわからないが、クゥリスは漠然と地面を指差す。その指先は小刻みに震えていた。
普段の蟲退治の時とは打って変わったような怖がりようである事を、ここまできて琉都はやっと察する事ができた。
だが次の瞬間、逃げようと言いかけた琉都の視界に映ったのは、地面から生えた青白い蠍の尾のような物だった。ほぼ本能的にクゥリスをその場から突き飛ばし、袍の袖を振って無数のクナイを投擲する。
蠍の尾にクナイが直撃し、その尾の真下辺りからノイズが響き渡った。それに呼応するように平野中がノイズを発する。頭が割れるような感覚に、クゥリスは思わず悲鳴をあげた。
ぼこり、と蠍の尾の生えていた地面が盛り上がる。そして青白い蠍のような奇声蟲が、姿を現した。
琉都 「うげぇ… 蠍はあんまり好きじゃないんだけどな。」
そうぼやきつつも、琉都はクゥリスを守れる位置に摺り足で移動する。
しかし、それだけでは甘かったようだ。反対側──クゥリスの目の前の地面も盛り上がり、もう一体蠍型奇声蟲が現れた。
クゥリス 「ぁ……ぁあ…」
恐怖からか嫌悪感からか、クゥリスの口から漏れるのは、辛うじて鳴咽に聞き取れなくも無い意味不明の音だけだ。臨戦態勢にある琉都には、そんな事は関係ないらしいが。
琉都 「クゥ、ナイフを抜けよ。自分の身くらい、自分で守ってもらわないと、俺には守り切れる自信は無いぞ。」
そう言い聞かせ、背中合わせの状態のクゥリスを踵で軽く小突く。
奇声蟲は様子をうかがうように暫くはじっとしていたが、琉都は踵でクゥリスを小突くのと同時に、琉都の眼前に居た1体は飛び掛かってきた。
尾の長さも含めれば、全長はおおよそ2メートル半と言った所か。しかしその尾が全長の3分の2を占めているため、実際には1メートルにちょっと足りない程度の大きさしか無いように見える。
琉都は鉄串を3本複眼に投擲し、次にクナイ投擲で尾を牽制し、左右併せて6本刃のあるクローで躍り掛かった。
青白蠍(都合上こう呼ぶ)は鉄串を鋏で弾き、クナイが尾に刺さるのも気にせず琉都に毒液滴る尾針を突き刺そうとする。だが琉都はそれを篭手で受け流し、反対側の篭手で殴るようにしてクローを突き立てた。
青白蠍の甲殻は思いの外柔らかく、あっさりと両断できてしまった。どうやら硬いのは鋏の甲殻部分と、尾の針部分のみのようだ。琉都の顔と言わず全身に、青白蠍の体液が飛び付着する。
銅イオンが酸素運搬を行っているらしく、青い血液を盛大に撒き散らし青白蠍は地面に落ちる。それを見届けるとほぼ同時に、琉都は後ろに鉄串を投擲した。
戦意の無いクゥリスをいたぶろうとゆっくり歩いていたもう1体の青白蠍に、鉄串が景気良く貫通してしまう。
青い血液が鉄串で穿たれた穴から迸り、クゥリスの頬にも飛沫が数滴付着した。
琉都 「おいクゥ! へたってないで立て!ナイフを構えろ!」
目の端でまた地面から湧き出して来る青白蠍を3匹捕えながら、琉都はクゥリスを叱咤激励した。恐怖からか涙を垂れ流しながらも、クゥリスはどうにかナイフを鞘から抜き立ち上がる。
立ち上がった時の足音を聞きながら、琉都は3匹の青白蠍と対峙する。青白蠍どもは今度は構えを整える事もせず、尾針を前に突き出しいきなり突撃してきた。
琉都は息を鋭く吐きつつ、先頭の1体を踏みつけ宙に舞った。そして後ろから来る2体に、踏みつけるような形で空中前転踵落としをくらわせる。
最初に踏みつけられた1体は健在だったらしく、クゥリスの眼前で脅すように鋏を鳴らしている。琉都はそれを紅三眼の気視能力で知覚していたが、目の前の2体を黙らせるのに集中せざるを得なかった。
まともに戦えそうに無い獲物を眼前に、青白蠍は鋏を打ち鳴らして威嚇する。クゥリスは頼りない己の得物──ナイフを逆手に構え、恐怖心に駆られ逃げ出しそうになりながらもどうにか対峙していた。
青白蠍はその4対ある節足で、一歩だけクゥリスに近付いた。
クゥリス 「ひ…! ぃ…嫌!来ないで!」
恐怖でナイフをやたらめったらに振り回したくなるのを堪える代わりに、クゥリスは言っても無駄な事を喚く。
もちろん青白蠍に言葉を理解する能力がある訳も無く、それを威嚇か何かとみなしたのか、青白蠍は毒液滴るその尾針を振り下ろした。クゥリスは殆ど本能的に横に転がって躱し、片膝をついたままかなり前傾姿勢になりながら構えた。
その前傾姿勢を保ったまま立ち上がり、ナイフを後ろに大きすぎない程度に引いた状態に構え直す。これは彼女の姉が、一撃必殺の型として教えてくれた、アサッシン風のナイフ戦用構えだ。人間相手であれば、一瞬の隙を突いて全身のバネを利用し喉笛を掻っ切る事ができる。
間合いは1歩半ぐらいか。今すぐにでも逃げ出したくなる本能を抑える別の本能に従い、クゥリスは出来る限り鋭く青白蠍を睨みつけた。青白蠍はまた鋏を打ち鳴らして威嚇している。
数秒も睨み合わなかったか。僅かな隙を突いて琉都が放った炸裂弾が、青白蠍の足下で炸裂する。それを避けるべく跳躍した青白蠍に、今まで果物や野菜や死肉しか切った事の無いナイフを、クゥリスは思い切って突き立てた。
胴体の中心部を貫いたナイフは、一筋の青い血を流す。そして次の瞬間、傷口から青い血液が噴出した。心臓に一撃、だったのだろう。
どうしようもない嫌悪感に、クゥリスはナイフを引き抜く事を諦めると、逃げ出そうとする本能に従って走り始めた。琉都も一応はけりが付いたらしく、少し後ろで炸裂弾をばら撒きながらそれを追う。
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青白蠍はどうやら地下に戻ったらしく、2人がリクセンブルク村に戻る頃には、1体も追いかけては来なかった。試しに“大地の調べ”で幻糸の乱れを調べてみても、少なくともクゥリスには何の異常も感じ取れないようだった。
青い血液をべっとりと全身に付着させているため、ごく希にすれ違う人々からは変な目で見られながらも、2人は帰路を辿っていた。
琉都 「しかし、まあ、アレだな。クゥってひょっとして、蠍が苦手だったか?」
クゥリス 「な、何でわかったんですか?」
少し驚いた様子のクゥリスを見、琉都は表情を緩める。
琉都 「ただの蟲よりも凄い反応だったから、すぐにわかったさ。」
そして堪えきれなくなったのか、ついに笑い出してしまった。
クゥリス 「そんなに凄い反応でしたか?」
少し照れたのか怒ったのかよくわからない表情で、クゥリスは訊ねた。琉都は笑いっぱなしのまま、どうにか肯く。
そして次の瞬間、ぴたりと笑い止んだ。
琉都 「まあ俺も、そう言えた立場じゃ無いけどな。…いや、俺の方が情けない立場か?」
クゥリス 「訊ねられても…」
琉都 「それもそうか。 でも俺の場合、野生のパンダに襲われたのが原因で、未だにパンダが怖いからなあ。」
そしてパンダを思い出したのか、一瞬だけ表情が強張るが、すぐに元に戻った。
クゥリス 「パンダ?」
琉都 「あぁ、そうか。こっちには居ないんだっけな… 耳と目の回りと腰の辺りと両手足が黒い、笹を食べる白地の熊…かな。」
特徴を一つ述べる度、琉都は恐怖に顔を強張らせていきながらも、丁寧に説明した。
クゥリス 「へぇ、そんな生物が居たんですか。」
異世界の珍しい生物の話を聞けた事で、クゥリスは嬉しさで些か興奮しながらもそう言った。まあな、と琉都は思い出した恐怖に顔を強張らせたままで、不自然なまでにギクシャクとした動きであるものの肯定した。
歌姫が居ると居ないとでは、ここまで暮らしも違うのだろうか。
フォルティッシモ分家の浴場はそれなりに広く、さらには個人レベルで掘った温泉が湧き出ており、それが常に浴槽に一定量だけ溜まる仕掛けになっているようだった。
さすがに袍の手入れは自分でしなければならないのか、とどうでもいい事を考えつつも、琉都は薄い赤色の湯に浸かっていた。
琉都 「……ふぅ……」
心地よさにため息などもらしてみたりもいたが、どうにもおちつかない様子である。
それでもゆったりしてみようと努力している所で、不意に脱衣所との仕切り扉がノックされた。
琉都 「ふへーい?」
何とも脱力した返事だが、今の彼そのものが脱力しようと努力している所だったため、仮に誰かが見ていればそんなもんだろうなと納得してしまうだろう。全身脱力しているのだから。
イング 「着替えはここに置いとくわねー。」
どんな着替えなのだろうかと僅かに不安を感じつつも、琉都はもう一度脱力しきった返事を返す。
イングはそれを確認すると、脱衣所を出ていったようだ。足音と湯煙+すりガラスの向こう側の影でしか確認はできないが、そうだろうと琉都は思った。
しばし時あって、フォルティッシモ家裏庭。
琉都はイングの古い作業着(予想通り下はスカートだった)を着て、袍をタライと洗濯板で洗っていた。その様子をイングが少し離れた木陰で、何が面白いのか笑い顔で見ている。
しばらくは無言で洗濯──いや、今やっと袍に移り、その前は仕込みを洗っていたので手入れか──していたが、笑い顔に琉都は訳も無く苛立っていたのだろう。ついにキレたようだ。
琉都 「何が可笑しい?」
不意な怒気を押し隠しつつの質問に、イングは一瞬だけキョトンとした。だが二瞬後には、より一層の笑顔を向けた。
イング 「何も別に? ただ私は、よく着こなせているなあ、と思っただけだけど。」
その答えで、琉都はより一層不機嫌な顔になる。今朝感じていた不快感もまだ残っていたが、それ以上に怒りが増してしまったのだろう。
琉都 「嫌がらせみたいな褒め言葉をありがとう。」
イング 「嫌がらせなんかじゃないけどね。」
琉都 「…最高の嫌がらせだ。」
むすりと黙り込み、琉都は袍を洗う事に集中しようと、乱暴に洗濯板の上で袍を動かした。
イング 「あんまり派手に動かすと、布地が擦り切れちゃうわよ?」
親切心からかイングは、適切な警告を発した。琉都は反発心からか余計に激しくし、そして一瞬だけ後悔の表情を浮かべ、結局は元の速度に戻した。
またしばらく無言の時間が開く。
タライの石鹸水を捨て、井戸水をたっぷりとはる。この中に袍を入れ、そしてもみ洗いすればすすぎは完了だ。
琉都は一連の作業をする間、ずっと黙っていた。しかしもみ洗いを始めると、今度はまた暇である。
何か暇つぶしは無いかと探したが、結局は話す事しかできない。洗濯機が無いと、ここまで労力が必要になるのだ。
琉都 「イングさん。クゥが蠍が嫌いな理由って、何か思い当たる事はあるか?」
自分でも何を話しているのかと面食らいながらも、琉都は唐突に話題を振ってみた。
イング 「あー…蠍。うん、まあ、思い当たる節が無いじゃ無いけど──」
琉都 「言い辛い?」
しかしその予想を裏切り、イングは面白そうに話し始めた。
イング 「逆に面白いの。 そうねぇ、確かあれはクゥが…赤ちゃんの頃ね。」
何歳だったか言おうとしたのだが、忘れてしまったらしい。
しかし気にする事をせず、話を続ける。
イング 「あの子、今じゃもう治ってるけど、3年くらい前までは鼾がひどかったのよ。」
琉都 「へえ。今の様子からじゃ予想もつかないなあ。」
イング 「でしょう? でも、ひどかったの。で、鼾って大口あけてかく物でしょ。だからそこに蠍が──」
思わず想像してしまい、琉都は思いっきり顔をしかめた。
琉都 「嫌だな…。って、この辺りに蠍が?」
イング 「ファゴッツの思い出。クゥ以外の家族全員と、キャラバン仲間が知ってるだけだけど。」
そう言ってイングは何が可笑しかったのか笑い出した。
どんな反応をしたんだろうなあ、と考えてみて、琉都も思わず笑ってしまった。赤ん坊と言うのは、思いもつかぬ反応をする事があるので、色々と思いつく事ができるのだ。
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やはり家族が揃う方が食事も美味しい、とイングが呟いたのを、琉都もクゥリスも聞き逃さなかった。沙紗も聞き逃していなかっただろうが、あえて無視している節があるようだ。
琉都 「…どうする?」
何を、とは特に言わない。だがクゥリスはとりあえず意を汲み取れたらしい。
クゥリス 「私が言います。」
琉都 「わかった。」
何時の間にか食べ終えて食器を片付けようとしていた沙紗を引き寄せ、琉都は黙々と食事を再開した。
何かこそこそと話しているのは、イングはとっくに気付いていたらしい。しかし何を話しているのか聞かない辺り、単性世界であるアーカイアの人間としては物凄く気が利くのではないだろうか。
クゥリス 「あ、あのね、お母さん。」
おずおずと切り出すクゥリス。琉都は特に口出ししようとせず、いやむしろしないために食事を黙々と続けた──今日の夕食はシチューとサラダだった。
イング 「何?」
クゥリス 「あの、えっと…」
言葉に詰まったのだろうか。琉都は一息つくついでに、助け船を出そうかと思った。
しかしそんな考えは杞憂に過ぎなかったらしい。
イング 「言える事だけ、全部言ってみて? クゥの言いたい事、当てて見せるから。」
クゥリス 「えっと…修行し直そうと思うんだけど、その。」
イング 「修行場のアテはあるの?」
クゥリス 「あるよ。だからそこで、何か修行して、もっと凄くなって…」
イング 「いいじゃないの。行っておいで、私の自慢の子。」
クゥリス 「…うん! ありがとう、お母さん。」
あとがき
(黄昏時、どこか高い建物の屋上で風に吹かれつつ)
どーも。無理矢理UPしたかったんじゃないかとか言われると困る、センジン リュウトです。
「そーかなー。わたしはそうは思えないけど…」
今回はソフィアがパーソナリティーのようです(微喜)
「あ、読者のみなさまこんばんわ。おはようかもしれないし、こんにちわかもしれないけど。 この作品の真のヒロイン、ソフィア・エルファイムだよ。」
…誰が真のヒロインか。一応は某がヒロイン──のつもりなんだけどなあ(汗)
「でも、選択基準って何なの?」
あとがきの出演の、か? あー…txt->htmlする時の勢いとテンションとノリ。
「…極めてテキトーだったんだね… 狙撃手適正が−5。」
…何か厳しい採点をされてる気が。
「気のせいだよ?」
さて。2話分とアルゼには豪語したわけだが、どうやら1話分に纏まってしまったっぽい。
「…。」
そんな圧縮硫酸噴霧砲的な作品になっちゃったわけだけど、コンセプトを一応は頭の片隅に置いて書いたわけで。
「ほんと、片隅だけどね(ボソッ)」
一言多いな。ヒロイン適性−2。
「あ、じょ、冗談だってば(焦)」
ふーん…
「あ、えとさ。じゃあそのコンセプトって?」
コンセプトと言う言葉の意味を100%理解してる訳じゃ無いから、ちと外しててもツッコミ無用な。 『家族、親子の暖か味』
「…。」
…。
「…本当に、それでよかったの?」
うん、まあ、苦手分野な訳で。後半はもうテキトー。
「そりゃだめじゃん!(ツッコミ)」
で──
「シッ! 標的を確認したから、続きはまたこんどにしよ。」
…御都合主義的な…
「そだね。 じゃー、作者はわたしを引き立てる方向に頑張ってねー(ライフルのスコープを覗き込み、全神経を集中)」
へいへい…。 さて、それでわ読者の皆様、何だか一層適当感が増えたにも関わらず最後まで呼んで頂き(ですよね? あとがきだけ、ってんじゃないですよね?)、誠にありがとうございます。それでわ次は、『弐半章 壱』でお会いしましょう。さらばーッス!