琉都とクゥリスが
日が昇ってはたたき起こされ、日が沈むまで自然の中で過ごす。それだけが日課になってしまいそうなほど、毎日が単調だった。
「──とか思ってるやろ!」
「いや、今までの全部
日が昇っては云々の語りは、全て沙紗によるものだ。
琉都の適切なツッコミは無視し、沙紗は熱っぽく弁をふるう。
「もうクゥリスちゃんもこっちの空気に慣れて、走れるくらいにはなった事やし。予定調和、万事順調。うん、良い響きやぁ」
うんうん、と一人で大仰に頷く。
もはやワンマンライブか、と琉都は諦めたようにため息をついた。クゥリスは話の速度に付いてこれているのかいないのかすらわからない。
時々──毎日三回、沙紗は必ず一人で漫才をする。ファゴッツ訛りは
「7日! たった一週間で、肺活量トレーニングは終了やで! いやぁこりゃ先の思いやられる生徒やがな」
「思いやられるって…」
もちろん唯単に言い間違えただけだろうが、一応は日本人である琉都は顔をしかめた。
沙紗はそれすらも完璧に無視し、一人で漫才を続ける。
「ちゅーわけで、今日からは
おー、と琉都とクゥリスは気の抜けた合いの手を入れる。
「やっぱ監督がウチみたいな名監督やと、育つもんは育つんやなぁ…」
一人だけで悦に入っている沙紗。
「別に普通の人でも、葡萄は凄く育ちますよ」
「あ…」
ぼそり、とクゥリスがツッコミを入れる。
それを聞きつけたのか、沙紗は耳をぴくりと動かした(普通の人間の耳と同じだが、彼女はそういう所で器用だ)。
地獄の底の呪怨の声かと聞き間違わんような声で、
「なぁぁぁんやてぇぇぇ?」
と言いながら振り向く。
恐らく五歳未満のお子様かレイが見たら、気絶するか泣き出すだろうな。琉都はもうどこか遠くへと避難した意識で、ぼんやりとそんな事を考える。
が、クゥリスが怖れるものは蠍だけなのだろうか、さらに言葉を続けた。
致命的な失言を。
「それに沙紗さん、何もしてなかったです」
「あー…」
あー、は琉都の呆れたような声だ。別に肯定も否定もしない、中庸の声である。
しかし今の沙紗にはそれすらも悪意的に受け止められるのだろう、顔の基本造形が崩れかねないような恐ろしい微笑みを琉都に向けた。
「あー、て何や。あー、て…」
どう切り抜けるかなど、もう琉都のわずかに残された思考力では到底考え出せそうに無い。
もう本当に笑うしかできないような恐怖を、琉都は全身で感じていた。
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1時間後。
三人は浜辺に立っていた。
ハイリガーの姿が遠くに見える以外は、何も無いただの砂浜である。
「ちゅうわけで」
「どう言う訳でだ」
思わずツッコミを入れる琉都。沙紗はさらりとそれを受け流し、話を続けた。
「クゥリスちゃんにはこの辺りで歌術強化トレーニングをしてもらうわけや」
この辺りで、と呟くように繰り返し、クゥリスは辺りを見回した。
そしてしばらく目を閉じ深呼吸でもしているようにするが、すぐに目を開く。
「幻糸が薄いですけど」
何かの間違いなのだろうかと言いたげに、沙紗に問い掛ける。
そらそうやろうな、と沙紗はあっさりと認めた。
「大気中だけに幻糸が普遍に在るに限るわけやあれへん。そもそも幻糸っちゅうんは流体、つまり液体やねんで」
「ほお」
琉都は感心したように呟く。
それをさらに無視し、沙紗はまたワンマンライブ状態に入りつつあった。
「ここでは幻糸は流体とほぼ同等の特性を示し、それ故に幻糸の海っちゅうもんを構成しとるんや。せやで歌術のトレーニングは海中で行わんならん」
そう言い沙紗は、目の前の海を──広大な海を指差した。見る限りではただの海なのだが。
沙紗はどこまでも自信ありげに胸を張り、声高らかに
「これだけの質量の幻糸を自在にできてこそ歌術師としての神髄に通ず、や」
と言い切った。
「そ、そんなものなんですか…」
クゥリスはかなり引き気味に相槌を打つ。
琉都は自分に関係ないと思っているのか、すぐ近くの岩に腰掛けて頬杖をついていた。
「せや。そういうもんなんや。──おっと、それから修行中は逢瀬禁止な」
「…逢瀬?」
言葉の真意を掴みきれず、琉都が横から口をはさむ。
やけに真剣な表情で肯くと、沙紗は重々しく
「
と語った。
「あー…なるほど、確か女
せや、と沙紗は肯く。
そうかだからか、と琉都はあっさりと納得したようだった。決してその手の事に詳しい訳では無いが、人並みの知識であれば持ち合わせていたわけである。
が、当のクゥリス本人はどうにも納得できないようだった。
「でも夜になってあの家に戻れば、嫌でも琉都さんと会えますよ」
無駄な抵抗と知ってか知らずしてか、最終手段となったであろう事実を使ってしまう。
しかし沙紗はその言葉でも、さっぱり動揺した風が無い。むしろ面白そうに笑っていた。
「誰が建物があれ一つだけやなんて言うた?」
「…え?」
にやにやと意味不明の笑みを浮かべる沙紗。
沙紗の言葉を今一つ理解できていないクゥリス。
琉都はその様子を、第三者的に傍観している。
「クゥリスちゃんには、先住者の家で居候してもらう。あの種族やったら男はおれへんさかい安心や」
先住民、と二人は少しだけ顔を見合わせた。
「ちょっと待て。確かここの時間は──」
「彼女らは時間を気にせえへんさかい、時間が止まっても無頓着やねん。獣が時間を把握しいひんのと同じ理屈や」
「???」
先住民族と言われれば、まず人間であると普通は考える。
だが時間を気にしない人間など居ない。
この二つが矛盾している事にしっかりと気付いた二人は、堂々巡りに陥ってしまったようだ。
沙紗はそれを見て取るまでもなく、素早く言葉を繋ぐ。
「彼女らは魔術ドラゴノイド種族の一つ、
「ノルニル? シンボル? 何だそりゃ??」
「あぅ…余計にわからないです」
さらに混乱したようだ。
あちゃあ、と沙紗は舌打ちする。
「まあ行ってみればわかるやろ。今日はとにかく、修行の内容を言うで」
「はい…」
いくら葡萄が育つと言っても、水もやらなければすっぱい葡萄になるかもしれない。
そう皮肉を言ってやればよかったかな、とクゥリスはがらにも無い事を考えてしまった。
ちなみに沙紗が説明した修行内容は、ただ単に『水着になって海に入り、より多くの幻糸海水を操れるようになる』と言う物だった。
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さらに2時間後。
三人は山頂の湖畔に居た。
湖は意外と深く、落ちれば登る事は困難なように琉都には思えた。
「ここで何をすればいいんだ?」
琉都は崖っぷちにしゃがみこみ、湖面を睨みながら沙紗に訊ねた。
「軽石があるやろ?」
沙紗が指差した先を見れば確かに、直径1ザイルから5ザイルほどの何かが浮かんでいる。
風で波紋が発生する度に揺れる所を見ると、湖面に浮かんでいるのだろう。
「あるな」
琉都は頷く。
「あれを跳び移りながら、飛んで来る物を捌くんや」
沙紗はそう言うと、手近にあった石を放り投げた。
コォン、と音をたてて軽石に石がぶつかる。と、何かが湖から飛び出し、石を砕いた。
「え…!」
何が飛んだのか目で捉えきれなかったのか、石が砕けた事そのものに驚愕するクゥリス。
琉都は立ち上がると、ふちから少しだけ離れ、腕を組んだ。
「
そやな、と沙紗は肯く。
「血のニオイを嗅ぎ付けると、ああやって肉を食い千切るんや」
そう言うとさらにどこからか生肉を取り出した。そしてそれを湖の上に放り投げる。
と、肉が水面に付くかつかないかの瞬間、接水予定の湖面が泡立つ。そして次の瞬間には、水に入ったのは粉々に砕けた骨の欠片だった。
「……」
もう言葉も無いのか、クゥリスは焼け蛤のように口を開けたまま突っ立っている。
「おい」
「何や?」
「もうちょっと安全なのは無いのか?」
琉都は真面目な顔で訊ねる。
だが沙紗は肩を竦めると、
「これが一番安全な修行の一つや」
と言い切った。
そうか、と琉都は案外あっさりと承諾する。
「けど心より肉体が鍛えられそうな気がするのは──」
「気のせいや! 全く、完全に、実は違うけど、気のせいやで!」
ふぅん、と鼻を鳴らすが、琉都は肯いておいた。
そして早速修行を始めようと、手近な軽石に跳び移ろうとする。
が、沙紗に抱き留められた。
「なッ!」
急に止められ、バランスを崩しかける。
だが何とか踏み止まると、琉都は思いっきり怒鳴った。
「何しゃーがる!」
しかし沙紗は全く驚きも怖がりもせず
「そんな重たい格好で行ったら沈むがな」
とだけ言う。
琉都は思いっきり威嚇的な表情をしながらも、隠し武器の仕込みがしてある上着(袍。手っ取り早く“某水をかぶるとアヒルになる隠し武器のエキスパート”が着ている服を漠然と思い浮かべて欲しい)を脱ぎ捨てた。
「これで、いいんだよな」
無造作に地面に袍を投げ捨てると、シャツとズボン──これらは普通の物だ──だけの格好になった琉都は軽石に跳び移る。
軽石は水に対する比重が軽すぎるのか、足場としては不安定であるものの、琉都が乗っても沈むような事だけは無さそうだった。
「あんまり強く踏み込むと、石が割れるで気ィつけてな」
沙紗はそう言って、これまたどこから取り出したのか儀式用らしき槍──むしろハルバード(斬、突の両方に適した長得物で、片面に斬撃用の刃がついたスピアーのような物)──を渡す。
全体で2ザイルほどの長さのその槍は、まるで風のように軽い。琉都は予想していた重さとのギャップで一瞬だけバランスを崩すが、すぐに事実を受け止めた。
「わかった。気を付ける」
僅かに風を纏うハルバードを携え、琉都は身軽に──風のように身軽に軽石を跳び移って、湖の中心部へと向かって行った。
「さて、クゥリスちゃんも修行しぃ。やる気があるんやったらな」
「え? あ、あります! やります!」
よっし、とどこか琉都に似た──どこか寂しげな笑みを浮かべると、沙紗は山の斜面を下って行く。
クゥリスもそれを追い、斜面を下って行った。
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海に歌が響き、それに従うような形で海水がぐねぐねと渦巻く。
よく見れば海水が幻糸の力で微かに輝き、織歌の構成をしているのだと知れるだろう。
沙紗は優に高さ5ザイルはある岩に腰掛け、胸元あたりまで海水に浸かっているクゥリスを見ていた。
クゥリスが何を歌っているのかは、沙紗にもわからない。
だが初歩の織歌である事だけは確かだ。
長い時間に渡って高等な織歌を歌い続けると幻糸が体内と体外の両方で飽和してしまうため危険だと、クシェウ──
が、沙紗にもわかる事があった。
(音程がずれとるし、リズムもあやふや、声量も今一つ…致命的なまでに自信が無いんやな…)
幻糸と言う物は、言わば耳の肥えた観客である。
下手な歌であれば効率が悪く構成も雑になり、完璧な歌であれば効率も100%を超え構成も緻密になる。
そして自信があれば自然と声量も大きくなり、より広域にある幻糸を使う事ができる。
それ故に歌術師──
プラスの経験も、マイナスの経験も。
今クゥリスがしているのは、マイナスの経験だろう。
沙紗はそう判断し、岩から飛び降り砂浜に見事な着地をキメた。
「クゥリスちゃん、ちょっとええかな」
歩み寄りつつ、
すぐに気付いてクゥリスは歌うのを止めた。
「はい?」
「声、大きく出してみ。声が小さいのが一番悪いわ」
きょとんとした顔で、クゥリスは訊ねかえす。
「小さいですか?」
「あれで全力っちゅう訳ちゃうやろ。ええから全力で歌うてみ、リズムはとったるさかい」
しばらく考えた後、クゥリスは「はい」と肯いた。
そして海の方を向き、歌う体勢を整える。
(素直でええ子や。けど、それでは琉都とは近うなれへんわな…)
無駄な事を考えながらも、沙紗はクゥリスに指示を出す。
「ほな行くで。はい1、2、3…」
1、2、3、4、と沙紗が手を叩く。
それに合わせて、クゥリスは思いっきり声を出し、歌った。
幻糸を多量に含む海の水が、天を貫く巨大な水柱となり、月のように輝く。
沙紗は、その光景に畏怖を感じてしまった。
曰、自分はとんでもない事をしているのではないか、と。
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光の水柱が立ってから数日後。
沙紗は湖に浮かぶ軽石の上で、玄大剣を構え琉都と対峙していた。
「どのくらい強うなっとるか、ちょっと試したるわ」
「…応」
しばらく一人で居たためだろうか、琉都は喋りかたがどこかぎこちない。
一言だけで返事をすると、ハルバードを六角棒のように頭上で構えた。
「行くで!」
「来い!」
それぞれは言葉を発すると同時に、軽石を跳び移り始めた。
琉都と沙紗の間合いは地上なら10歩はあったろうが、ここでは軽石2つしか間に無い。故に空中での一瞬の攻防となる。
琉都が斬り付けたのを沙紗は大剣で横へと軽く押しやり、そこから全身を捻って攻撃に移る。
だがその沙紗の攻撃を予想していたように琉都は、ハルバードを力任せに振り下ろしその反動で自分の身体の落下を僅かに遅らせた。
沙紗は横、琉都は縦の回転をしながら軽石に着地する。
右足を軸に左足を大きく振り、沙紗は摺り足で琉都の居るはずの方向を向いた。
着地時の衝撃を吸収するために膝を大きく曲げ、さらにそれをそのままバネにして琉都は違う軽石に跳び移った。
片足で立ち、ハルバードを頭上に掲げるようにして構える琉都。
「【光、闇、在りし物、天命の理に背き鋼鉄の現実に僅かな爪痕をつけよ! 破光弾!】」
沙紗が早口に唱えながら印を切ると、何も無いはずの空間から光弾が琉都へと飛来する。
「何ぃ!?」
琉都は思わず三眼までも見開きながら、軽石を跳び移る事で光弾を躱す。
光弾が着弾した湖面は砕け、そして水で在るためにすぐに元に戻った。
「まだ行くでぇ! 【風、地、感じさせし物、血の盟約に基き偽りの姿を以て裂け! 風裂牙!】」
今度は風が唸りを上げ、湖面を割りながら琉都へと飛来した。
「破ッ!」
琉都は気合と共に風を僅かに纏ったハルバードを振り下ろし、その湖面を割る物を叩き斬る。叩き斬られた何かは存在できなくなり、現実に打ち負かされ霧散した。
霧散した何かを目隠しに、琉都は軽石を渡って沙紗に斬りかかった。
決して広くない、直径6ザイル半ほどの歪な軽石の上で、琉都と沙紗は刃を交える。
ハルバードが玄大剣を強かに打つ。だが沙紗の細い腕は痺れと言うものを知らないのか、それをあえて受け止めた。そしてその直後の一瞬の隙に、沙紗は左掌を琉都の腹部へとあてる。
ズドン、と軽石が音を立てるほどの踏み込み。
「ガぅっ!!?」
琉都は獣のようなうめき声を上げると、衝撃に耐えられなかったのか倒れ込んだ。
何で負けたんだろう、と琉都は呟くように自問した。
沙紗は体力と気を回復させる薬草を採りに森へ分け入っていて、ここには居ない。
しっかりとすべき事はしていたし、何度も戦いを経験して来た。なのに何故。
答えが貰えるものではないと知っていながらも、答えはないものと知っていながらも、琉都は呟くように自問した。
そしてふと、自分が強くなりたいと思っている事に気付き、自嘲するように笑った。
誰も傷つけないために、誰かを傷つける。そのための力を求めているなんで。
矛盾している。
(…いや、戦争の最中だ。全て守ろうなんて考えるのが馬鹿なんだろうなぁ…)
頭では理解していた、つもりだった。戦争は、破壊と殺戮を本性とする人間が、発展のために引き起こす、一大イベントであると。
考えてみれば琉都自身も、仲間やクゥリスを守るためになら、平然と人を傷つけている。自分を保守するためなら、誰でも誰かを傷つけるだろう。
殺す事も琉都は容易に想像できた。アルゼを、ソフィアを、ルィニアを、アメルダを、琥露鬼を、レイを、クシェウを、イングを、名も知らぬ誰かを。
(…? クゥは? クゥを殺す事は?)
自殺する所を想像できないのと同じくらいのレベルで、琉都はクゥリスを殺す所を想像できなかった。いや、しなかった。
想像しようとしても、ただ罪悪感と寂しさしか想像できない。漠然とした映像すらも、まったく思い浮かべる事すらできないのだ。
いつも見ている顔のはずなのに。
いろんな表情を知っているはずなのに。
誰よりも、知っている、はずなのに。
琉都は、想像する事ができなかった。
いや、したくなかった。
例えそれが想像であっても、クゥリスの死に顔など、見たくも無ければ、考えたくもなかった。
人は琉都のこれを、何と呼ぶのだろうか?