無題迷話 〜アラタナル〜
第参頁
霧の森。
そんなタイトルの絵画を見た事があるような気がしたが、絵では到底現実のそれには及ばないな、と琉都は思った。覆い隠す力と言う物が違い過ぎる。
シュツルムの視界をフォルシェンモードにして何時間か森をさ迷い歩いているが、いっかな奇声蟲のノの字も見てはいない。だがソフィアもリサも、何匹か取り逃がしたと言っていた。理屈の上では、少なくとも1匹は居ておかしくない話ではないか。
「俺の時だけ出てこないってのは、絶対におかしな話だ…。 なぁ、クゥ?」
「私に振らないで下さいよ」
クゥリスは少し困ったようにそう答えると、フォルシュエン・フォーァリヒトゥングの機能を補佐するために短い織歌を紡いだ。
紡ぎ終えてから溜息を一つ漏らし、首を横に振る。
「私は、奇声蟲には遭いたくないんですから」
「そうは言っても、目の前に一匹だけお出ましだ」
琉都はデヴァイスに補助されているシュツルムの視界で霧を見通しながら、不謹慎ではあるが少しだけ嬉しそうに言った。スイッチを押して視界をフォルシェンモードから通常モードへと切り替え、戦闘起動の瞬間にかかる過負荷でデヴァイスが壊れないようにする。
霧が冷たいからとコクピットに押し入ってきていたクゥリスは、琉都に指で突つかれてやっと戦闘起動しなければならないのだとわかったようだ。ごそごそと琉都の膝の上に座り直し、一つ咳払いしてから歌い始める。
シュツルムのエンシェントドライヴが猛る虎の如く轟と咆哮し、双眸に鋭く力強い戦闘起動の光が宿った。奏甲と一体になっているが故の力がみなぎるような感覚に、琉都は唇の端を舌で軽く舐めた。
「巣穴まで逃げ帰ってくれよー…」
一言そう呟き、琉都はわざと見当違いの場所にサブマシンガンの鉛弾を叩き込んだ。
クゥリスの体を押しのけるようにしてフォルシェン・フォーァリヒトゥングの起動スイッチを押し、奇声蟲が逃げ始めた事を確認する。
一端の多脚戦車を気取っても大丈夫なようなその大柄な奇声蟲は、身体の大きさに見合わずに小心者であったらしい。森の木々をへし折るくらいは軽くやって見せながら、真っ直ぐに巣穴に向かっているようだった。
時折、思い出したようにサブマシンガンで追い立てながら、琉都はその後を尾行する。
『琉都さん、何するつもりですか…?』
クゥリスは琉都が何か企んでいると察したのだろう、不安そうな思念でそう訊ねた。しかし琉都は一つ笑い
「まあ見てろ」
と言ったきりで、後は黙々と奇声蟲を追っている。
この森に巣食っている奇声蟲の群の規模はそう小さくも大きくも無く、確か貴族種を含めて35匹程度だったと琉都は憶えていた。そして今までの奇声蟲の在り方を観察する限りでは、貴族種を護衛するために数匹程度の蟲がつねに寄り添い、後は皆勝手な事を決められた縄張りで行うのがセオリーだ。
しかしソフィアとリサがそれぞれ10匹ずつ退治したと誇らしげに一昨日昨日報告していたので、残るは単純計算で15匹。貴族は仲間が20匹以下になると、自分の周囲を固め始める。
もし琉都の思ったとおりならば、今丁度その数なのだ。
しばらく奇声蟲を追っていたシュツルムは、大きくも無い洞窟の前で足を止めた。
「ここかな。…クゥ、霧も晴れたし、降りるか?」
『一緒に行きます! 例えそれがどこでも…』
そうか、と頷くと、琉都はシュツルムに腰からスモーク弾を取り外させた。巣穴にそれを放り込み、数秒後に「シューッ」という音と共に煙が充満する事を確認する。
シュツルムは一見して無造作に洞窟の入口前に仁王立ちに立つと、両肩の80mm連装幻糸砲を照準した。ただし狙うのは、洞窟の入口である。
「臭い物には蓋を、奇声蟲には生き埋めを、ってか?」
洞窟の奥から音源が近付いてくる事を確認しながら、琉都は80mm連装幻糸砲の左側だけを放った。
幻糸砲の砲口から、白熱の幻糸が迸る。光は照準されていた岩をいともあっさりと爆砕し、それは奇声蟲の眼前でちょっとした岩雪崩を引き起こさせた。
が。
──ギュアイィィィィィッッ!!
大型奇声蟲の気合の一鳴きと共に、奏甲の半分ほど──三万シュタイン程度──もある岩塊は、いともあっさりと弾き飛ばされる。だがその大型奇声蟲に、白熱の幻糸が三条も襲いかかった。
80mm連装幻糸砲は、チャージ時間が短い事が特徴である。それ故に、片方を撃つその間に、20%出力での砲撃は可能となるのだ。だが射程と威力は落ちたが、それでも蟲退治には十分すぎる。
次々と湧き出す近衛兵種に白熱の幻糸を次々浴びせながら、シュツルムは片手で刀を抜き放った。
「面倒! 撃ち漏らしが無いように、ここでまとめて消し去っちゃる!」
『琉都さん、訛りが出てますよ…』
クゥリスの冷ややかなツッコミを無視できるほど、今の琉都は昂ぶっていた。
シュツルムは貴族種がやっと這い出る事のできる程度の穴の前に立ちはだかると、両肩の幻糸砲にエネルギーを充填しながら刀を構える。サブマシンガンで対抗すると言う手もあるのだが、琉都に射撃のセンスが無いため、所詮は下手な鉄砲も数撃ちゃ…である。
だが刀であればそれなりに戦えるため、シュツルムは次々と近衛兵種を斬り殺していた。見る間に5匹は倒され、幻糸砲出力もその頃には60%に達する。
「六割で十分ッ!」
シュツルムは刀を鞘に戻すと、少し離れた場所で80mm連装幻糸砲を照準した。漠然と前方に照準を据えこそしたものの、30%以下の出力とは訳が違うので問題はない。
わらわらと穴から湧き出す奇声蟲が有効射程からはみ出ようかと言う頃、穴から貴族種の一部が見えた。
その刹那。
──バシュウゥゥッッ!
シュツルムの両肩の砲から白熱の奔流が流れ出し、洞窟周辺の物体をごっそりと消滅させた。少なくとも、奇声蟲を一網打尽にできた事は疑う余地も無い──遺骸がないので数えられないのを除けば。
『…もう終わりですか?』
あまりの呆気なさに少し気が抜けたのか、クゥリスがそう訊ねた。
「ああ。ま、MAP兵器ってのはこんな物だろ…強力すぎる気もするが」
琉都はそう言うと、フォルシェン・フォーァリヒトゥングの切り替えスイッチを押し、シュツルムの視界を通常モードに戻す。
少し無駄に歌った後、クゥリスも戦闘起動のための織歌を紡ぐのを止めた。
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絶対奏甲を奏甲小屋に置くのに一苦労し、その後に年端もゆかぬ子供達の夢を壊さぬ事に二苦労もしてから、琉都とクゥリスはやっと『家』に戻れた。
『家』とは言うまでもなくツェルト村での仮宿の事であり、決してそれ以外の意味は持たない。だがたった一日しか使ってないにも関わらず、琉都を含め全員が『家』に何がしかの執着を見せたのは事実だ。
戻る途中で野菜やら乾し肉やらを貰ったりしたためにすっかり増えてしまった荷物をテーブルへ解き、琉都とクゥリスはほぼ同時に一息つく。だが琉都は一息ついただけで、すぐに荷物を持って台所へと向かった。
「クゥ、疲れたろ? すぐに茶を沸すから、ちょっと待ってろ」
「…はい」
琉都さんの方が疲れてそうですよ、と言いたくなるのを喉元でどうにかこらえて、クゥリスは頷いた。
琉都が台所に消えてから数分後、こぽこぽと楽しげな音をたてて湯が沸騰しているのが聞こえ始めた。それに混じって、ほぼ消え入りそうな琉都の鼻歌も。
機嫌がいいのだろうか、とクゥリスは思った。
「琉都さん?」
「…♪…♪… ん? 何だ?」
クゥリスに声をかけられたのに気付き、琉都は台所から顔だけひょこっと出した。
「いえ、何でもないです…」
しばらく沈黙した後、クゥリスは少し落ち込んだようにそう言った。
「あ、そう」
琉都はさっぱり心情を察さないまま、丁度良い感じに沸騰し始めた鍋の中身をティーポットに少しだけ移す。
しばらく蒸らした後、ティーポットの中の湯を捨てる。そこに茶葉(何と言う種類か琉都は知らなかったが間違いなく紅茶の一種だ)を少し放り込むと、ゆっくりと湯を注いだ。台所の片隅に置いてあった紅茶用砂時計をひっくり返し、ティーポットを置いておいた盆の上に乗せる。
この建物に以前住んでいた人達は、どうやら紅茶に凝っていたようだ。紅茶用砂時計を始めとして、各種の紅茶用品が揃っているのを見て、琉都はそう確信した。
盆にティーカップとティースプーン、それに黒砂糖の塊が入った小壷と温めておいたミルクポットも乗せ、琉都はそれをテーブルへ運ぶ。
「後は待つだけだな」
クゥリスの座っている向かい側の席に座り、琉都はそう呟いた。色々な意味があるのだが、恐らくこの場合は紅茶が美味しくなるまでと言う事だろう。
砂時計の砂がサラサラと落ちきるのを見計らい、紅茶をゆっくりと注ぐ。あまり急ぎ過ぎると、風味が逃げ出してしまうのだそうだ──根拠はないが。
「さ、めしあがれ。…そう言えるほど大した物じゃないが」
琉都は片方のカップをクゥリスの前に置きながら、そう言った。
「あ、はい…。いただきます」
クゥリスはそう言い、黒砂糖を入れずに一口飲んだ。
少し甘く、少しすっぱい、レモンのような味だった。
一口飲んだだけで、思わず溜息が漏れてしまう。
「…ふぅ…」
「んー…自分でいれるとどうも上手く行かないな」
琉都はそう呟くと、黒砂糖をもうひとかけ入れ、さらにミルクを少し入れる。白磁のカップの中でマーブル模様が渦を巻き、しばらくして紅茶全体に淡い白みを与えた。
もう一口だけ飲み、クゥリスはカップを置いた。まだ中身は殆ど残っている。
「あの…琉都さん」
「ん?」
カップの中の僅かに残るマーブル模様を眺めていた琉都は、視線をクゥリスに向けた。
「どした?」
「琉都さんは、その…」
少し言い辛い事なのか、クゥリスは紅茶の入ったカップに視線を落とした。
「…私の事、どう──」
「前も同じ事を聞いたし、同じ事を答えるさ」
さらりと言ってのけ、琉都はミルクティーを一口飲む。
「だったら、何で何もしてくれないんですか?」
クゥリスは少し哀しそうな顔をしながら、そう訊ねた。
「何かしていいのか?」
まだ甘みが足りないと思ったのか琉都は黒砂糖の小さな塊をミルクティーに放り込み、ティースプーンでカチャカチャとかき回す。だが少し口にして、甘くし過ぎたのか、僅かに顔を歪めた。
「いや、言い方が違ったな。 何かされたいのか? 一線を越えかねないのに?」
「それは…その」
ごにょごにょと口篭もってしまうクゥリス。以前、要らぬ入れ知恵をされたため、そういう事に関する知識を多少なりとも持ってしまっていたのだ。
ミルクティーの残りを一気に飲み干すと、琉都は甘すぎるからと言う理由だけではなく顔を顰めた。
「俺は自分を制御するのに、もう精一杯だ。変な刺激を受けると、過剰に反応するどころか、暴走し兼ねないからな…」
「…琉都さんは嘘つきですっ!」
いきなりクゥリスはそれだけ言うと、紅茶の残りもそのままに勢い良く立ち上がった。だがいきなり『家』を出て行ってしまうほどではなかったらしく、その場で硬直している。
琉都は特に焦る事も無く、落ち着いて二杯目の紅茶を自分のティーカップに注ぐ。
「確かに、俺は自分の欲望に嘘吐きだ…。そりゃ俺だって機奏英雄である前に一人の男、しかも発情期真っ盛り。そーいう事に興味が無いと言えば嘘だからな」
「でも琉都さんは、自分を御し損ねるなんて事、絶対にしませんっ!」
何を根拠にか、クゥリスはバンとテーブルを叩いた。テーブルに乗ったままのティーカップが少し跳ね上がり、がちゃりと音を立てる。
「そりゃ買い被りってもんだぞ、クゥ。信頼とは違い過ぎる」
落ち着いた様子を少し失いながら、琉都ははっきりとそう言い切った。
「信頼ってのは、相手の限界も知った上で、頼れる限りの事を頼る事だ。買い被りってのは、相手の限界を知らず、全部頼っちまう事だ。…わかるな」
「買い被りでもいいんです! 私は、琉都さんが、御し損ねないと思ってますからっ!」
もう一度テーブルを叩くクゥリス。
琉都もそろそろ限界なのか、飲み干して空にしたティーカップをテーブルに荒々しく置いた。
「分からず屋だな…。なら何故俺は、奏甲を──もう一つの俺の肉体を、幻糸炉まで制御できてない? 俺が自分を御しきれるなら、そのくらいできて当たり前だろ!」
「そ…それは…」
「絶対奏甲は肉体で操るに有らず、心にて操るなり。違うか?」
「…」
言い返す言葉に困ったのか、クゥリスは黙ってしまった。
琉都はここでやっと溜息を一つついた。そして座るようにクゥリスに目線で促し、自分自身も椅子に座る。
「気長に行こう。果報は寝て待て、って言葉を知ってるだろう?」
「でも、私だけ一人で気をもむのは、不公平ですよ…」
言いながら、クゥリスは冷め始めてきた紅茶を一口飲んだ。
琉都は軽く笑いながら、黒砂糖の塊を口に放り込む。
「一人だなんて思うな。クゥが俺に言う限りは、俺もクゥの問題を我が事のように思ってしまうんだから」
「だったら…」
やっと掴んだ糸口からさらに反論しようとするクゥリスを、琉都は手で制した。そして大きく溜息を漏らす。
「わかった、わかった。これはもう根負けって奴かな…。でも、クゥ、まずは紅茶を全部飲んでからにしろ」
「へ? …ぁ、はい」
クゥリスは大きく頷くと、口論している間に冷めて人肌ていどになってしまった紅茶を一気に飲み干そうとした。だが、冷めて人肌程度になった紅茶と言うのは、案外飲み辛いものである。
二度三度と息を入れながら、クゥリスはやっと飲み干した。
琉都はそれを見届けると同時に、すっくと立ち上がる。そして何故か窓の方を見た。
「…ここは駄目だな」
「何がですか?」
訊ねながら、クゥリスも椅子から立ち上がる。
琉都はづかづかと窓に歩み寄ると、容赦無く窓枠の下を覗き込んだ。そして手を伸ばし、何かをひっ捕まえる。
「猫が2匹。片方は喧嘩腰の強気猫、片方はトロくてちょっとドジな猫」
そう言いながら、琉都は窓枠の下からリナを摘み上げた。確かに首を引っ掴まれて持ち上げられていると、巨大な猫のようにも見えなくはない。
「…みゃーぉ…」
とりあえず猫の鳴き真似などして誤魔化そうとするリナ。
少し馬鹿馬鹿しくなったのか、琉都は手荒にリナを窓の外に放り投げた。案外体重が軽かったので、両手でやっとそういう事ができた。
「知らぬが仏ってのはこういう時に使うのかな。本当に、知らなけりゃ、よかった」
「白々しいですよ。実は最初っから気付いてたんじゃないですか?」
白けてしまったと言いたげにクゥリスが非難がましい視線を向けると、琉都は慌てて顔を逸らした。視線を合わせないように気をつけながら、ティーセットを台所へ持っていく。
とりあえず洗い物を済ませようと思って流しにティーセットを置くと、その拍子に窓からリサが顔を覗かせているのが見えた。
「……」
「……」
無言で睨み合う事数秒。
「…何で気にしないってのができねーんだよ、臆病者」
「知るか。俺は神経質なんでな。ノイローゼなんかしょっちゅうだぞ」
軽く冗談を言うと、琉都は水を汲むために裏口から庭に出た。
その隣りに1ザイル(垂Pメートル)程の間をあけて、リサが歩み寄ってくる。
「ノイローゼがしょっちゅうで機奏英雄が務まるのか。へぇ、そりゃ初耳」
「冗談だ。実は精神の過負荷で攻撃衝動が──」
ブゥン、と手桶を振り回す琉都。思いっきり直撃コースを狙ったのだが、リサは軽い身のこなしで躱してしまった。
「──こういう風に」
「危ねえじゃねえかっ! 当たったらどうするんだよ!」
「リナに治療してもらえ」
にべも無く言い切ると、琉都は手桶を井戸の近くに置いた。釣瓶を引き上げる。
「と、まあそれは置いといて。他のやからが近付かないように計らってくれたのはありがとな」
「同じ『家』に住む『家族』なんだろ、当たり前じゃねえか。ったく、デキの悪い弟の後始末ぁ全部アタイら姉の責任なんだからよ…」
ぶつぶつと呟きながらも、リサはまんざらでもないようだ。そのままどこかへ行ってしまうが、恐らくまた野次馬散らしに行ったのだろう。
琉都はフッと微笑むと、手桶に水を汲み、もと来た道を戻って台所に入る。
ティーセットを洗い始めると同時に、猫は皆居なくなったと氣でわかった。
何時の間に取り出して着たのか自分でも不思議に思いながら、琉都は胸にひよこのアップリケのあるエプロンで手を拭きながら広間に戻った。やはり猫の子一匹覗いてはいないようである。
クゥリスはどこか別の所に行っていたのか、琉都が広間に戻るのとほとんど同時に別の部屋から戻ってきたようだった。ぱたん、と後ろ手に扉を閉めている。
「クゥ」
「はい?」
琉都とクゥリスはほとんど同じくらいの歩幅で歩み寄ると、四分の一ザイル程度の間を置いて広間の中央で向かい合った。
琉都はあまり背が高くないので、クゥリスとは頭半分程度しか違わないと言う事がはっきりとわかる。
それでも一応は背丈の違いはあるのだなとちょっと安心しながら、琉都はクゥリスの顔を見た。今の所、何ら気落ちした様子は無かったし、それどころかまだ何か期待しているような節すら見て取れた。
「続き、するか?」
人が見ていなければどうしてこうも大胆になれるのだろうか、と自分でも不思議に思いながら琉都は訊ねた。
「猫はもう居なくなったんですか?」
クゥリスはそう茶化すように笑いながら、しかし期待を隠し切れずにそう訊ねる。
「喧嘩腰の猫が上手い事丸め込んだか、でなきゃ俺が気付けてないか。まあ気にしないでおこう」
「そうですね」
しかし二人とも、こう言ったきり動かない。
気恥ずかしいのだ。
それにどうすればいいのか、さっぱりわかっていないと言うのもある。
だがそれでも何かするのかと思うと、不思議に脈拍が早くなってきているのを感じていたのは、二人とも同じだった。
「…で、どうすりゃいいんだ?」
「そっ、それはこっちが聞きたいです…」
またしばしの沈黙。
琉都は何故だかしらないが、頭がくらくらしてきた。
(ええい、ままよ!)
えらく古典的な事を思いながら、とりあえずクゥリスにがばっと抱きつく琉都。クゥリスは一瞬身を固くしたが、すぐに抱きしめかえした。
しかしすぐには、それ以上は無い。
やはりどうすればいいのかわかっていないからだ。だが、二人とも自分の顔が耳まで真赤になっているのに気付いていた。
「ここまででストップかけるか」
琉都は自分の理性の安全装置がまだ余裕あるにも関わらず、そんな事を言い出した。だがクゥリスは首を小さく横に振る。
「あ…あのっ…。 キス…して…ください…」
そう言いながら、クゥリスは琉都の顔を見上げた。琉都は明らかに困惑しており、どう返事していいかわからないようである。
「キ…っ!?」
すでに耳まで赤い顔をさらに赤らめる事ができたなら、琉都は丁度そんな状態だったろう。
だが自分の事を見上げるクゥリスを見ている内に、内側から欲望が理性の網目をすり抜けて沸き上がってきた。
(このまま…クゥの唇を…本人も望んでいるんだ…構う事は無い)
それ以上のどす黒い欲望は、琉都の理性の網目に引っかかっているようだ。それでも確実なのは、欲望と言う物は満たされればより増えてしまうと言う事。そして琉都の理性の網は、まだそれなりにキャパシティが残っていると言う事。
「だめ…ですか?」
次第にクゥリスの目が潤み始めてきた。
ここで断れば泣き出してしまうのだろうか、と琉都は思った。そんな表情は見たくない、とも。
「一回だけな」
おかしいほどかすれてしまった声で、琉都はどうにかそう言った。そして、ゆっくりと顔を近づける。
クゥリスは目を閉じたが、背伸びしている。
琉都が思ったよりも早く、柔らかい唇の感触があった。
(…柔らかい…それに、何て言うか、気持ちいい…)
もっと、と言う己の欲望を抑えるべく、3秒にも満たない短い間だけくちづけし、琉都はそっと離した。クゥリスもそれで満足したのか、爪先立ちするのをやめる。
気恥ずかしさなどもう薄れ、琉都とクゥリスは真っ赤な顔のまましばし見詰め合っていた。
と、クゥリスの目から涙が零れ落ちる。とめどなく、次々と、溢れるように。
「…あれ? 何で? 何で私、泣いてるんですか?」
自分でそれを制御できていなかったのか、クゥリスは困惑したようにそう言った。
「それは俺が聞きたい」
琉都は普段通りのクールな答えを、普段より数段おろおろしながら返した。
「俺はクゥに泣いてほしく無い」
「わかってます。 ……あぁ、やっとわかりました。これ、うれしい涙なんですよ……」
クゥリスは今までのどの笑みよりも幸せそうな笑みを見せながら、泣いていた。
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夜にはクゥリスの涙の発作も収まって、普段通りの生活に戻れていた。
琉都が今夜作ったのは、アーカイア風お好み焼きだった。幸いにもキャベツと肉と小麦粉と卵があったから作ってみたそうである。
六膳分の箸があったにはあったのだが、一応フォークも出しておいてある。だがそれ以前の問題があったようだ。
「…美味しい…」
「おいしーっ!」
そう言いながらぱくぱくと箸で食べているのは、リナとソフィアだけである。
他は箸を使い慣れていないのでフォークを使っているのだが、やはり純和風の食べ物とは相性が悪いらしい。切ろうにも切れず、刺そうにも持ち上げられず、食べようとすれば一苦労。
「なあ、琉都さんよぉ。これ、本当に食い物なのか?」
半ば諦めかけながら、姉が箸を器用に使っているのを驚嘆の目で見つつリサが訊ねた。
琉都は小さく分けた自分のお好み焼きを食べながら、一つ頷く。
「もちろん。俺は、料理なのに食えないものは作らない主義、だからな」
「だとしたら、えらく無愛想な料理だねえ。このハシとやらも」
ルィニアは箸をどうにか使いこなそうと、無理に指の間に押し込みながら文句を言った。まだ手をつけてもいないので、八つ当たりも良い所である。
「箸くらい二回目で使えるようになれよ。こう持てばいいだけの話なんだから」
ぱちぱちと箸先を打ち鳴らしながら、琉都は呆れたように言い放つ。
しかし仕方ないのかも知れない、西洋人が基本に来ているアーカイア人には、西洋人のような手先の不器用さがあるのかもしれないから。
ちなみに箸と言う万能食器を使うのは、中国周辺の漢字文化域の国々だけである。全くの蛇足だが。
「こう…ですね」
クゥリスは苦心の末にどうにか正しく箸を持つ事ができたらしく、ちょっとばかり動かし方が正式ではない(箸先を開いた時に箸の尻が交差している)ものの、どうにかお好み焼きを箸で小分けにして箸で掴む事に成功した。
「…ま、大体あってる。細かい事は言わないのがいいな」
琉都はそう言いながら、また一口。
しばし熱せられた鉄板の上でソースが焦げる音だけが、場の沈黙を破り続ける。
「…おかわり…」
すでに一枚目を食べ終わったのか、リナが平然とした顔で二枚目を要求した。琉都は自分の食べる手を一旦休め、タネの入ったボウルに手を伸ばす。
そしてタネを敷きながら、琉都はふと思い出したように口を開いた。
「っと。奇声蟲、確かこの辺りには35匹程度の群が一つ…だったな」
「そうさね」
箸を巧く使おうとやっきになりながら、ルィニアは頷いた。
「それだけではあるけれど、対抗手段が無いから呼ばれたと言う事さね」
「で、初日の半日でリサとリナが10匹、2日目でソフィアとルィニアがさらに10匹」
「そだよー」
やけに明るい声で答え、それからソフィアは二枚目を要求する。
琉都はタネを敷きながら、困ったように笑った。
「それじゃあ明日からやる事が無いな。今日、15匹よりも少し多く退治したぞ」
「マジかよ。凄えな、おい…」
リサは案外感動性なのだな、と琉都は思った。何故なら本気で驚いていたからだ。
「で、さしあたり明日から本格的にフォスィール遺跡に入ろうと思うんだが」
よいしょっ、と専用の調理器具でお好み焼きをひっくり返しながら、琉都はあっさりと言ってのける。
「あぁ、それならもう村長の許可はもらってあるさね。奏甲が入れる所もあるらしい」
同じくらいあっさりと、ルィニアも言い切った。
琉都は一つ頷くと、焼き上がったお好み焼きにソースを塗る。じゅぅっ、と音を立てて乗り切れなかったソースが焦げる香ばしい香いがたちこめた。
「そうなると、明日から本格的にトレジャーハンティングか」
「盗掘の間違いじゃねえといいんだけどな」
リサがそう言って嘲笑した瞬間、リナはホルスターからショットガンを抜き放った。
琉都は軽く笑いながらクゥリスと顔を見合わせ、それからもっと笑った。
とにかく明日からもっと面白くなりそうだ、と。